第百一話 消化管穿孔2
「また、なんか人が死んだらしいよ。それで病院がミスを隠蔽したんだって」
聞きたくない事を聞いてしまった。
場所は学術集会発表のために出張で滞在していたホテルから徒歩で二分くらいにあったコーヒーショップだ。
普段は激務であるためにほとんど時間がとれない。出張であれば余裕をもって行動することができる。仕事までまだ二時間もあると思うとこの時間が至福の時であり、貯まった積読本の中から何かを読もうと思ってわざわざ出てきたのだ。
最近はタブレット端末を使って電子書籍で本を読むことができるために出張先でも簡単に読める。それにどんなジャンルの本を読んでいるかが他の人間にばれにくいのも気に入っている点だった。これでも普通の人に比べれば幅広いジャンルを読んでいると思っている。中にはあまり大きな声で人に言えない本だってある。
自分を高めてくれる本から、現実逃避を疑似的にさせてくれる本、確かに時間の無駄だったと思う本まであるが、活字を頭に入れること自体は悪い事ではないと思っている。
本を読んでいる最中にお金を払って頼めばコーヒーのおかわりを持って来てくれる。それだけの理由で、ホテルの部屋ではなくてここまで来たのだ。日々が忙しすぎて金を使うことなんて、飲みに行く事と本を買うくらいだった。自分の給料であれば貯まる一方である。このくらいの贅沢をしたって許される。むしろ贅沢とは言えないだろうが、自分の中でこれが贅沢なのである。
それがなんだ。この至福の時間にイラっとした言葉を耳にいれるおじさんとおばさんが隣のテーブルにいた。二人とも新聞とかスマホとかを読んでいるようだ。一般的な光景、むしろ世間の話題に敏感に反応しているだけ、何も考えてない連中よりもよっぽどマシなのかもしれない。
だが、その内容が僕を苛立たせている。
「人の命をなんだと思ってるんだろうね」
「この病院は昔からヤブしかいないって、よく聞くわ。医者の態度もすごい悪いって」
「それで医療ミスを隠蔽したってのか。終わってるな」
チラっと見ると二人ともに六十から七十歳くらいだろうか。男性の方はこんな時間に私服で喫茶店に入っているところから仕事はもう引退したのだろう。
何も知らないで勝手なことを言う。
本当にミスと隠蔽があったかどうかも分からないが、世間はこの手の話題にはすぐに食いつき、必要以上の謝罪を要求する。別に同業者の肩を持つつもりはないが、たしか、その患者はミスがあろうがなかろうが助からない状況だったはずだ。
救われるのが当たり前という考えは好きじゃない。
普段の忙しさと嫌な経験がどうしても思考をそっちへ持って行ってしまう。感情を顔に出さないようにしなければならないと思いつつ、出張先の近くの喫茶店で不機嫌な顔をしていたところで自分に何の不利益もないのではないかと、表情筋を一瞬だけ歪ませた。
これでは集中して本を読めない。別段、うるさい喫茶店でもなく隣の男女も他の話題であったならば気にすることもなかったが、さっさとコーヒーを飲み干してホテルへと帰ることにした。ホテルの部屋で横になりながら読もう。多分、それが誰にも邪魔されない。
いつもホテルはビジネスホテルをとる。むやみに高いホテルにしても滞在する時間が少ないし、ベッドの良さもあまり変わらないと思っているからだった。ルームサービスがないのが不満ではあるが、夜中に食べ過ぎても体に良くない。普段から不摂生と不規則な生活をしているために、食事に気をつける暇もない事も多かった。
「はぁ、もう飲んでしまおうかな」
駅でビールを買っていた。今日、寝る前に飲むつもりだった。仕事の前であるが、ビール一杯では酔わないし、ちょっと酔っぱらった方がいい発表ができる気もする。だが、誰に会うか分からないような状況で酔っぱらうわけにはいかない。やっぱりコーヒーにしよう。
ホテルのロビーの自動販売機で缶コーヒーを買った。なんか思ってた至福の時とは違う。仕事が終ったら駅前の良さそうな居酒屋に一人で入ってみるとしよう。それくらいでなければやってられなかった。
だが、運が悪い時はトコトン運が悪い。
スマホが鳴った。この着信音はあれだ、職場の病院だ。マジか。
「はい、宮城です」
「宮城先生ですか? 研修医の大崎です」
「おう、どうした?」
「緊急きました。近藤先生が宮城先生呼んでって」
アホか。この一言に尽きる。
何のために学術集会発表の出張中の留守番を決めたと思っているのか。あのアホは十歳も上のくせにろくに仕事ができない。あんな奴がいまだに医者をしていると思うと腹が立つ。
「発表までまだ一時間半以上ある。それ終わってから新幹線飛び乗っても四時間後だぞ」
「ですが、近藤先生が宮城先生帰ってきてから切ろうって……」
板挟みにあう研修医に若干同情するが、抑えられない。部長も学会でここに来ているし他に医者はいない。
「できないなら受け入れるなよ」
「すいません、近藤先生がもうICまでしちゃってます……」
なんてことだ。手術の同意をとったという意味だった。患者とその家族は自分が帰ってくるのを待っているという。
何故、勝手に他人のスケジュールを決める権利が奴にあるというのだろうか。これからホテルをキャンセルして、新幹線を手配し、会場からタクシーに飛び乗って帰り、それから緊急手術だと?
ただでさえ激務。さらには無能な上司の尻拭い。そしてその無能を教育する気のない診療部長。
そしてこの時に何かがブチンと切れる感触があった。
もう十分だろう、もうこれ以上自分が命を削るように仕事をする必要なんてないだろう。
小さな病院でいい。職場を変えよう。アホみたいに激務な大病院でアホの相手ばかりするのはもう無理だ。上司も同僚も部下も患者も、もうどうでもいい。
「アホか。てめえの汚ねえケツはてめえで拭けって近藤に伝えとけ」
「えっ!? ちょっと、宮城せんせ……」
スマホを切った。電源も落とす。部長は学会会場にいるだろう。今から直接抗議して退職だ。もう我慢の限界だ。
そう思うと気分が軽くなった。
飲みかけの缶コーヒーを飲み切る。部長と喧嘩だ。奴は激怒するだろう。だが、それがなんだ。お前の教育が悪いからあんなヤブ医者が二十年くらい仕事もできないのに高給取りしてるんじゃねえか。
よし、今すぐ抗議しにいくのもアホらしい。今は至福の時間のはずだ。すくなくとも会場までは歩いて十分だから約一時間の猶予がある。この発表で病院を辞めるってことになるだろうから、発表も適当にしよう。キャリア? もともとそんなものを望んでいたわけではない。
電子書籍に手を伸ばした。今、こんな頭に血が上っている状態で傑作とよばれる作品を悩みながら読むのは無理だ。頭にスーッと入ってくる軽いやつがいい。ならばライトノベルだ。
今、はやりの異世界ものというジャンルを選択する。僕も異世界に転移して、そこで全てやり直せるならばどれだけいいことだろうか。これから職場を変えてやり直すのも同じようなものなのかもしれない。
凹んだコーヒーの缶をゴミ箱に捨てると、僕はタブレットを持ってベッドへと寝ころんだ。
僕が覚えているのはここまでで、気が付いたら森の中だった。




