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第百二十話 食道癌6

 食道というのは喉から胃までをつなぐ消化管である。それは頸部から胸部の背側を通って横隔膜を越えるまでの長い臓器だ。

 そのために、どの部分に癌ができるかによっても切除の術式というのは変わってきてしまう。


「スコル殿の食道癌は胸の中心部あたりにできています」


 他にも頸部に近い部分や胃との境目にできるものなども多い。それであれば心眼と探査サーチの魔法を組み合わせてさらに回復ヒールによる接合が可能なこの世界であれば縮小手術というのができるはずだった。現代日本ではどこまで癌細胞が転移しているかが分からないために、周囲のリンパ節を取ってくる必要がある。それは郭清かくせいという行為であり、食道癌におけるリンパ節郭清は神経の周囲を取る必要があることもあって非常に難易度が高い。それを省くことができるのが魔法であるのだが、胸部の途中に癌があればそれもほとんど意味をなさなくなってしまう。


「胸部と腹部と、両方から切り込まなければならないか……」


 術式として選択すべきなのは食道亜全摘+胃管再建である。胸部に存在する食道のほとんどを切除してしまい、胃を使って食道の代わりにする。具体的に言うと、胃を細長く形成しなおすことによってできあがった胃管を食道の代わりとして首の部分に少しだけ残した食道とつなぎなおすという術式だった。

 胃を外して細長く形成しなおすためには腹部の切開が必要であるし、食道をほとんど切除するためには胸腔からアプローチをするしかなかった。最終的に食道と胃をつなぐ部分は首の方を開いてつなげなければならないだろう。現代日本ではこれに加えてリンパ節郭清もしなければならないためにかなりの難易度および長時間の手術となる。


「すぐにできるような手術ではありません。ユグドラシルの町に帰って準備をしましょう」

「いや、待って欲しいのですが。いきなりそんなことを言われても……」

「すぐに手遅れになるというわけではありませんが、早くしたほうがいい」


 遠隔転移はない。しかし、周囲のリンパ節への転移は探査サーチの魔法にひっかかっていた。なるべくはやく切除すべきである。僕はできるだけ簡潔にそのことをスコルに説明する。もちろんスコルも隣で聞いていたカレラも顔が蒼白になっている。


「状況は分かりました」

「では」

「ですが、この演習が終わるまで待っていただきたい」

「手遅れになる可能性があるのですよ?」


 たしかに今日や明日に転移するという可能性は低い。しかし、ないわけではないのだ。そのために僕はできる限り早めの手術を提案している。


「覚悟の上です。いえ、この演習でようやく私は覚悟ができたというべきかもしれない」


 スコルは迷うことなくそう言った。


「今までは兄の後ろをついていくだけでした。父も騎士団長でしたが、二人ともに私にとっては偉大過ぎたのです。ですが、今回のこの演習で兄も父も関係ないということにようやく気付くことができました」


 やはりこの数日でスコルは内面から変わっていたようだ。今までの頼りない印象というのが消えていた。


「この魔法隊は落ちこぼれの集団です。私もほとんど落ちこぼれでしたので、ちょうどよいと思っていました。そんな私を見ても兄も領主様も何も言わなかった。だから、私はその環境に甘えてたのでしょう」

「父上……」

「ですが、それは間違っていた。今では兄も領主様も私に期待をしていたが故に何も言わなかったのだと、分かるのです。ですから、この演習はなんとしても成功させたい。そして、我が魔法隊はこれからの未来のユグドラシル領軍騎士団の中枢を担う部隊として成長していかねばならないのです」


 レナも言っていた。コンセプトは悪くないと。僕もそう思う。

 騎士の装備と機動力で魔法使いの火力を備えるのだ。精鋭がそろいさえすれば爆発的な力となる。


「私が、この者たちを我が軍の精鋭に育て上げるのです。ですので、もちろんこの演習が終わり次第……終わってから、先生がおっしゃっている治療を受けさせていただきたい。なんとしても、私は生きなければなりませんから」

「分かりました。スコル殿の覚悟は十分に伝わりました」


 ここまで考えて選択するというのならば、僕はそれを尊重するだけである。演習は継続し、その間に僕は僕でできることをするまでのことだ。


「ですが、一つ。この食道癌の原因ですが……」


 タバコが原因だというと、スコルもカレラもかなり残念そうな表情をした。禁煙というのは、簡単にできるようなものではない。スコルはその場でタバコを捨てた。カレラはそれを残念そうに見ていたが、最終的には父親と同じようにタバコを全て捨てた。




 ***




 それから数日して、魔法隊はマグマスライムの素材の採取を終えてユグドラシルへの帰路についた。本当は他にも様々な素材を取りに行ってもらおうと計画していたけど、スコルがこのような状態では継続させるわけにもいかない。しかし、スコルは演習の継続を求めた。


「私がいない状況を想定しての訓練をします。その間に私は治療を受けましょう」

「そうですか」

「もし、私が戻れなくなればそのまま訓練を継続すればいいだけのこと」


 カレラを始めとして魔法隊をいくつかにわけてたち分隊長を決めたようだった。統括するのはスコルであるが、いなくても作戦に支障がでないような隊を作り上げると言う。転んでもただでは起きないということか。そういう面でもスコルはこの演習を通して変わることができたのだろう。魔法隊の騎士たちも隊長に引っ張られる形で変わってきているに違いない。

 

「僕らは先に帰って手術の準備をしよう」


 手術の器械に特別なものはほとんどない。今までの積み重ねが僕らが作り上げた診療所にはできていた。

 思えばこれまでかなりの量の治療を行ってきた。初めてする手術の度にサントネ工房を始めとしてさまざまな人たちの助けを借り、さまざまな道具をつくってやってきた。

 今では改めて作る器械がないほどである。それでも食道癌の手術というのは簡単にできるものではない。


「必要な機材と薬剤、それに手術に入る人たちでの打ち合わせが必要だね」

「いつもシュージが言っている不測の事態ってやつ? 例えばどんな事が考えられるの?」

「手術中はもちろん、近くに大動脈があるから少しでも傷つけたら大出血する。それに、手術後の合併症もあるんだ」


 例えば胸管きょうかんという臓器が胸の中にはある。これは下半身を主体として多くのリンパ液が集まる管だった。リンパ液というのは血液と違う流れをしているが、最終的には血管の中に合流する。中を流れているリンパ液の主成分は血管から染み出した血液の中の成分であるが、脂肪なども含まれている。

 手術中にこの胸管が損傷しているかどうかを確認するために、乳製品を消化管の中に投与するのだ。吸収された脂肪がリンパ液を白く染めるために、胸管が損傷していれば、そこから白いリンパ液がみえるというわけである。

 この胸管の損傷というのに気づかずにいると、乳糜胸にゅうびきょうとよばれる合併症を引き起こす。腸管で吸収された脂肪酸が傷ついた胸管から漏れ出して胸腔きょうくうにたまる現象だった。本来ならば吸収される栄養素が胸腔きょうくうにたまるために電解質ミネラルのバランスが崩れたり、栄養不足になったりする。胸水がたまるために呼吸がしにくくなるという症状もある。

 一度引き起こしてしまうと治りにくい厄介な合併症だった。

 しかし、僕はあまり心配はしていない。この世界には回復ヒールがあるからである。


「手術前に何度か打ち合わせをしよう。準備不足がないかを徹底的に調べるんだ」


 僕はユグドラシルの町に帰ると、手術に入るメンバーを全員揃えてなんどもシミュレーションを行った。数日後、必要な器械や薬剤の補充も行い準備が万全になった頃にユグドラシル騎士団の魔法隊が帰ってきた。


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