ロサンゼルスへ
第74章 ロサンゼルスへ
代表18人が決まった。
そして日本女子代表は、いよいよロサンゼルスへ向けて出発する日を迎えた。
空港。
出発ロビー。
選手たちはそれぞれ家族や関係者に見送られていた。
大船柚月の隣には、徹がいる。
スーツケース。
代表バッグ。
そして胸の奥には、ずっと消えなかったもの。
パリ。
あの大会で届かなかったメダル。
柚月は出発案内を見ながら、少しだけ黙っていた。
徹が聞く。
「緊張してる?」
「ちょっとな」
「珍しい」
「オリンピックだぞ」
柚月は笑う。
だが、その笑顔の奥には、別の感情もあった。
悔しさ。
四年前。
確かに世界と戦った。
勝ちたかった。
メダルを取りたかった。
でも。
届かなかった。
その記憶だけは、ワールドカップで世界一になっても消えなかった。
1 「あの悔しさは、オリンピックでしか」
出発前。
代表選手たちは空港内の一室に集まった。
パリ大会を経験した選手。
森岡美里。
大船柚月。
伊達葵。
藤森彩香。
宮野沙季。
ほかにも、あの舞台を知る選手がいる。
早川莉奈や長崎美琴のように、今回が初めてのオリンピックになる若い選手たちは、先輩たちの表情がいつもと少し違うことに気づいていた。
早川が柚月へ聞く。
「やっぱり、ワールドカップとは違いますか」
柚月は少し考える。
「違うっちゃ」
「どんなふうに?」
柚月はすぐには答えなかった。
パリの景色。
スタジアム。
選手村。
他競技の日本代表。
負けた試合。
終わった瞬間。
あのとき胸の中へ残ったもの。
「ワールドカップで優勝してもさ」
柚月は静かに言う。
「パリの悔しさは消えなかった」
早川が黙って聞く。
「だって、あれはワールドカップで負けた悔しさじゃねぇから」
森岡も会話へ入る。
「オリンピックで負けた悔しさなんだよね」
柚月がうなずく。
「んだ」
そして。
「だから、あの悔しさはオリンピックでしか取り返せねぇと思ってる」
2 雪辱
森岡も同じだった。
「私もそう」
キャプテンとして。
あの大会。
勝たせられなかった。
もっとできたんじゃないか。
違う声のかけ方があったんじゃないか。
一つの判断。
一つのパス。
一つの守備。
何度も思い返した。
伊達葵も言う。
「私も、止められたんじゃないかってずっと思ってるシュートがある」
藤森も。
「守備の一歩、あと半歩寄れてたらって」
宮野も静かにうなずく。
パリを経験した選手たちには、それぞれ残っている場面があった。
だから。
今回のロサンゼルスは、単なる新しい大会ではない。
四年前から続いている戦いでもあった。
柚月は言う。
「雪辱したい」
森岡がうなずく。
「うん」
「今度こそ、メダルじゃなくて金」
誰も笑わなかった。
全員、本気だった。
3 ただし、過去だけで戦わない
そこへ原町監督が入ってくる。
会話を少し聞いていたらしい。
「雪辱はいい」
選手たちが見る。
「ただし、パリのためだけに戦うな」
柚月が顔を上げる。
原町監督は続けた。
「あの悔しさは力になる」
「はい」
「でも、ロサンゼルスで戦う相手は、パリの相手じゃない」
その通りだった。
選手も変わっている。
戦術も。
監督も。
自分たち自身も。
過去を取り返すためだけに戦えば、今を見失う。
「悔しさは持っていけ。ただし、見るのは今だ」
柚月がうなずく。
「分かりました」
パリを忘れない。
でも。
パリに縛られない。
4 徹との別れ
搭乗時間が近づく。
柚月は徹のところへ戻った。
徹が言う。
「じゃあ」
「行ってくる」
「楽しんでこい」
柚月が笑う。
「だから、金メダル取りに行くんだぞ」
「だから楽しんでこい」
「意味分かんねぇ」
徹も笑う。
「楽しめるくらいの余裕がある方が、お前はいいプレーする」
柚月は少し黙る。
「……そうかもな」
徹が続ける。
「パリのこともあるだろ」
柚月の表情が少し変わる。
「んだ」
「でも、四年前のお前と今のお前は違う」
「分かってる」
「じゃあ、今のお前で行け」
柚月はうなずいた。
「金、持って帰る」
「待ってる」
二人は短く抱き合う。
そして柚月は代表の仲間たちのもとへ向かった。
5 機内
長いフライト。
早川は眠っている。
美琴もイヤホンをつけたまま目を閉じている。
森岡はタブレットで試合映像を見ていた。
柚月は窓の外。
雲。
その向こう。
アメリカ。
ロサンゼルス。
自分が本当にそこへ向かっている。
右ふくらはぎを一度だけ軽く触る。
あのけが。
ワールドカップ決勝。
リハビリ。
代表復帰。
予選。
全部。
ここへつながっていた。
柚月は小さくつぶやく。
「来たなぁ」
森岡が隣から聞く。
「何が?」
「オリンピック」
「まだ着いてないけど」
「そういう意味じゃねぇっちゃ」
森岡が笑う。
6 ロサンゼルス到着
長い移動を終え。
日本代表はロサンゼルスへ到着した。
空港を出る。
強い日差し。
乾いた空気。
歓迎の表示。
五輪マーク。
早川が思わず立ち止まる。
「本当に来た……」
美琴も周囲を見る。
「すごい」
柚月にとっては二度目のオリンピック。
でも。
まったく同じではない。
パリ。
ロサンゼルス。
場所も違う。
立場も違う。
あのときは挑戦者。
今回は。
ワールドカップ王者。
世界中から研究される側。
7 選手村
選手村。
さまざまな国の選手。
陸上。
水泳。
柔道。
バレーボール。
体操。
バスケットボール。
世界中のトップアスリートが同じ場所で生活している。
早川が目を輝かせる。
「すごい……」
柚月が笑う。
「最初はみんなそうなる」
「柚月さんも?」
「なった」
「意外」
「なんでだっちゃ」
少し先。
日本選手団。
ほかの競技の選手と挨拶。
「頑張ってください」
「そちらも!」
オリンピック独特の空気。
サッカーだけの大会ではない。
日本という一つの代表団として戦う。
それが、柚月には懐かしくもあった。
8 パリを思い出す
部屋へ荷物を置く。
柚月は窓の外を見る。
ふと。
パリの選手村を思い出した。
あのとき。
大会前。
同じように未来を想像した。
メダル。
表彰台。
笑顔。
でも。
届かなかった。
柚月はベッドへ座る。
少しだけ目を閉じる。
そのとき。
胸の中で、ユリの声。
「また考えてるべ」
柚月が苦笑する。
「考えるっちゃ」
「パリ?」
「んだ」
「じゃあ今どこ?」
柚月は目を開ける。
ロサンゼルス。
「分かってるよ」
9 パリ組の夜
夕食後。
森岡。
柚月。
伊達。
藤森。
宮野。
パリを知る選手たちが、少しだけ集まった。
誰が言い出したわけでもない。
自然と。
森岡が口を開く。
「明日から、本当に始まるね」
伊達が言う。
「四年前、最後の試合のあと、もう一回オリンピック来たいって思った」
藤森も。
「私も」
宮野がうなずく。
柚月は言う。
「うちは金取るまで終われねぇって思った」
森岡が笑う。
「それ柚月らしい」
でも。
笑ったあと。
静かになる。
柚月は続ける。
「あの悔しさ、オリンピックでしか取り返せないと思う」
伊達がうなずく。
「私も」
森岡も。
「じゃあ、取り返そう」
その言葉。
雪辱。
ただし。
復讐ではない。
過去への怒りでもない。
四年前の自分たちを超える。
その意味での雪辱だった。
10 初オリンピック組
少し離れたところで、早川と美琴が聞いていた。
早川が言う。
「私たちはパリ知らないけど」
柚月が見る。
「うん」
「その悔しさも一緒に背負っていいですか」
柚月は少し驚く。
森岡が先に笑う。
「背負わなくていい」
早川が戸惑う。
森岡は続ける。
「でも、知っててほしい」
パリの悔しさを若手へ押しつける必要はない。
早川たちには、早川たち自身のオリンピックがある。
柚月も言う。
「莉奈は莉奈の大会やればいいっちゃ」
「でも一緒に金取りたいです」
「それは一緒」
美琴も。
「私も」
柚月が笑う。
「じゃあ、そこだけ共有だな」
金。
11 最初のミーティング
翌日。
日本代表。
ロサンゼルスで最初の全体ミーティング。
スクリーン。
最初に。
金メダルの写真。
選手たちが見る。
原町監督はその画像をすぐ消した。
「金メダルを見るな」
早川が少し驚く。
柚月はなんとなく予想していた。
「最初に見るのは」
次の画面。
NETHERLANDS
オランダ。
「これだ」
一次リーグ初戦。
世界屈指の技術。
身体の強さ。
前線の決定力。
ボール保持。
「金メダルは六試合先にある」
原町監督は言う。
「今そこを見ても届かない」
見るのは。
オランダ。
12 ワールドカップ王者
映像分析。
オランダの選手たちは、日本を徹底的に研究していた。
柚月。
早川。
森岡。
正木。
日本のサイドチェンジ。
カウンター。
低いクロス。
中盤の速度変化。
ワールドカップ王者。
だから。
対戦相手は最初から最高レベルの準備をしてくる。
原町監督が言う。
「今大会、日本は追う側じゃない」
追われる。
研究される。
倒したいと思われる。
それが世界王者。
柚月が静かにうなずく。
「面白いじゃん」
早川が見る。
「プレッシャーないんですか」
「あるっちゃ」
「でも?」
「あるから面白い」
13 オランダの特徴
オランダ。
中央。
ボール保持。
長い距離でも正確なパス。
前線。
高さ。
サイド。
一対一。
そして。
日本が前へ出たあとの背後を狙う。
岩出コーチが言う。
「無理に奪いに行くと、一枚外されたあとが危険です」
宮野がうなずく。
「中央で引っかけたい」
「そのためには?」
柚月が答える。
「外へ追い込む」
中央を閉じる。
外へ。
そこで人数をかける。
奪う。
そこから。
日本の攻撃。
14 大会前日の練習
練習場。
芝。
青空。
五輪マーク。
柚月はボールを蹴る。
右ふくらはぎ。
問題なし。
一週間前の負荷テストもクリア。
スプリント。
切り返し。
接触。
翌日の回復。
すべて良好。
だが。
安心しすぎない。
一日ずつ。
試合ずつ。
それは、けがを経験した柚月が学んだことだった。
15 森岡と柚月
練習後。
森岡が柚月へ言う。
「パリのこと、まだ考えてる?」
柚月は少し考える。
「考えてる」
「怖い?」
「ちょっと」
森岡がうなずく。
柚月は続ける。
「でもさ」
「うん」
「怖いままでいいと思ってる」
森岡が見る。
「怖くないふりするより」
「そうだね」
怖さがある。
だから準備する。
だから確認する。
だから仲間を見る。
16 開幕前夜
夜。
柚月はベッドへ入る前。
ユリの写真を見る。
「明日だぞ」
胸の奥。
「初戦?」
「オランダ」
「強い?」
「めっちゃ強い」
「じゃあ面白いべ」
柚月が笑う。
「お前もうちと同じこと言うなぁ」
少し間。
「ユリ」
「ん?」
「パリの悔しさ、取り返してくる」
胸の中。
「パリの柚月を助けに行くんじゃねぇべ」
柚月が黙る。
「今の柚月が、今の試合勝てばいい」
柚月は静かに笑った。
「んだな」
17 雪辱の本当の意味
パリを忘れる必要はない。
悔しさも。
涙も。
届かなかったメダルも。
全部。
持っていけばいい。
でも。
過去へ戻ることはできない。
取り返すとは。
同じ場所へ戻って結果を書き換えることではない。
あの経験を持った自分が。
次の舞台で。
今度は勝つこと。
それが。
柚月たちの雪辱だった。
そして翌日。
ロサンゼルスオリンピック女子サッカー。
一次リーグA組。
日本対オランダ。
そのキックオフを迎える。
次回予告
第75章「世界王者の初戦」
ロサンゼルスオリンピック。
女子サッカー一次リーグA組。
日本対オランダ。
ついに開幕。
パリを知る選手たちは雪辱を胸に。
初めてオリンピックを戦う早川莉奈、長崎美琴、高橋結衣たちは、自分たちの最初の一歩を踏み出す。
しかしオランダは日本を徹底分析していた。
大船柚月へ前を向かせない。
早川莉奈のドリブルには二枚。
正木静香には背後を与えない。
森岡美里の二列目からの飛び出しも警戒。
開始直後から、日本はワールドカップ王者として真正面から狙われる。
そして前半。
オランダの強烈なフィジカルとボール保持に、日本が押し込まれる時間が続く。
伊達葵が最初の決定機を止める。
藤森彩香が身体を張る。
柚月は仲間へ叫ぶ。
「慌てんな! 相手が何してるか見ろ!」
追われる立場になって初めて分かる、世界王者の重さ。
それでも。
日本は一つずつ答えを探し始める。
次回、
第75章「世界王者の初戦」
四年前の雪辱も。
金メダルへの夢も。
すべては、この最初の90分から始まる。




