第百二十二話 食道癌8
胃管形成、現代日本ではそれほどに難しいとはされない作業も、異世界の設備が整っていない状況では過酷な作業だった。代わりにリンパ節に転移したがん細胞まで認識してしまう魔法というのがあるために、術後の結果は非常に分かりやすく良好なものになるのだろうと思う。どちらがいいかと言えば、やはり術後の経過がいいに決まっている。しかし、疲れた。
「さあ、あとちょっとだ」
作業を行っていない周囲のメンバーたちにも疲れが見え始めている。というよりも自分が作業を行わずに手術が進んでいくのを見ているだけというのは存外にも体力を使うものなのだ。それが進行が遅い局面ならばなおさらで、僕も学生時代に腕の悪い先生の手術を見学させられるというのは苦痛以外のなにものでもなかった。
形成できた胃管が胸部に押し込めることができるのを確認してから腹部を閉じる。まだ剥がしてなかった所が残っていると胸部から操作しなければならなくなるためにかなり難しい。するすると抵抗なく形成した胃管が胸部に収まったのを確認するまでは腹部を閉じるわけにはいかなかった。
腹部の閉創はローガンにやらせることも多い。教育の一環でやっているわけだが、ここで時間をかけてしまうと手術全体の時間が伸びてしまう。それは昏睡をかけなおして麻酔を継続することにつながるし、なによりも手術時間というのは単純に患者の負担になるために、早ければ早いほど悪くないというのが僕の考え方だ。
早ければいい、ではなく、悪くない。早くしたために正確さや丁寧さに欠けるなんていうのは本末転倒だけど、わざわざ遅くする必要は全くないし、遅くして悪影響が出る可能性があるという意味である。そもそも手術の腕が良ければ手術時間は短くなるものだ。僕はそれを目指している。
「よし、腹部を閉じたよ。消毒しなおして、また左側臥位と分離肺換気だ」
スコルの胸部に消毒をし直して最初に行っていた体勢へと替える。この時に気管支挿管のチューブがずれてしまったり点滴が抜けてしまったりすることもあるので細心の注意が必要だった。もちろん僕らは手の消毒をし直して術衣を着替える。消毒を始めとした滅菌操作は徹底的にやる。時間がかなりたっているから抗生剤が入った世界樹の雫もすでに三回ほど投与されていた。
点滴の量、薬の投与の間隔、足踏みによる呼吸の管理、尿道にいれた管から排出される尿量のチェック……、すべてレナがやってくれている。僕はたまに確認はするけれども、基本的にレナが管理してくれていると思うから手術に集中することができていた。すでにレナを現代日本で手術中に全身管理を任せていた麻酔科の先生と同じくらい信頼している。医学的な知識はまだ足りないところがあるだろうけど、レナは自分が分からないところは僕にきちんと聞いてくれる。だから、レナが大丈夫だと判断している箇所に関しては僕は安心して管理を任せることができていた。
ミリヤもローガンも僕のやりたい事を正確にサポートしてくれていた。器械を出してくれるサーシャさんのタイミングもばっちりだった。
このメンバーでよかった。食道亜全摘は非常に難しい手術だったけど、これならば十分にやり遂げることができる。僕がそう確信した時だった。
「ここには入れないって言ってるだろう!!」
「ベルホ……トが……急ぐ……だ!」
「絶対に……ダメ……!!」
手術室の外からなにか騒がしい声が聞こえてきた。ノイマンが叫んでいるようだった。他に、あまり聞いたことのない声も混じっている。誰かがやってきているのか。
手術室の扉が少しだけ動いた。外から誰かが強引に入ってこようとしたのをノイマンが止めたのだろう。
「ちょっと! 誰よ!?」
ヴェールが叫ぶ。しかし、彼女も分離肺換気のために送り込まれる空気の酸素濃度を上げる魔法を使い続けているところだったために外に出るわけにはいかない。もちろん、他のメンバーにも役割がある。
「何か、問題が起こってないといいけど……」
「いい、それよりも手術に集中だ」
レナが不安な声を漏らす。僕も気にならないわけではないけど、手術に集中しなければならなかった。内容までは分からないけど、手術室の外では何かを話し合っている声が聞こえてくる。ノイマンが対応してくれている。ノイマンもそろそろSクラスの冒険者だった。力づくで手術室に入ってこれるような者はほとんどいないだろう。
「鉗子ください。あと剪刀を」
印をつけた食道の切除部位を鉗子ではさんで剪刀で切る。鉗子がついたまま胸腔に出てきていた胃管を引っ張り上げた。どこかにひっかかって組織を損傷しないように注意してだ。
「もう一つ鉗子を」
「はい」
右手を出すとサーシャさんがタイミングよく器具を差し出してくれる。それによって僕は手術中の胸腔から視線をそらすことなく手術を継続することができる。
「剪刀」
「はい」
剪刀が胃管の先端付近を切り取る。左手で持った食道が切り離され抵抗を失う。とりつけた鉗子がきちんと胃管を挟んでいることを確認して、僕は食道を体外へと取り出した。
「摘出!」
「はい」
膿盆と呼ばれる金属製の盆の上に取り出した食道を置こうとした時だった。
「今はダメだって言ってるだろう!」
「話にならないっ! どくんだ!」
突然に手術室の扉が開いた。そこにいたのは見たことのない男たちである。体格は悪くないノイマンを力づくでどかせることができる人間というのはそんなにいないだろう。それともノイマンが遠慮するような相手なのか。
「ベルホルト! ベルホルトはどこ……なんだ、ここは!?」
先頭に立っていた男は僕の左手にあった摘出された食道を見て絶句した。僕らのほうもこの事態に絶句している。たしかに何もしらないこの世界の人間がこの光景を見たらどんな印象をいだくか分からない。全員がガウンに帽子にマスクまでしている状態で人の臓物を取り出しているのだ。実際にそれは間違いのない事実ではあるのだけれども。
「レグスッ!!」
突然、ベルホルトが今まで聞いたこともないような声で叫んだ。
「不潔になる! これ以上入ってくるな! 君たちは速やかに出ていくんだ!」
「おい、ベルホルト……これはいったい……」
「それ以上入ってくるなら敵対行為とみなすぞ! なにより、君たちは今の時点で一人の命を危険にさらしている!」
「な、なにの話だ……?」
「理解できないのであれば、すぐに出ていけ!」
浄化の魔法を連発しながらベルホルトが手術室の扉のところまで歩いて行った。その勢いに押されてレグスと呼ばれた男は後ずさる。早く出ていけといわれるがままに、男たちは手術室を出て行った。
「……消毒液を噴霧してくれ。どうせ土足で入ってきたんだろう」
僕は記憶の中にひっかかった名前と、あの後ろに立っていた女の魔法使いの顔を見て状況を把握した。彼はベルホルトを連れ戻しに来たのだろう。後ろにいたアルカ=スティングレイと言い、どうも僕との相性は良くないらしい。
心の中の色んな感情を押し殺して、僕はサーシャさんから針糸を受け取り、食道を縫いだした。
レグス=ホーネッツ。それは今代の勇者の名前である。