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第百三十七話 急性大動脈解離15

 胸骨正中切開を行う。以前、アマンダ婆さんの手術をした時には道具が全くない状態で、胸骨を切るのにも苦労をした。さすがに道具が揃ってきたからと言って電動のこぎりがあるわけではないために、今回も糸ノコを利用して胸骨を切っていくわけではあるけど、それでも色んな道具があればやりやすさも違う。


「心膜切開の前に、足から送血管を入れるよ」


 人工心肺とは、心臓を一時的に止めるために使用する機械である。基本的には心臓からすぐ上にある上行大動脈じょうこうだいどうみゃくを完全に潰して遮断し、空気が入らないようにして、その中に血液を送り込む。右心房へと戻ってきた血液を吸い出して、人工肺で酸素を入れる。その他にもさまざまな役割をもっており、一言で言うことは難しいほどに複雑な機械だった。

 それを魔道具と魔法で行う。モニターの代わりに心眼を使い、動力は魔力を用いる。

 しかし、急性大動脈解離が起こっており、上行大動脈がいまにも破裂しそうな場合には別の血管から血液を送り込む準備をしなければならない。それは手に血液を送る血管である腋窩動脈えきかどうみゃくか、足へ行く血管である総大腿動脈そうだいたいどうみゃくのどちらかであることが多く、今回は右足の総大腿動脈そうだいたいどうみゃくを選んだ。


「心タンポナーデにはなっていないけど、血液の漏出ろうしゅつはあるから急ぐよ」


 心タンポナーデというのは心臓を包んでいる心膜という袋の中に血液などの液体が満たされてしまって心臓が圧迫される状態のことを言う。直接的に心臓や大動脈が傷ついて血が漏れることもあれば、急性大動脈解離の際には染み出すように血液が漏れる現象が起こり穴が開いていないこともある。どちらにせよ圧迫された心臓からは十分な量の血液が送られなくなるために急いで解除しなければならない。

 しかし、解除の方法というのは心膜を切開して中の圧力を逃がしてやる方法なのであるが、その時に漏れた血液を回収して血管内に戻してあげる方法がなければあっという間に出血多量となってしまう。だから送血管を始めに動脈の中に挿入することで人工心肺の中に血液を吸い上げて血管の中に戻す方法を確立させておく必要があった。輸血がまだないこの世界ではそれが重要となってくる。


「レナ、総大腿動脈そうだいたいどうみゃくを一時的に遮断するから、血液が固まりにくくなる薬を入れてくれ」

「分かった」


 右の足の付け根の部分を切り、総大腿動脈そうだいたいどうみゃくの周囲を剥離はくりして血管を露出させていく。針を刺して、中にやわらかい針金を入れたのちに針金だけ残して針を抜く。送血管はかなり太いので針の穴だけでは入れることができない。そのために何度か太さの違うダイレーターとよばれる穴を広くするための棒を入れては抜いていく。数種類作っておいたダイレーターを細い順に入れて送血管とあまり太さが変わらないものが挿入できれば、次は送血管の番である。血管内に十分挿し込んだのちにもともと周囲に縫い付けてあった糸を絞って結んで固定した。


「送血管を入れたよ。人工心肺の準備はできているかい?」

「いつでもいけるわ」


 ヴェールの返事を聞き、送血管の中に空気が入らないように人工心肺から伸びてきている管に装着する。多少入ってしまった空気を側管に誘導して注射器を使って完全に取り除いた。

 いつもの手術と違って手術野には多少の出血がある。すこしでも回収して体に戻したいのでそれらはガーゼで吸い取って最終的に水を混ぜて浄化ウォッシュをかけて人工心肺に戻すようにミリヤにお願いしていた。


「拍動を確認してくれ」

「いい感じに動いているわよ」


 心臓の拍動が血液を伝わって人工心肺まで届いていることを確認する。これで心臓から血管から人工心肺まで一つの空間となったため、人工心肺側で圧力をかけたり下げたりすることが可能となった。もちろん、吸い出した血液を送り込むことができる。


「それじゃあ、心膜切開だ。血液が漏れているから人工心肺側に吸引して浄化ウォッシュをかけてから血管内にもどしてくれ」

「了解したわ」


 まだ、ヴェールはなんとかついてきてくれている。おそらくは手術中の細かい調整などは僕が指示を出さないといけないだろう。しかし、そんな余裕はあるのだろうか。


 心膜を切開するとそれなりの量の血液が噴き出してきた。先に金属の筒をつけたスライムゼリー製の管を使ってそれらを一滴残らず回収する。ノイマンが踏んでいる足踏みふいごの先は人工心肺に続いていた。ある程度回収できたらヴェールが浄化ウォッシュをかけて人工心肺内で循環している血液に加えることができるようになっている。この機構は現代日本で使われている人工心肺でも同じようなものがある。


「これは本当にロンドルさんがいなければ間に合ってなかったね」

「ま、前に見たアマンダさんのとは全然違います……」


 僕のほかに解離した上行大動脈を観察できたのはもちろんミリヤが最初である。以前に行ったアマンダ婆さんの手術の際に見た上行大動脈はほぼ正常であったが、解離して外膜と中膜の間に血液が入り込んだ大動脈というのは動いていない血液の色、つまりはどす黒く変色見える。さらには解離したことによって拡大した上行大動脈が今にも破れて大出血するかもしれないという恐怖はなかなか押しとどめることができない。


「解離した部分はまだ冠動脈にまでは届いていない。さらにはきちんと断端に回復ヒールをかけることができれば十分に助かる勝算はあるよ」

「は、はい……」

「焦らず、でも急ごう。血液がどんどん壊れて貧血が進行してしまう」


 本当は貧血だけではなく凝固因子ぎょうこいんしとよばれる血液を固める成分も消費され続けている。そのために急性大動脈解離の手術では大量の輸血が必要となる場合も多い。ただでさえ人工心肺を使うだけでも血液中の細胞成分が壊れるというのに、急性大動脈解離ではすでに解離した部分で固まり始めている血液が多く、そのため血液がサラサラになりすぎて血が止まらないなんてことはむしろ普通に起こることだった。


「右心房に脱血管を入れるよ。」


 右心房を一部切開して脱血管を入れる。脱血管は数cm先まで側孔がついており、吸いすぎて右心房の壁まで吸い付かないように工夫をした。中の圧力で自然と人工心肺側に血液が流れるように手術台は高め、人工心肺は低い位置に設置している。内部に空気が全く入らないようにすればサイフォンの原理とやらで自然に血液を脱血することができる設計だったが、緊急時に手動で吸い上げることができるように足踏みふいごも取り付けた。これも現代日本と同じような機構である。動力が人力と魔法という違いはあるが、考え方は同じということだ。こちらも、もともと周囲に縫い付けてあった糸を絞って結んで固定した。手術中は外れないように注意しなければならない。


「人工心肺を開始してくれ」

「はい!」


 ヴェールが魔力を流すとゆっくりと血液が人工心肺を伝って流れ始めた。僕は心眼をつかってそれを観察する。きちんとした量の血液が流れているか、空気などは混ざっていないかを確認しなければならない。さらには人工心肺から流れる血液にムラがあれば臓器にダメージをきたすこともある。


「なんとか、回っているかな?」

「こちらも異常はないわ」


 定期的に血液の成分を鑑定するようにローガンに指示をだした。これで準備は整ったことになる。もし心臓が止まったとしても人工心肺から送られる血液だけで他の臓器は生きていくことができるはずだった。ほとんどの血液を脱血することで心臓と肺にはあまり血液が流れていない状態が確立した。


「それじゃあ、次は上行大動脈を遮断して切開するよ。そのあとは心筋保護液の注入だ」



 次は大動脈を切り、心臓を止める。

 自分の力量を超えるかもしれない手術がこれから始まると思うと、かなりのプレッシャーを感じた。

 ちらっとレナの方を見ると、目だけでうなずいてくれる。さあ、この手術を乗り越えるというのは僕にとってかなり重要な意味を持つことになるだろう。だけど、それは後で考えればいい。今は手術の事だけに集中するんだ。


「よし、大動脈遮断鉗子だいどうみゃくしゃだんかんしをください」


 僕の震える手に、それが渡された。


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― 新着の感想 ―
[一言] 凄くハラハラして続きが気になりすぎます(語彙力)
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