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第百二十一話 食道癌7

 レナは手術台に横たわったスコルに昏睡コーマをかけると素早く分離肺換気用のチューブを気管に挿管した。何度も繰り返した手技であり、すでに慣れたものだった。

 左側を下にした状態で寝かせて、右の肋間を大きく開くことでなんとか手術ができるようになる。準備が整った頃にはスコルの肺は左側だけが膨らむようになっており、右側の肺は完全にしぼんでいたのが心眼で分かる。


「よろしくお願いします」


 今回の手術のメンバーというのは僕がもっとも信頼している人たちである。麻酔科の位置にはレナ、第一助手にはミリヤだ。第二助手にはローガンがついて、器械出しにはサーシャさんがついている。外で器具を出す役割はマインとノイマンがやってくれている。その他、ある目的のためにヴェールが待機しており、ベルホルトも急な製薬や鑑別魔法が必要になった場合に備えてもらっていた。


 僕はローガンに食道と他の消化管の違いを説明した。アプローチの方法としては第五肋間後側方開胸であるが、おそらくは現代日本で行う開胸よりもすいぶんと大きく切開している。術後の痛みが回復ヒールでほとんどないこの世界で、傷を小さくする必要は全くないからだった。


「食道は胃や腸と違って間膜かんまくがないんだ。組織学的にも外側の部分の構造が違っていてね」


 食べたものを消化吸収することをほとんどしない食道には大きな血管はない。胃や腸は食べたものを門脈もんみゃくと呼ばれる静脈へ吸収し、その門脈は肝臓を通ることで代謝されるという流れがあるが、吸収されることがほとんどない食道の静脈はあまり発達していなかった。動脈と静脈と神経が一括りになってこの間膜と呼ばれる膜の中に入っている胃や腸は分かりやすいけど、食道は間膜がないから周囲の組織から剥がす際には様々なものに注意が必要である。


「食道を栄養している動脈は場所によって異なるし、そのほとんどが他の臓器にいくはずの動脈の枝の一つだったりする」


 僕は気管支動脈を見つけるとここだとローガンに指し示した。温存して手術を行う外科医もいるけど、僕は切離してしまうやり方を学んでいた。他にも胸壁から心臓にかえっていく静脈である奇静脈も糸でしばって処理して切離していく。


「これが鎖骨下動脈、中枢に向っていって腕頭動脈が見えたね。反回神経と迷走神経はこれだね」


 反回はんかい神経だとか迷走めいそう神経というのは重要な神経である。食道癌の手術の際には最も気を付けなければならない部分の一つだった。反回はんかい神経を傷つけてしまうと声がかれてしまうし、飲み込みがしにくくなる。気管の中に食べ物や唾が入ってしまう誤嚥ごえんも起こりやすくなってしまうために、慎重に回りの組織から剥がしていかなくてはならないのだ。さらには神経の周りに脂肪組織を残してしまうと、がん細胞が転移したリンパ節を残してしまうかもしれない。


「まあ、心眼と探査サーチがあればそんなに神経質にならなくてもいいから、切らないように気を付けていくよ」


 いつもながらに魔法はすごいのである。そして、もし切ってしまっても回復ヒールでなんとかなるのではないかと思っている。そう思うことができるだけでも心が落ち着き、焦ることがなければ冷静に手術をすすめることができる。これはものすごい事だと実感できるのは外科医だけだろう。


「右側の反回神経の周りは郭清できたね。そしたら中縦隔ちゅうじゅうかく下縦隔かじゅうかくにいくよ」


 胸の中心部を縦隔じゅうかくと呼ぶ。心臓や食道、大動脈などがある場所である。僕は食道の周りの組織を剥がし、残さなくてはならない神経や血管、または切りはなしてしまわないといけないものなどを区別しつつ、食道をゆっくりとまわりの組織から剥がしていった。

 上部の食道の裏側にに布のテープを通してそれを引っ張る事で食道を背中側へとずらす。こちら側から見えにくい部分の組織もそうやってはがしていく。ある時は電気メスを使い、ある時は剪刀はさみを使い、そして攝子ピンセットを使いながら切ったり剥がしたりしていく。


 胸部の裏側には大動脈がある。心臓から一旦頭側に向かった大動脈は弓状に弧を描いて背中側を通って腹部へと向かう走行をしてる。この弓状の部分を大動脈弓だいどうみゃくきゅうと呼び、左側の反回はんかい神経はこの大動脈弓の部分で反回はんかいしているから反回はんかい神経と呼ばれる。


 ある程度食道をはがすことができた時点で、食道をどの部分で切るのかを考える。

 腫瘍は完全に取り除く必要がある。だから心眼で見えている範囲よりも若干多めに切り取ることにしている。見えていない可能性というのもあるはずだった。一つの細胞までが確認できるほどに視力がいいわけではないために心眼でも見逃すということはあるだろうと考えている。

 しかし、それを補うために探査サーチの魔法がある。同時に発動させることでほぼ確実に癌細胞の分布というのを確認することができた。


「よし、ここで切除するよ」


 ここならば、再建する時に胸部からのアプローチでいける。もっと口に近い部分だったら胸部からでは届かずに首の部分を新たに切らなければならなかったかもしれなかったけど、ここならいけると確認した。

 心眼と探査サーチで決めた部分を指示して、印の代わりに針を使って糸を縫い込んだ。しっかりと結紮けっさつしてから余分な長さの部分の糸を切っておく。後で切除を行うが、それはいまではない。


「胸部操作はいったん終わりで、次は腹部に行くよ。両側肺換気にもどして」

「分かったわ」


 傷の部分を清潔な布で覆う。その間にレナが分離肺換気用のチューブを操作して右肺も膨らむようにした。

 次はお腹からのアプローチとなるのだ。

 スコルの身体は左側を下にしていたが、その向きを仰向きへと戻す。もう一度消毒をし直して、次は腹部正中を切開した。


「血液はどう?」

「うむ、特に異常はなさそうだ」


 この間にレナが血液を採取し、ベルホルトが鑑別魔法をかけている。左肺だけの換気が続いたために、血中の酸素濃度が下がる可能性もあった。定期的に血をとって、酸素濃度だけではなく電解質ミネラルのバランスなどが分かるほどに成熟した鑑別魔法が使えるベルホルトがいてくれて良かった。僕やローガンは手術のことで手一杯なのだ。

 タバコを長く吸っている人というのは肺に慢性的な炎症が続くことで肺気腫はいきしゅという状態になっていることが多い。それはタバコによって腫れて治ってを繰り返す肺が膨らみにくくなる病気であり、肺胞はいほうというスポンジのような一つ一つの小さい部屋の壁が壊れて治ってを繰り返すうちに部屋の一つ一つが大きくなることによって膨らむ割合が減ってしまうという病気である。結果、肺活量が減り、酸素を十分に取り込めなくなる。


 このようにタバコを吸っているというだけで手術ができないという事態もあり得た。

 スコルも若干ではあるが肺気腫の状態になっていた。そのために、いつもの人工呼吸では片方の肺だけでは十分な呼吸ができなかったのである。


「これも、魔道具にしないといけないわねえ」

「頑張ってくれ」

「なんとかするわよ。今回はとりあえず、なんとかなったわ」

「また胸部操作にもどったらお願いするよ」

「はぁい」


 ヴェールは片肺換気の間、ずっと送り込む空気の酸素濃度を上げてもらっていた。これは風魔法と水魔法の組み合わせで非常に高度な魔法であったが、ヴェールはこの数週間で習得していたのだ。

 人工心肺を行うにあたって、血液を送り込むポンプの役割と血液に酸素を送り込む人工肺の役割を魔法で行おうとして練習していたのだ。その魔法では血液という液体に酸素を送らねばならないのだが、空気の酸素濃度を上げることができなければそれもできないという。思わぬ副産物だったけど、まさかヴェールが酸素ボンベまでこなすことができるなんて。


 腹腔ふくくうに到達して胃の周囲の血管を処理していく。右胃大網動静脈を温存し、胃の外側を残していく。内側の血管を残すと胃を細く管状にすることができなくなるためだ。最終的に長い胃管を作成し、食道とつなぐ。再建経路は後縦郭こうじゅうかくを予定している。他に胸骨の表や裏を通る方法があるけど、もっとも自然につなぐことのできる経路がいいに決まっている。


「さて……」


 ここまできてしまったか、と僕は思った。現代日本でこの手術を行う際には、あまり気合のいらない場所である。しかし、ここは異世界であり、器具が足りないのだ。


自動吻合器じどうふんごうきがあればなぁ……」


 僕のつぶやきは誰にも聞こえない程度のものである。そもそもこの世界で自動吻合器じどうふんごうきを作る事はまだまだ難しいだろう。だから諦めたのだ。

 現代日本で、この胃を細長く形成する時に使用されているのが自動吻合器である。胃の外側に沿って細長く切っていくと、胃はよく伸びるために食道のような細長い管になるのだ。そのためには胃の内側全てを切って、切ったところを閉じなければならない。


 自動吻合器じどうふんごうきはこの作業にはうってつけである。挟んだ胃や腸管の両側を金属製の糸で縫い、間を切る作業を一瞬で行う。その代わりに吻合糸というかクリップのついたカートリッジを一回つかうごとに交換しなければならないのだけども、手作業で行うことに比べたらかなり楽なのである。費用はかかるけど。


「さあ、やっていくよ」


 しかし、ここにはそんなものはない。繰り返し言うけど、そんなものはない。胃を少しずつ切っては縫ってを繰り返して細長い胃管を作っていくしかないのだ。胃を全部使うやり方もあったはずだけど、胃管を作って細長くすることで、食道とつなぐ時に余分な力がかからなくなるのだろう。

 さあ、気合を入れて膨大な作業にとりかかろう。僕は胃を鉗子で掴んでもらって、一部切っては針と糸で縫い、回復ヒールをかけて穴を塞ぐという作業を繰り返した。


 魔力が尽きるかと思ったけど、ミリヤが手伝ってくれたこともあってなんとかやり切った。胃が完全に細長く形成され、周囲の組織から離れることで胸腔へと移動できるようになったころには、すでに夕方近くまで時間がかかっていた。


「あと、もうちょっとだ」


 もう一度左下の状態に戻して、分離肺換気をして……。僕はあとちょっとだと言いながらも、まだまだやることが残っているこの手術は改めて大変なものだったと思い知った。そういえば現代日本でやってたときは途中で交代で休憩をとっていたっけ? そんな事も忘れてしまっていたとはと後悔したけど、言える雰囲気ではなかった。 

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