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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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天からの声、そしてキックオフ

20.ブラジル戦の朝――「熱の中で、静かに立つ」


カーテンの隙間から、ブラジルの朝の光が差し込む。

強い。まっすぐで、隠しようがない光だった。


ベッドの上で目を開けた柚月は、しばらく天井を見つめた。

眠りは浅かった。

けれど、不思議と身体は軽い。


(来たな。)


静かに起き上がる。

窓を開けると、少し湿った空気と遠くのざわめきが流れ込んできた。

開催国の朝は、もうすでに“試合の日”の空気をまとっている。



ロビーに降りると、選手たちはすでに集まり始めていた。

誰も騒がない。

誰も浮かれない。


でも、その目は全員、同じ方向を見ていた。


ブラジル。



1.情報は、もう“身体の中”にある


朝食会場。

栄養士が並べたメニューを前に、選手たちは黙々と食事を取る。


卵。

パン。

スープ。

フルーツ。


テレビには昨日のハイライトが流れているが、誰も見ていない。

必要な情報は、もうすべて頭に入っている。

•ルアナ・フェレイラの視線の使い方

•ベアトリス・シルヴァのカットイン

•カロリーナ・ジェズスの裏抜け

•マリアナ・コスタのゴール前の嗅覚

•イザベラ・モラエスの空中戦

•カミーラ・ロシャの反応速度


それらは、もう“映像”ではなく、

イメージとして身体の中にある。


柚月はパンをちぎりながら、小さくつぶやく。


「……もう、見えてるな。」


美里がコーヒーを一口飲んで答える。


「うん。

 あとは、それをピッチでやるだけ。」



2.最終ミーティング――原町の“余白”


ミーティングルーム。

だが、昨日までとは空気が違う。


原町監督は、ホワイトボードの前に立たなかった。

腕も組まない。

ただ、選手たちを見ている。


少しの沈黙のあと、静かに口を開いた。


原町監督


「……もう、わかってるよな。」


誰も答えない。

でも、全員がうなずいた。


「ブラジルは強い。

 開催国で、フィジカルもある。

 勢いもある。」


一拍。


「でも、それ以上でもそれ以下でもない。

 サッカーの試合だ。」


岩出コーチが補足する。


岩出コーチ


「昨日までで、やることは全部共有した。

 今日新しく何かを足すことはない。

 むしろ、削る。」


スクリーンに、シンプルな3つの言葉が映る。

•中央を閉じる

•左右に振る

•ズレを刺す


岩出コーチ


「これだけ。

 増やすな。迷うな。」



3.戦術の最終確認


原町が指で空中にラインを描く。


原町監督


「向こうは、最初から飛ばしてくる。

 絶対に来る。

 歓声も、勢いも、全部使ってくる。」


柚月が静かに聞く。


「前から全部取りに来ますね。」


「来る。

 でも、それは“勝ちに来てる”っていうより、

 “流れを作りに来てる”。」


美里が言葉をつなぐ。


「流れに乗せない。」


「そう。」


原町は、短くうなずいた。



守備のポイント

•ルアナに前を向かせない

•サイドは“中だけ消す”

•無理に奪いに行かない


攻撃のポイント

•サイドチェンジを増やす

•早く出さない、引きつける

•2本目で仕留める



原町監督(最後の一言)


「いいか。

 勝ちに行くな。

 試合をやりに行け。」


少しだけ、間を置く。


「その結果が、勝ちになる。」



4.コーチの言葉――“余計なものを持つな”


岩出コーチが最後に前へ出る。


岩出コーチ


「一個だけ言っとく。

 余計なもの持ってピッチ入るな。」


「観客。

 開催国。

 相手の強さ。

 全部、頭に入れすぎると動きが遅れる。」


葵が小さく笑う。


「全部、音になりますね。」


「そう。

 雑音だ。

 必要なのは、味方の声だけ。」



5.出発前――静かな決意


ミーティングが終わると、選手たちはゆっくりと立ち上がる。

誰も大声を出さない。

誰も気合いを叫ばない。


でも、その背中には、はっきりとした意思がある。


「行こう。」


美里の一言で、全員が動き出す。



6.柚月の心の中――ユリへ


バスに乗り込む前、

柚月は一瞬だけ立ち止まった。


空を見上げる。


(ユリ。)


(ここまで来たよ。)


(ブラジル。

 開催国。

 たぶん、めちゃくちゃ熱い試合になる。)


深く息を吸う。


(でも大丈夫。

 うちら、もう“わかってる”。

 何をすればいいか。)


ほんの少しだけ笑う。


(だから見てて。

 ちゃんと、最後に笑うから。)


風が、頬をかすめた。



7.スタジアムへ


バスが動き出す。

窓の外には、黄色と緑の波。

ブラジルのサポーターたちがすでに集まり始めている。


実況(現地中継)

「さあ、なでしこジャパンがスタジアムへ向かっています!

 開催国ブラジルとの大一番、まもなくです!」


解説

「ここからはもう、準備の勝負じゃありません。

 どれだけ“自分たちでいられるか”、そこに尽きます。」



8.最後の準備


スタジアムに到着。

ロッカールーム。

ユニフォームが整然と並んでいる。


背番号。

名前。

すべてが、ここまでの積み重ねの証。


柚月はユニフォームを手に取る。


(ここで負けるわけにはいかない。)


(目指してきたのは――

 2011年以来の優勝。)


袖を通す。

胸のエンブレムに手を当てる。



9.ピッチへ


トンネルの先、

光と歓声が渦巻いている。


ブラジルの大歓声。

地鳴りのような音。


でも――


なでしこジャパンの足取りは、乱れない。


美里が振り返る。


「行くよ。」


柚月がうなずく。


「うん。」


葵がグローブを叩く。


「全部止める。」



その一歩が、踏み出される。


ベスト8。

開催国ブラジル。

負けたら終わり。


それでも――


彼女たちは、

静かに、まっすぐに、ピッチへ向かった。




21.天からの声、そしてキックオフ


トンネルの手前。

ロッカールームから出た空気は、もうスタジアムの熱を帯びていた。

歓声は壁を震わせ、床のコンクリートまでわずかに響いている。

黄色と緑の波。

開催国ブラジルの巨大なうねりが、ピッチの向こうで待っていた。


けれど、その熱の中で、

なでしこジャパンの時間は、まだ静かだった。


柚月はベンチ脇に置かれた小さな遺影へ目を向ける。

徹が、大切そうにそこへ立てかけてくれたものだ。

フレームの中のユリは、やわらかく、いつも通りの優しい笑みを浮かべている。

まるで、「何そんな難しい顔してんの」とでも言いたげに。


そのときだった。

風が、ふっと一筋、ベンチサイドを抜ける。


柚月だけではない。

美里も、葵も、日比谷も、ほんの一瞬だけ同じ方向を見た。

誰も言葉にはしない。

でも、確かに感じた。

声が、届いた気がした。


ユリの声

「みんな。大丈夫っちゃ。

同じ人間がやるんだから。

自分たちが今までやってきたこと、信じでボール蹴ればいいべ。」


その言葉は、不思議なくらいまっすぐだった。

大げさでもなく、奇跡を語るでもなく、

ただ“いつものユリ”の声で、そこにあった。


柚月の喉の奥で、熱いものが小さく動く。

でも涙にはならない。

いま必要なのは、泣くことじゃない。

前を向くことだ。


「……うん。」


誰に聞かせるでもなく、柚月は小さく答えた。


そして一歩、遺影の前まで進む。

しゃがみこみ、フレームの角にそっと手を添える。

ほんの一瞬だけ目を閉じて、

ユリの写真に、軽くキスをした。


「行ってくる。」


仙台弁で言うなら、きっとこうだった。


「見ででけろな。うちら、やっから。」


立ち上がる。

胸の中のざわめきが、少しずつ一本の線になっていく。

徹がその横で、何も言わずにうなずいた。

その目もまた、「大丈夫だ」と言っていた。


美里が後ろから声をかける。


「柚月、行くよ。」


「うん。」


葵がグローブの甲を一度だけ叩き、

短く笑う。


「ユリも見てるし、今日はいつも以上に止めなきゃな。」


日比谷が肩を回しながら言う。


「じゃあ私は、ちゃんと走って、ちゃんと置きます。」


その一言に、小さな笑いが起こる。

緊張の中に、いつもの空気が戻る。

それが、なでしこジャパンの強さだった。


トンネルの出口が近づく。

光が、まぶしいほど白い。

その先には、開催国ブラジルの大歓声。

巨大なうねり。

けれど、そこへ踏み込む足取りは、誰ひとり迷っていなかった。


主審がボールの位置を確認する。

両チームのキャプテンが最後の握手を交わす。

スタンドの音は、もう言葉にならない。


柚月はセンターサークルの少し外、

いつもの位置で一度深呼吸をした。

芝の匂い。

夜の湿気。

歓声。

胸の鼓動。


その全部を、身体の中へ入れる。


(同じ人間がやるんだ。)


ユリの声が、まだ残っている。


(だったら、やれる。)


主審が口元へ笛を運ぶ。


ピィィィィッ――。


高く、鋭い合図が、ブラジルの夜空を切り裂いた。


ベスト4をかけた戦いが、始まった。


開催国ブラジル。

なでしこジャパン。

負けたら終わりの90分。


けれどその始まりは、

恐怖でも、気負いでもなかった。


それは、

自分たちが積み上げてきたものを信じて、

ただボールを蹴るところから始まる戦いだった。

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