第百九話 スティーブンス・ジョンソン症候群1
「返せー!」
「うるさいな、減るもんじゃないし」
「俺が読むんだ!」
「お前はもう何度も読んだのだろう? 俺が読み終わったら返してやる」
隠していた医学書をベルホルトに発見され強奪されたローガンが叫んでいる。あれからベルホルトは僕の診療所に居座り続けていた。
「パーティー? とりあえずは抜けてきた。あいつらはもう王都に帰ったぞ」
「は? 勇者パーティーじゃなかったのか?」
「別に、俺が治癒師をやらなければならない理由なんてものはない」
そしてベルホルトはあっけなく勇者パーティーを抜けてユグドラシルの町に宿を借りている。生活費なんかはどうしているのかとも思ったけど、そこは元・勇者パーティーであり貯金はかなりのものがあるようで、そこそこ良い宿に泊まっているようだった。
「なんて行動力なんだ……」
彼が何を思ったかは分からないが、診療の邪魔であるのは間違いない。しかし、数日たつと僕が治療をしているときは黙ってじっと見ていることが多くなった。分からない事は患者のことなんてお構いなしに質問攻めにしてくるのだが、それも減ってきている。
「ふむ」
とか、ときどき何かに納得したり、ローガンの真似をして製薬魔法や鑑定魔法をしたりして過ごしているのだ。
「できた」
「な、なんでできるんだ」
「さてね。俺は天才だから」
そしてほぼローガンと同程度の精度にまで上達するという才能を見せる。これだから天才ってやつは嫌いなんだ。さすがに世界樹の雫には触らせてないけど、胃薬くらいなら問題なく精製できるようだった。
「なんだか弟子がひとり増えたみたいね」
「レナ、そんな不吉なことは言わないでくれよ」
ベルホルトを弟子にとった覚えはない。だけど、たしかに彼はこの診療所で医学を学んでいる状態になってしまっている。僕が直接教えないだけで、勝手に吸収していっているのだ。
医学を広めるという観点からは悪いことではない。だけど、医学はそんな単純なものではない。
「はぁ、仕方ないな」
下手に一部だけの知識をかじられても、実際の診療には落とし穴だってたくさんある。それらを教えるという事は必須だった。ベルホルトが医学を学ぶというのならばなおさらである。
***
「それならば私も学びますわ」
「あんたはだめよ」
「あら、それを決めるのは先生ですから」
僕が根負けしてベルホルトに医学を教えるという事を聞きつけたヴェールがそんな事を言う。最近はサーシャさんと一緒にくらしている彼女は診療所の手伝いを積極的にやってくれているのだけども、これから先にどうやって生きていくかを考える時間をあげたらそんな事を言い出したのだ。
「私の魔力量ならばできることだってあるでしょう? その、ジンコウシンパイってやつだって、練習すればできるようになるわ」
「たしかに、これから先にあると助かるね」
「ちょっと、シュージ!」
「なによ、いいじゃない」
ローガンへの教育も兼ねて、僕は医学書をさらに書くことにした。医学書というよりも教科書である。それの写しをレナ、ローガン、ミリヤ、サーシャ、マイン、そしてベルホルトとヴェールにしてもらうことにした。
「これは門外不出。部外者以外には許可なく見せてはだめだからね。それに僕の許可なくこの知識を使って治療を行ってはならない。これを誓えなければ渡すことはできないからね」
「医学を普及させるのではないのか? 一般に公開した方が近道だろう」
「このページを見て」
ベルホルトの質問に、僕は教科書を開くことで答えた。
「スティーブンス・ジョンソン症候群、中毒性表皮壊死症といった方が病態が分かりやすいかもしれない」
そこに書き込んだ疾患はいわゆるアレルギーである。薬の投与をきっかけに暴走する免疫機構が全身の皮膚を壊死させ、きちんと治療を行ったとしても死亡率が3%以上あるという恐ろしい病気だった。
「やみくもに、知識もなしに薬を使うと、こういった事が起こる。薬の投与は投与した人の責任で行う必要があるんだ」
「だが、これは治療を行おうとした結果だろう。仕方のないことではないのか?」
「それを仕方ないと考えるならば医学はいらないよ、ベルホルト」
「……ふむ、なるほど。たしかに」
スティーブンス・ジョンソン症候群はおそろしいアレルギーである。発症した時点で入院全身管理の上に大量のステロイドを投与しなければならない。全身の皮膚はただれ、眼球にも症状はおよぶために視力の低下が後遺症として残ることもある。他にも高熱、全身倦怠感、食欲低下などが認められ、重症化すると多臓器不全、敗血症などを起こして死に至る。
とてもじゃないが、発症したとしたら今の診療所の状況で助けられるとは考えられない。特にステロイドの抽出は人型の魔物からできることが分かったが、薬の量が足りていない。
だから、特に点滴などで薬を投与するときには細心の注意が必要だった。
他にも薬剤性のアレルギーというのは多い。
「まあ、これはだいぶ稀な話なんだけどね。こういった事も起こりうるから専門の知識が必要なんだよ」
「それで、これを読めばその知識が手に入るわけだな」
「ああ、でもそれで全部じゃないから。今書いたやつだけだね」
毎日、寝る前に医学書を書く僕の日課はすでにかなりの量となっている。まだ、まとめきれていないものを合わせると、その量はすごいと我ながらに思う。
「その十倍はあると思うよ」
「じゅっ……!?」
ローガンが意識が飛びそうな顔をしている。対してベルホルトは特になにも思っていないようだった。レナもヴェールも少し顔がひきつっているけど。
これでもまだ少ないほうなのだ。僕が文字に書き起こせる量は習ってきた全てではない。現代日本の教科書を持ってくることができたならば、この世界の文字に翻訳することもできるのだけども、そんなものはない。あくまで僕が覚えている範囲の知識しか授けることができないのだ。
だから、臨床ばかりやってきた僕は細胞レベルで何が起こっているかとかについてはそこまで詳しくない。病気の原理を完全に説明できないために、疑問点がでてくる病気も多いだろうが仕方ない。
「その知識はどこで手に入れたんだ?」
「それは教えないよ」
ベルホルトをじっと見つめる。渡した教科書の内容というのは本当に基本的なところと、知っていないと手遅れになる疾患ばかりである。本当の意味の医学書には程遠く、内容もそこまで詳しくない。
彼が今後、適当な治療を行うのであればこれ以上の知識を授けるつもりはない。見極めが必要であるのは、責任感をもって医療を行うことができるかどうかである。付け焼刃の知識で行うほどに医療も人の命も軽いものではないのだ。
「僕の許可があるまで、絶対に薬を扱ってはならないよ」
「ああ、分かっている」
この男はどっちだろうか。自分のことしか考えていない人間なのか、それとも治癒というものに対して純粋に新たな知識と技術が欲しいと思っているのか。
どちらにせよ、いつかは僕の手の届かないところで医療を行う人間が増えなければならない。
案の定、教科書を一番最初に写本し終えたのはベルホルトだった。評判だけを聞いていた時は気に入らない人間ではあったが、彼の知識欲というのは本物かもしれないと思い始めた。
だからこそ、もっと気を付けて見ていなければならなかったのかもしれない。