第百八話 腸腰筋膿瘍4
「まさか……」
僕のつぶやきは誰にも聞こえなかったようである。場所はばば様の庭で、ちょうど薬の生成の実演をしている時だった。かなりの種類の薬ができ、それを片っ端から記録するという作業をしていたところ、鑑定魔法に引っ掛かったものがある。
「こんなところに抗菌薬が……」
世界樹の雫にしか見いだせていなかった物質である。正確には同じ物質ではない。しかし、その抗菌作用というのは本物であり、抗菌薬といってよいものだった。現代日本にもさまざまな種類の抗菌薬がある。それはそれぞれ抗菌薬に耐性をもった細菌に対して、何を使うかという事が重要になってくるわけであるが、この世界にはまだ抗菌薬に耐性のある細菌などというものは存在していなかった。今後、世界樹の雫に耐性を持つ菌が現れてくるのは確実であり、その際に種類の違う抗菌薬が存在するということは非常に有用である。
「ばば様、これの原料は何?」
「それは王の草とよばれる雑草じゃな」
「雑草なんだ……」
「この辺りならば、勝手に生えておるから取り放題じゃ」
「栽培はできそう?」
「んむ、やったことないからのう。雑草すぎて考えたこともなかったわい」
王の草とか呼ばれていて雑草というのはどういう事だろうか。この草の価値が分かる人物が名付けたのか、逆に雑草に王の名前を取り入れることで権力に対して風刺をしたか。
この辺りに群生する雑草がユグドラシル近郊や他の地域でも生えるだろうか。一部を持って帰って栽培するのは決定事項だ。家の裏の畑で栽培できれば、わざわざ世界樹を登るなんてことをしなくても抗菌薬が手に入るかもしれない。
それに、この草の存在は僕をいままでユグドラシルの町に縛り付けていた呪縛から解放されることとなる。これがその辺りで手に入るならば、特にここからそこまで遠くないレーヴァンテインなどで医者をすることすら可能になってしまうのだ。むろん、すぐにユグドラシルから出る気なんてさらさらないが。
これは、来てよかったと思える収穫だった。だけど、この抗菌薬の話はユグドラシルの町の人たちに簡単に伝えられるものではなさそうだ。当面はレナ以外には言わない事にして家の裏で栽培することにしようと思う。
僕らはそれから何種類もの薬の知識を本に書き込み、ばば様の村を後にした。また来なければ。
***
「メスください」
「はい」
「触ったら絶対に許さないからな」
「その液体はなんだ?」
「消毒液だ。といっても、細菌感染と消毒の概念がなければ意味が分からんだろうから黙っていろ。治療の邪魔だ」
「昏睡をこのように使うとは、何を考えている?」
「よし、こいつをつまみだせ」
ユグドラシルの町に帰ると患者が待っていた。かなり立派な商家の人間だが、数年前に旅先で足を怪我し、回復魔法が間に合わなかったために歩く事ができなくなった男性である。
生活習慣も悪かったのだろう。この世界には少ない肥満体型である。そして何日か前から発熱と右の腰の痛みで治癒師の診療所を渡り歩き、ウージュの所からここにたどり着いた。たまたま僕は不在で、カジャルさんとミリヤに数日間続けて回復をかけてもらっていたのである。
診断は「腸腰筋膿瘍」である。背中から腰にかけてある筋肉の中に細菌が感染し、膿瘍を形成する。
ただ、この疾患は原因が分かってもそれだけが問題ではない。
腸腰筋とは、マラソンなどで最も使われる筋肉であり、本来ならばこんな所に細菌は寄り付かない。喉や肺などの呼吸器、腸を始めとする消化管、もちろん皮膚を含めて外界から細菌やウィルスと接する場所というのはある。それぞれ、それなりの免疫機構を持っていて細菌やウィルスがくるとそれに対処するから普段は感染なんかしない。体調が悪くて免疫機構が働かない場合に感染し、その反応として熱が出たりする。
だが、筋肉中は普段は外界には接していない。怪我をした場合のみ、外の空気に触れて、細菌などが入ってくる。他には骨や心臓の回りなども同様に外界からは隔絶されているはずなのだ。
しかし、怪我もなく腸腰筋に膿瘍ができる。これはかなり異常事態であるのだ。実際には意外にも腸腰筋膿瘍というのはよく見かける疾患であるのは別として。
「あー分かった分かった、黙っていればいいのだろう」
そして問題はもう一つ。ベルホルト=ロハスが手術を見学すると言ってきかなかったのだ。絶対に邪魔だけはするなと言ってあるのだが、邪魔でしかない。
「切開する。膿が出てくるから洗浄と吸引の準備を」
「はい、先生」
ローガンとサーシャさんが介助してくれているのだが、ずっと後ろにベルホルト=ロハスがいてやりづらい。しかしそうも言ってはいられないために、僕は心眼を使って膿瘍の場所を特定し、そこに向かってメスをふるった。
「生理食塩水をください」
「はい」
「これが呪いの正体か、臭いな」
すでにローガンもサーシャさんもこの程度の処置であれば慣れたものである。マスクをしていても臭う膿が筋肉の内部を裂くと出てきた。洗い、周囲からの出血を焼いて止めて、回復をかける。
「なるほど、ここで回復をかけるわけだな」
いちいちベルホルト=ロハスのつぶやきがうるさいが、僕は処置に集中する。完全に膿んだ部分の周りの組織を除去して、回復で完璧に治ったことを確認する。心眼でも何も見えなくなった。現代日本では膿瘍があった場所に管を入れて、数日間引き続ける。洗浄を繰り返すこともあるが、相変わらず回復はいい意味で理不尽な存在だった。
「よし、後は皮膚を閉じるよ。ローガン、任せた」
「はい、先生」
「おいおい、こんなガキにやらせるのかよ」
「ガキではない、先生の弟子だ」
ローガンの技術も徐々に上がってきている。今度、ゴブリンなどの魔物で手術の練習をさせてもいいかもしれない。現代日本ではそういう事をすると反対する団体などから抗議を受けたりもするのだが、この世界ではそのあたりはだいぶ寛容であった。無論部外者にはばれないようにするが。
「おお、だいたい縫えたな……回復」
「最初から回復を使えばいいのではないか」
「それだと、綺麗に傷がくっつかないんですよ! もう邪魔しないであっち行っててください!」
僕より先にローガンがキレた。というよりも最初からかなり機嫌が悪い。ずっとベルホルト=ロハスが診療所にいたらしく、だいぶめんどくさかったようだ。
処置が終わり、レナが患者の意識を覚ましている間に、家の人間を呼ぶ。腸腰筋膿瘍の原因は運動不足と長期臥床、そして基礎疾患にあるだろう。生活習慣が悪く、高血圧や糖尿病にもなっているかもしれない。普段からリハビリをしなければおそらく再発してしまうという事を丁寧に説明した。
「運動が必要なのか? 何故だ?」
そして患者の家族よりも先にベルホルト=ロハスから質問が飛んでくる。まあ、家族に説明するものだし、答えておくか。
「筋肉は運動をすることで血の流れが良くなりますからね。ずっと動かしていないと、血を送るはずの心臓もさぼってしまって動きが鈍くなるんですよ。そうすると全身の臓器にも悪影響が出やすいというわけです」
正確ではないが、だいたいはそういう事だった。詳しく説明しすぎても、相手が理解できなければ意味がない。かみ砕いて説明することは重要だ。
足が動かなくなり、歩いたり立ったりをしなくなると筋肉が衰える。足腰の筋肉が衰えると徐々に胸の筋肉も衰えてきて最終的に呼吸の筋肉すら委縮してくる。呼吸筋の力が落ちれば、肺炎になりやすい上に心臓にも負担がかかる。心臓の血を送る能力が低下すれば、全身の臓器が不調に陥りやすい。
さらには足の筋肉は血液を心臓に送り返すという役割もしている。そのために第二の心臓と呼ぶものもいるくらいだった。
「歩けなくても、動かすことが重要です。ご家族が手伝ってあげて、毎日朝晩にでも三十分ほどの散歩を頑張ってください」
他の基礎疾患を治療するということも必要だったが、まずは生活習慣の是正からだ。リハビリで筋力がもとにもどれば、おそらくは腸腰筋膿瘍なんてものができる可能性は限りなく低くなる。あのままだと、いつか肺炎を起こして死んでしまうのが明らかだった。
患者の家族は付き添いの一人を残して帰っていった。退院までに家の環境を整えるのだとか。それがいいと僕も思う。財力があれば、いわゆるバリアフリーだって可能なのである。
「さあ、終わったな。俺の質問に答えてもらうぞ」
僕はさっさと仕事を終わらせて、明日にはまたばば様の村に行きたいのだけども、どうもこの「神の癒し手」を名乗る金髪の男が許してくれそうにない。
「その知識、どこで手に入れた?」
僕はうんざりしてため息をついて言った。
「お前にそれを教えると思うのか? お断りだよ」
最近、僕の言葉遣いが悪くなったとあとでレナに言われた。昔に戻っているようで、注意しなきゃなとは思うけど、ベルホルトみたいなやつが近くにいるとついつい口が悪くなってしまう。反省反省。