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日常恋愛オムニバス  作者: 陽ノ下 咲


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case29.満員電車

高校一年生の一之瀬(いちのせ)茉莉奈(まりな)は、通学時間、満員電車に揺られていた。隣に立つ男性に身体をぎゅうぎゅうと押され息苦しさを感じていると、茉莉奈の想い人の岩瀬(いわせ)遥紀(はるき)が間に割って入ってきて……。


拗らせ両片思いの二人の、満員電車での話です。

ぜひお読みください。

 高校一年生の一ノ瀬茉莉奈は、電車通学をしている。


 ホームに立ち、電車が滑り込んでくる音を聞くと、自然と一日が始まる感じがする。


 いつもの車両、いつもの窓際。電車の中から見える景色を、茉莉奈はぼんやり眺める。


 川の上をすべるように飛び立つ鳥や、団地の建物を過ぎて急に開ける空き地、遠くに見える高層ビルの群れ。夕方の帰り道には、燃えるような夕日が、街を金色に染め上げる。


 毎日同じ道を通っているのに、ほんの少しずつ景色が違う。電車の窓から眺めるその変化が、茉莉奈は好きだった。


 けれど、そんな余裕も、今朝はない。


 車両点検の影響でダイヤが乱れ、電車は普段の倍以上に混み合っていた。ホームのアナウンスが聞こえるたびに、乗客の溜息がこぼれ、そのぶん車内にも不機嫌な空気が満ちていく。


 茉莉奈は、ドア近くのわずかな隙間に立っていた。

 大人の背中や鞄に囲まれ、壁と人の間でぎゅうぎゅうに挟まっている。隣の男性に強く身体を押され、腕が押し込まれ、足のつま先すら動かせない。


 吊り革も持てず、必死でバランスを取っていると、足がぷるぷると震えてくる。

 汗ばんだ掌。熱い息。狭い空間に押し込まれた人の気配で、息苦しさが増していく。


(……きつい……もう無理……)


 次の駅に停車した瞬間、乗り込んでくる新しい人波に隣に居る男性ごと押され、茉莉奈の身体は後ろにぐらりと傾いた。


 そのときだった。

 ふいに、すっと身体が軽くなった。


 押されていた肩に、ふんわりとした空気が生まれる。

 誰かが、自分と隣の男性の間に、するりと割って入ったのだ。


 驚いて顔を上げると、目の前に岩瀬遥紀がいた。


 同じクラスの男子で、図書委員として一緒に活動している。物静かで、落ち着いた雰囲気があり、いつもさりげなく茉莉奈を助けてくれる優しい人。そして、そんな遥紀の事を、茉莉奈は好きになっていた。


 本の貸し借りのときに交わす小さな声、重い本を持ってくれた時に見せてくれたふっと微笑んだ顔、本の片付けの時に、ほんの一瞬触れた指先。

 そのひとつひとつが、心に残っていた。


 そんな遥紀が、茉莉奈のすぐ目の前にいる。 

 一瞬だけ、もしかして満員電車でもみくちゃになっている茉莉奈を見かねて助けてくれたんだろうか、と思いお礼を言いかけたが、そんな事をこの満員電車の中でわざわざするのは無理があるし、そもそもそれをしてくれる理由もない。


(たまたまこの場所に乗っただけだよね)

 

 そう思い直して、一瞬でも変な期待をしてしまった自分を少し恥じた。


 そして、囁ように声をかけた。


「お、おはよ、岩瀬くん。この電車だったんだね……」


 満員電車で話すには声を張れず、自然と遥紀の耳元に口を寄せてしまう。まるで秘密を打ち明けるみたいに。


 遥紀の肩が、びくりと跳ねた。


「……お、おはよう」


 掠れたような声だったけれど、確かに届いた。

 間近で見る遥紀の顔。少し長めの前髪の向こうに、黒く深い、遥紀の瞳が見えた。


(な、なにこれ……なんか……ドキドキする……)


 ただでさえ狭い車内で、今、ふたりの距離は限りなく近い。下手をすれば、指先が触れてしまいそうだ。


 その緊張の中、突然、車体がガタンと揺れた。


「……っ!」


 急ブレーキ。茉莉奈の身体が、大きく前に傾ぐ。足元は踏ん張れず、反射的に手を伸ばす暇もない。


 次の瞬間。


「……大丈夫か?」


 遥紀の声が耳元で響いた。

 気づけば、茉莉奈は遥紀の胸に顔をぶつけ、抱きとめられるような形になっていた。

 シャツ越しに感じる、彼の体温。しっかりと背中に回された腕。支えてくれる力の中に、優しさと、ほんの少しの緊張が混ざっていた。


「ご、ごめん……ありがとう……」


 顔を上げようとした瞬間、遥紀は咄嗟に右手で茉莉奈の目元を隠した。


「……今は見るな」


 その言葉の意味が一瞬わからなかった。


 けれど、手の隙間からちらりと見えた耳が、さっきよりもずっと赤くなっていて、茉莉奈の頬も、熱を帯びていくのがわかった。


 2人の間に、ふっと沈黙が落ちる。


 電車の中は依然としてぎゅうぎゅうのまま。


 視線を合わせることもできず、言葉もなく、ただ、遥紀の腕に支えられている。その事実に、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。


(……ふぁぁっ……すごく緊張する……)


 心臓がバクバクとうるさく音を立てる。

 遥紀も同じように、言葉を選んで黙っている。彼の手のひらから伝わる温もりが、ずっとそこにある。


 やがて、電車が最寄り駅に到着するアナウンスが流れた。


 人の波がゆっくりと動き始める。遥紀の腕が静かに離れ、ふたりは小さく一歩ずつ前へ進む。


「……ありがとね、さっき」


 満員電車の辛さとは全く違う理由で、頭に熱が登り少しへたってしまった茉莉奈が、やっとの思いでお礼を言うと、遥紀は「うん」と短く返して、ふっと笑った。


 その横顔が、少しだけ大人びて見えた。


 駅の改札を抜け、校門までの短い道を、ふたりは並んで歩いた。

 言葉は少ない。だけど、今朝の出来事だけが、ふんわりと胸の奥をあたたかくさせた。


 届きそうで届かない、この距離。


 けれど、だからこそ、今日のあの一瞬は、かけがえのないものだった。




side遥紀


 岩瀬遥紀は、一ノ瀬茉莉奈の事はどんな人混みの中でも見つけられる自信がある。大袈裟でも比喩でもなく、どんな雑踏の中でも、彼女だけが輝いて見える。


 それはもはや、“恋”という可愛いものではなく“執着”に近い感情のような気がする。


 茉莉奈は、決して目立つ存在ではない。むしろ、声が小さくて、目立たないタイプだ。でも朗らかで優しい空気をまとい、いつも自然に、周りに溶け込んでる。

 彼女のまとった柔らかい空気が、その空間を穏やかなものにする。


 その場に居ない時でさえ、柔らかい声で穏やかに微笑むその顔が、ふとしたときに思い出される様になった。いつのまにか、遥紀は彼女の事を目で追うようになっていた。


 

 朝の通学時間。遥紀は、電車の揺れに身体を預けながら、満員電車に揺られていた。

 彼の視線は、満員の車内に入った瞬間から、ある一点に注がれていた。


(あそこに、一ノ瀬がいる)


 電車の入り口近く、狭い隙間に押し込まれるようにして立っている。人と壁に挟まれて、身動き一つ取れないような状態。吊り革にも手が届かず、肩が不自然な角度に浮いている。


(……きついだろ、そんな場所)


 それに、茉莉奈に身体を押し付けている男も、それが故意でなかったとしても、気に入らない。


 次の駅に停車した時、新たに乗り込んでくる新しい人波に押され、茉莉奈の身体が隣の男性ごと、ぐらりと傾いた。


 苦しそうにしているのを見てしまったら、もう黙ってはいられなかった。電車が停車する瞬間、遥紀は無言で人波をかき分け、彼女の隣へ身体を滑り込ませた。

 ぐっと肩を入れ、彼女とその隣に立つ男性の間に身体を差し込む。肩が押され、腰がぶつかる。だが、構わない。


(ここだけは、俺が守る)


 強引だと思われてもいい。気持ち悪がられても仕方ない。彼女が苦しそうに息をしているのを見て、何もしないなんて出来なかった。


 ふと、視線が合った。


 彼女は、少し驚いたように目を見開き、それから、ふわりと微笑んだ。


「お、おはよ、岩瀬くん。この電車だったんだね……」


 満員電車の中では普通の音量で会話などできるはずもなく、茉莉奈は、遥紀の耳元にそっと口を寄せた。

 言葉は小さく、耳にふれるように優しく届いた。


(……やめてくれ、そんな声で……そんな距離で)


 肩が跳ねる。心臓がひとつ、大きく跳ねた。

 呼吸が乱れそうになるのを、必死で抑える。


「……お、おはよう」


 かすれた声。自分でも、情けないと思うほど頼りない返事だった。


 こんなに好きだとバレたら、絶対に引かれる。それが怖い。彼女の何気ない一言に、仕草に、ずっと勝手に揺さぶられている。これ以上は、悟らせたくない。


 そう思った次の瞬間、電車が急ブレーキで揺れた。


「っ……!」


 彼女の身体が傾く。とっさに、腕を伸ばして抱きとめた。茉莉奈の身体が思ったよりも軽くて、柔らかくて、小さかった。

 そのまま、自分の胸に顔を埋めるように倒れ込んでくる。

 息をのむ。

 ふわりと、甘い茉莉奈の香りが、鼻腔をくすぐる。


 一瞬、思考が停止する。


「……大丈夫か?」


 何とか絞り出す様に聞いた。


「ご、ごめん……ありがとう……」


 彼女が顔を上げようとするのがわかった。


(……見られたら、終わる)


 情けない顔をしているのがわかった。きっと今、自分は真っ赤になっている。だから、右手で目元を隠して、震える声で言った。


「今は見るな」


 ……見ないでくれ。こんなふうに好きになって、毎日、目で追って、声に反応してしまう自分を。


 彼女には、もっと自然で優しくて、余裕のあるやつが似合う。でも、どうしても、何度でも目で追ってしまう。


 彼女の笑顔が、胸に焼き付いている。そんなの、もう好きになるしかなかった。


 電車は駅に到着する。

 離れなければならない時間が来る。


 彼女がふっと身体を離す。改札へと歩き出す。遥紀は平静を装って横に並んで歩いた。


「……ありがとね、さっき」


 そう言ってくれた彼女に、精一杯、短く返す。


「……うん」


 その言葉に、どれだけの意味が詰まっているのか、彼女は知らない。


 けれど、それでいいと思った。


 触れた身体の感覚も、耳元で囁かれた密やかな声も、誰にも渡せないくらい、大切なものだった。


 遥紀は、先程茉莉奈に触れた両手を、静かにぐっと握りしめた。


見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!


本作は

case6. 両片思いな二人-side茉莉奈

case7. 両片思いな二人-side遙紀 の両片思いの二人の話です。


遙紀×茉莉奈の話のバックナンバー

case6. 両片思いな二人-side茉莉奈

case7. 両片思いな二人-side遙紀

case13.独占したい、その笑顔

case18. 鋭い君が、鈍感なのは

case24.雨宿り


こちらも合わせてお読み頂けると嬉しいです。

ぜひお読みください!


陽ノ下 咲

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