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大嫌いだったはずの兄と練習する夏休み

 月曜日以降は、兄も学校に来る必要が無い訳で次に登校するまでの間、つまりは役が決まり『魔法より愛だ!』の練習が始まる金曜日まで平和な学生生活が送れるのだと思っていた。

 が、エロ小説家の妹と言うのは、やはり中学生にとって興味をそそるものらしく、昨日の夜のうちに学校外で既に噂が出来上がっていたみたいだ。最近狩野君と言う親友を迎えた際に結束を固めた我がクラスでこそ迷惑な噂はなかったけれども、彼らはお節介にも「こんな噂になってるよ」などと私に教えてくれる。その私の耳に届く嘘偽りだらけの噂はあまり宜しいものではなかった。例えば兄の実体験をネタにしているのではないだろうか、兄はプレイボーイなんじゃないだろうか、だって。彼女いない暦=人生暦の兄に対してなんて暴言だろうか。兄がとんでもない変人なのは確かだけれど、ベクトルが違うだけでこんなにも腹立たしいとは思わなかった。

 いや、やっぱりそれらの噂と同時に流れている嘘偽りの無い「木村さんのお兄さんて不思議な人なんだね」なんて噂も腹が立つ事には変わり無いのだけれど。

 それだけならまだしも挙句の果てには私も噂に巻き込まれ、兄の小説に協力するためにあんな事やこんな事をしているのではないだろうか。等と言う話まであった。

 流石にこれは許せるものではない。

 ただこれらの噂に黙っている我らが毒子ちゃんではなかった。

 授業終了を知らせるチャイムが鳴ると同時に私の席に来て「舞子行くよ!」と短い言葉だけを言った毒子ちゃんに連行された。そして向かったのは隣のクラスだった。毒子ちゃんは怒りで勢い良くドアを開けたかと思えば「こっち見なさい」と叫ぶ。彼らはこれから何が起きるか分からない。私も毒子ちゃんに手を握られたまま何が起きるのか分からない。

「この娘が木村舞子だよ! 下らない噂を流すな! 聞きたい事があるなら、直接聞きな!」

 また毒子ちゃんは叫んで、隣の教室に向かう。私は頭が理解出来ないまま、毒子ちゃんに連行された。

 こんな感じで噂が広まり始めた火曜日のうちに、各小休止を使い我がクラスを除く全ての三年生の教室を回り演説し、昼休みには下級生の全教室を回り演説してくれた。そのせいで、次の日から私の元へ直接聞きに来る生徒達。この状況も私にとっては有難いものではなかったけれど、毒子ちゃんの対応には危うく泣きかけるほど嬉しかったし、変な方向に噂が広がるよりは、随分とマシだったと思う。改めて思う。噂ってやつは恐ろしい。そしてつくづく思う。学校で兄が魔法を使わなくて、本当に、本当に良かったと。 

 村ちゃんはと言うと、火曜日は私や毒子ちゃんと一緒に演説に付き合ってくれたけれど、水曜日や木曜日には文学少女だった。周囲に何を読んでいるのか悟られないように注意しながら単行本サイズの本を読んでいた。中身は概ね予測出来るけれど、私はあえてそっとしとこうと思った。兄の話題は避けたいのだ。  

 しかし愚かな私は、ついつい聞いてしまった。

 水曜日の二時間目数学の時間の事だ。「はいはいはい! 俺その答え分かります。ドク子と違って頭良いッスから。ドク子よりドクターに近い男ッスから」等と例の男子がいちゃつくキッカケをわざとらしく作り、毒子ちゃんもそれに乗っかってしまった。

 そんな訳で、私も定例行事のように、二時間目と三時間目の間の小休止は村ちゃんの読書を邪魔する事にした。ただ、窓際の席と言う利点を生かし窓に寄りかかる事で背中からの視線をシャットダウンし、自分の傍を通り過ぎる人の視線を何度も確認しながら読書する村ちゃんを見て、と言うか真っ赤に照れながら読書する村ちゃんを見て、『兄のエッチな小説を読んでいるのね』と気付けない私じゃなかった。

 いつもみたいに『何読んでるの?』なんて切り出し方はマズイよなと思いながら、村ちゃんの席を目指す。村ちゃんは村ちゃんで私に『何読んでるの?』と聞かれたくないのか私の接近に気がつくと、しおりを挟む時間すら惜しんで本を閉じた。そして鞄の奥深くにしまいこんでしまった。

 お互いに兄の話題は避けたいと言う意思を無言のまま確認しあった。

 そして、私は話しかけたのだけれど……。

「む~らちゃん。台本の方は読んでいる?」

 言った後に気が付く。文化祭の話題のつもりが、コレ、兄の話題でもあるじゃん。

「あ、はい。面白いです。沢山読んでしまいました。全役のセリフを大体覚えちゃいました」

 元々村ちゃんは暗記科目を得意としていて、去年の台本を覚えるのも誰よりも早かったけれど、流石に二日で全役のセリフと言われると、読んだ回数に興味を抱いてしまう。兄の話題と言えど、掘り下げたくなってしまう。

「もう? 大体全部? 凄い気合だね。やっぱり最後だもんね! で、何回ぐらい読めば覚えられるの?」

「は、はい。えっと……」

 と教室に置かれている時計を見ながら、指折り記憶を探る村ちゃんは、とりあえず可愛いらしかった。

「十五回ぐらいは黙読で、五回ぐらいは声に出して読んでみました」

 黙読なら多分二十分ぐらいでいける。事実私は初見で二十分で読めたし、慣れればもっと早いのかもしれない。ただ声に出すとなると、途端に必要時間は増えるはず。

 黙読二十分、声だし四十分とすると……。えっと、五百分かな。八時間以上はかかる計算。つまりは一日四時間以上。並々ならぬ気合の入れようだ。例えるなら私の受験勉強の二倍以上の時間を、文化祭のために費やしている事になる。

「村ちゃん。そんな受験勉強みたいに気張らなくても。って言うかちゃんと勉強もしなくちゃだよ!」

「あ、はい。分かっているんですけど、つい我慢できなくて……。部活の方で練習するようになったら、ちゃんと受験勉強もしますよ。大丈夫です」

「それなら、良いけれど」

 ここで文化祭の話に繋げれば良かったのだけど、兄の台本に多大な時間を使わせるのは、なんだか兄が村ちゃんの人生の邪魔をしている気分になってしまった。

 そこでつい、一瞬の油断、魔が差してしまった。村ちゃんの鞄に目をやり余計な言葉を言ってしまった。

「そんな小説読まないで、学校でも台本を読めばいいのに……」

 これは失言だった。台本ならばまだ兄の話題と言いきれない部分があったのに、鞄の中にある小説は兄の話題そのものでしかない。

 言った後に村ちゃんがスルーしてくれる事を祈る、なんて暇も無いぐらいに、瞬時に村ちゃんから陰ちゃんに入れ替わり、

「そんな、とはどうしてですか!! その小説も素晴らしいのです!! 高志さんが繋ぐ言葉達は、描く物語は、とても素敵です!!」

 これは『村ちゃんが兄のエッチ小説を読んでいる』と言う私の暫定的事実が、確定的事実に変わった瞬間だった。

「やっぱり、お兄ちゃんの小説なのか……」

 と諦めのため息をつく。だけど陰ちゃんは、

「いえ、さっきの本は違いますよ。私は読めないですから。中学生なので!」

 満面の笑みで嘘をついていた。この状況からも隠し通すつもりらしい。

 まぁ私にとっても有難い話運びだったので、その陰ちゃんの嘘に乗るために、

「そうだよね~。じゃあ、さっきの本は何だったの?」

 安心の質問。どんな嘘が飛び出てきても驚かないし、意地でも気が付かないフリをしようとしたのだけど……。

「えっと……。秘密です!」

 なんか『秘密』と言う単語に嫌な予感が走った。そしてそれは当たった。

「エヘ! テヘ! キャピキャピ!!」

 駄目だ。陰ちゃんは馬鹿みたいだ。村ちゃんとは違うみたいだ。でもあの寒いギャグも陰ちゃんがやるとカワイイなぁ。とか言ってる場合じゃない。

「そっか。秘密か~」

 私はスルーした。とても頑張ってスルーした。

 でも、陰ちゃんは勝手に語り始めた。

 

 ちなみに、舞子さんは勘違いしているようですが『エヘ、テヘ、キャピキャピ』は高志さんのギャグではありません。高志さんが造ったのは確かですが、別の人のギャグなんです。高志さんが生み出した人物のギャグなんです。これはある小説の話なのですが……。

 とあるアウトローな世界に生きていた男性がいます。彼はヤバイ事件に巻き込まれ、拳銃でわき腹を撃たれてしまい大怪我をします。入院してしまいます。

 その男は、と言うかその男が所属している組織はとても悪い組織です。国家レベルです。拳銃で撃たれたのに平気な顔をして普通の病院に入院出来るくらいに大きな悪い組織です。

 だから、その患者さんは悪い入院患者さんです。と言っても彼にとっては『悪い事』をしているつもりはありません。彼にとっては『普通の事』なんです。

 と言うわけで、極々自然な流れで、ナースさんを追い詰め、エッチに苛めてしまいます。

 でも優しいナースさんは彼を恨みこそしましたが、それよりも、彼の内面にある闇について心配します。なんとか救い出せないかと考えます。長い入院生活でしたから、時間は沢山ありました。色々試せました。

 酷い事をしているのに、恨みや嘆きで無い反応が返ってくる。男には初めての経験でした。

 次第に、少しずつ、男性は改心していきます。と同時にナースさんを愛してしまいます。恋をするのも初めての経験です。

 ナースさんもストックホルム症候群的な要素があったにしろ、男性に恋をしてしまいます。

 しかし結ばれてはいけない恋だったのです。何故ならその男性は改心したとしても、簡単には抜け出せそうに無い所まで、どっぷりとアウトローの世界に浸かっていたからです。

 男性が退院する時にナースさんは聞きます。

「退院したら、また悪い事するの?」と。

 でも男性は答えられません。イエスと答えてもナースさんを悲しませる。ノーと答えてもナースさんに嘘をついた事になる。

 そこで、答えないと言う選択肢を選んだのです。それはただの逃げかもしれません。でも現実はいつも冷酷で無慈悲なのです。その男性を誰が責められるでしょう。悪意のある決断ではないのですから。

「秘密だ……」

 男性は恋心を悟られぬように、お前なんかに興味は無いと言わんばかりに冷たく言いました。

 でもナースさんは全てを理解します。彼はまた悪い世界に戻るのだと、そして自分を悲しませないために本当の事が言えないのだと、彼が簡単な嘘をつけないほどに自分を想ってくれているのだと、つまりは自分達は結ばれてはいけない両想いなのだと……。

 本当は気付かない様子で、男性を見送らなくてはいけないのに、ナースさんは涙を止める事が出来ません。

 それを見て、男性も気付いてしまいます。自分の心は全部見透かされてしまっている。

 だから、少しでも場を明るくしようと、精一杯おどけてみせます。

 この時です。

 ついに出ました!

「エヘ! テヘ! キャピキャピ!!」です!

 普段のクールでニヒルな男性からは考えられない、下らないギャグです。

 でも二人は泣きながら、笑って最後の別れをします。

 そんな感動的なギャグなのです!!


 陰ちゃんはペラペラと、最近どこかで聞いたようなあらすじを交え、『エヘ、テヘ、キャピキャピ』のルーツを無駄に詳しく熱弁してくれた。ただ、私には感動は出来なかった。とりあえず理解出来たのは、兄の書く話は根本的にどこか恥ずかしい要素を含むのが定石らしい。なんだよ。国家レベルの悪の組織って。

「そうだったんだ。って言うか、えっと……。村ちゃんは、お兄ちゃんの小説を読んで無いんだよね?」

「はい! 中学生ですから!」

「そうだよね~……」

 正直このお馬鹿な陰ちゃん相手に、どう対応していいのか困り果ていた所で、救いの始業ベルが鳴った。私は席に戻る途中、今後は村ちゃんがおかしな様子で読書しているときは近づかない事にしよう、と心に誓った。私は頑張っていたと思う。


 木曜日には狩野君と話す機会もあった。それは三、四時間目の美術の時間だった。

 前回までは、円形の木の板に、彫刻刀で動物を彫る、まぁよくある美術の授業。でもそれは前回で終わり、今日提出していた熊さんが『B-』と言う評価と共に私の元に戻って来た事は言わなくても良い事実で、とにかく、今日からはデッサンする事になっていた。

 男女ペアを組み、お互いの顔を書きあう、まぁこれもよくある美術の授業。

 私の学校では、男子と女子で別々に出席番号を振る。例えば相沢君と明石さんがクラスにいたとすると、相沢君は男子の出席番号一番で明石さんは女子の出席番号一番になるのだ。

 そして、この授業では男女の同じ出席番号の人同士でペアを決めたのだけど、私の『木村』と彼の『狩野』と言う苗字は、同じかの行の苗字で、やっぱり出席番号も似たようなものになる。というか私と彼の出席番号は同じだった。

 お互いに描きあうと言ったものも、実際には今回は男子が描いて、女子はモデルに専念。来週はその逆。そんな訳で、私は今日、二時間黙って座っている訳だけれど、同姓ペアにすれば良いのに。男子に顔をジロジロ見られるのは、思った以上に恥ずかしいものだった。しかも狩野君は真剣な表情で、鉛筆を使い、私の顔を何度も測るではないか。

 その度に私の耳には、筋肉馬鹿の音声で『ポッチャリ……』なんて幻聴が聞こえる。

 駄目よ。舞子。負けちゃ駄目。あなたは美少女のはずよ。自信持たなくちゃ!

 でも美少女は美少女で、自分の美しさを自覚すれば、やっぱりジロジロ見られると言う行為の裏の意味まで考えてしまうので、この時間が気まずい事には変わりなかった。

 耐え切れなくなった私は、

「狩野君。もうこっちの生活には慣れた? カレー屋さんの場所は分かる? うどん屋さんも美味しいのよ。場所分かるかな? あ、私のオススメはね、駅前のクレープ屋さんなんだけど……、って駅前なら説明する必要ないのか」

 どうでも良い事を、狩野君に尋ねる。

「まだ飲食店までは把握して無いなぁ。必要になった時にインターネットで調べるよ。でも、駅前のクレープ屋さんがオススメか。それは覚えとくかな」

 当たり障りの無い答えが返ってきた。どうでも良い質問の答えなんだから、当然か。

 負けずと私は、会話を続けようと思うのだけれど、

「じゃあさ、三丁目のお饅頭屋さんはどう? 知ってた? 多分、あそこのお婆ちゃんはインターネットとか苦手だろうから、お店のホームページなんてないだろうし、地図にもビル名だけが載ってて気付かないと思うよ。こっちも私のオススメだよ!」

「あはは。さっきから飲食店の話ばかりだね。食べる事が好きなの?」

 ちょっと狩野君の表情が崩れた。真剣だった表情に、笑顔が出来た。

 だけど、男の子から発せられる『食べる事が好きなの?』と言う言葉は、どうにも受け入れがたい響きを持っていた。

「別に、好きじゃないよ。嫌いでも無いけれど。そうね。普通。普通よ!」

 嘘をついてしまう。

 狩野君が無言で笑っているのが、なんかとても腹が立つ。こいつ、私が嘘を言ったと思っているな。事実としてさっきのは嘘なのだけれど、そう思われるのはムカつくのよ。『舞子はポッチャリだから……』と筋肉馬鹿が、また幻聴を言った。

 食べ物の話はし難くなった。そして会話は途切れた。

 別に、私の会話の引き出しが『食べ物』しか無い訳じゃないのよ。これは見栄なんかではなくて、多分クラスの男子から、私はお喋りなんてキャラを割り当てられてるはず。それぐらいに喋る事に困った経験は無い。狩野君と話す時はいつも困っている気もするけれど……。

 きっとそれは、狩野君に対しては、開かずの引き出し、開けてはいけない引き出しの存在感が強くて、どうにもうまく会話する事が出来ないのだろう。

 残念君は狙って、その引き出しを開けに来たのだけど。

「やっぱり、高志さんに似ているよね。まゆげとか、目とか、鼻とか、口とか、耳とか」

 随分と似ているパーツが多いのね。兄妹なんだから、顔のパーツが似ていても仕方が無いけれど、兄に似ていると言われるのはあまり名誉な事では無いように思えたので、

「お兄ちゃんに似ているなんて言わないでよ……」

 私は不機嫌なのを隠さず口調に乗せた。

「なんで嫌なの? 兄妹揃って、整った顔をしてるよ」

 でも直ぐに上機嫌になった。狩野君は女を見る美的センスはあるのね。男を見る美的センスは残念君だけれど。

 開けたくなかった、兄の話題という引き出しは、狩野君に開けられてしまったので、兄に聞いても秘密にされる事を彼に聞いてみた。

「狩野君とお兄ちゃんは知り合いなの?」

 狩野君の表情から笑顔が消え、でも優しい口調で言った。

「秘密だよ」

 また出た。忌み嫌う単語になりつつある『秘密』。

 私はアレが飛び出る前に、

「駄目! 変なギャグ禁止! 反対! エヘテヘカッコ悪い!!」牽制。

「君は面白いなぁ。僕がやると思うかい? 高志さんの事は好きだけど、あのギャグは頂けないよね」

「そっか。良かったよ~。もう、お兄ちゃん病でも流行ってるんじゃないのってぐらいに、私の周りは影響受けちゃってさ」

 私は兄の周りにも、まともな人間がいる事に安堵したのだけど、

「それなら、僕も高志さん病にやられてる側の存在かな」

 兄の感染力は相当な強いらしい。あれだけ個性的なキャラをしていれば、まぁそういうものなのかもしれないけれど。

 いや、それよりも、『エヘ、テヘ、キャピキャピ』は兄のエッチな小説に出てくるギャグのはず。何故に狩野君が知っているの? まぁ兄も使っているから、知っていたとしても不思議ではないけれど、念のためカマをかけてみた。

「狩野君。なんでお兄ちゃんのギャグだなんて思ったの?」

「あ~。そっか。高志さんの本は十八歳未満は読めないんだっけ。そして僕は中学生だったね。今のは失言だったよ」

 やっぱり、村ちゃん同様、あの本を読んでいたらしい。

「そうだよ。何のための年齢制限だと思ってるの。って言うかそういうルールとか関係なくて、お兄ちゃんのエッチな本は読まないでよ。私が凄く恥ずかしいから。読んだとしても、せめて私に悟られないでよ」

 意図せずとはいえ、私が誘導尋問にかけたような流れだったけれど、文句は言うべきだった。だってもの凄く恥ずかしいもん。

 目の前にいる男子は、ただの同級生ではなく、私の兄を知っていて、その兄が書いたエッチな小説を読んでしまった人物なのだ。私の多くの恥を知っている人物だ。

 おかしいなぁ。

 ジロジロ見られるのが恥ずかしくて、始めた会話なのに、話せば話すほど、私は恥ずかしくなるばかりだ。

 私だけこんな気持ちになるのは不公平に思えたので、狩野君もぎこちなくなれば良いのにと思い、ジッと彼の目を見つめてみる。いつかのように、薄く開かれた目からは瞳が確認できない。それでも私を見ているのは確かなようで、時々、私の顔の何かを鉛筆で測っていた。だけど淡々とデッサンを続けていく。

 って言うか、美少女が見つめているのだから、少しは照れなさいよ。

 狩野君はやっぱり残念君でしかないな。

 私が彼の評価を決定付けたのと同時に、やっと窮屈だった美術の時間は終わった。


 こんな感じで結局の所、木曜日まで平和な日は一日としてなかった訳だけど、とにかくついに今日だ。今日の放課後には、役を決める事になる。

 放課後。今日、私は掃除当番だった。

 こんな時に、もう一時間後には役を決めるミーティングが始まるのに、掃除をしながら、どの役に立候補するか思いを巡らせ、妄想を楽しみながらする掃除は悪くなかった。

 私たちの演劇部では、基本的に文化祭の劇の配役は立候補で決める。斉藤先生の方針だ。

 個人個人に、適した役というのも存在するだろう。だけど、やりたい役をやった方が楽しいわ。楽しい方が勉強になるわ。

 とか確かこんな感じの事を言っていた。

 とは言え、みんながやりたい役だけをやると言う訳にはいかない。やっぱり人気のある役と無い役ってのは出来てしまうしね。でも、例え文化祭で演じられなくても、その後の普通練習で、やりたくない役も含めて全役を演じられる。演じさせられると言っても良い。私みたいな美少女ですら、やりたくない「ぐへへへ」なんて言い出すチンピラ役もやるぐらいだ。

 そんな訳で、一つの役に立候補者が複数人いた場合、普通練習で演じる機会が無い引退してしまう三年生が優先して権利を取得できる。だから村ちゃんもあんなにやる気になっていたの。

 更に、文化祭の公演は二回あるのだ。

 全校生徒の前で披露する、文化祭一日目に演じる前日公演。

 父母や一般客用に披露する、文化祭二日目に演じる後日公演。

 斉藤先生の『やりたい役をやって欲しいわ』なんて思惑もあってか、前日公演と後日公演では、同じ役でも別の人が演じるのが通例だ。と言う事で、一役にチャンスは二人分。さらに三年生優遇ときた。だから三年生は、希望の役をやれる可能性がかなり高いのだ。これは直前まで悩むのも仕方ないわ。どうしよう。

 教壇前に集められた埃やちりを、ちりとりで軽やかに拾い集め、そのゴミをゴミ箱へ捨てる。ゴミ箱を持ち上げてみれば、今日のはやけに軽く感じる。

 私はそのまま焼却炉に向かうため教室を出た。

 廊下では、手伝う素振りを一欠けらも見せない、薄情な友達二人が談笑中。それでも幸せ気分な私はニコヤカに話しかける。

「何話してたの? やっぱり役の事?」

「お、舞子。もうゴミ箱を抱えている所を見ると、掃除はそろそろ終わりかな。って言うか、何度も言ったじゃない。私は既に何に立候補するか決まってるって」

「でも、秘密なんだよね。そうでした、そうでした」

 毒子ちゃんは、火曜日には意思を決まっていたらしいけれど、私達には教えてくれなかった。言いたい事は何でも言ってやるぜ、の毒子ちゃんらしくない。

「毒子のケチ~!」

「ふふ、何とでも言いなさい」

 悪態を軽やかに跳ね返す所は、毒子ちゃんらしかった。

 対して暗記してしまう程に何度も読み込んでいる村ちゃんは、今日になっても、なかなかに決められないみたいだった。

「村ちゃんは? どう? 決まった?」

「あ、はい。さっきまで悩んでいたんですけど、今、ドク子さんと話していて……。やっと、決められました」

「そっか、そっか。何にしたの?」

 村ちゃんは『待ってました』と言わんばかりの健やかな笑顔で、

「秘密です」と言って、

「えっと、その……。エヘ、テヘ、キャピキャピです」

 照れくさそうに言った。恥ずかしいなら、やらなきゃ良いのに。でも村ちゃんがやれば、やっぱりカワイイなぁ。抱きしめてしまいたい。

「そかそか。あとでのお楽しみだね!」

「舞子。私の時と随分と対応が違うじゃないか。それよりも、さっさとゴミ捨ててきなよ。いつまで経っても掃除が終わらないじゃん」

 毒子ちゃんに言われ、教室の方へと振り返れば、何とも恨めしい視線でこちらを見つめてくる掃除当番メンバーが見えた。

「あちゃ~。なんかみんなの視線が痛いね」

 私は急がなくちゃと思いながらも、それよりもこういう場合って質問には質問で返すべきよねと不満に思いながら、今思えばこの三日間私は一度として希望する役について聞かれなかったなと思い出し、「ねぇ。私には聞かないの?」と素直に聞いてみた。

「その質問は羨ましいです。嫌味です」と村ちゃんからは謎の返答。

「舞子は悩む必要ないじゃない」と毒子ちゃんからも同じく不思議な返答。

 本当は言葉の裏にある意味ぐらいは察せたのだけれど、その役は嫌なので、話題に出すのも嫌なので……。まぁ、いいや。聞かれてもまだ決まって無いし、と思う事にした。

「私はまだ決められないんだ~」と独り言のように漏らす。そして二人の反応を待つ事無く、歩き始めた。膝で歩数と同じ回数分ゴミ箱を蹴りながら、その足取りはまるでスキップの如く。

「姫様が行儀悪いぞ~」

 と毒子ちゃんの野次も聞こえたけれど、「はいはい」と返事をし蹴る行為だけは止めて、『姫』と言う部分は聞こえないフリをした。

 掃除を終え、ジャージに着替えて、私達が第一視聴覚室に着いた時には、殆どの生徒が揃っていた。だけどいつもの様な賑やかさは無く、みんな無言で台本を読んでいた。私達も彼らに習って、静かに着席し、台本を読む。

 この重い空気、でも嫌いじゃない緊張感。

 練習を開始する時間になり、部長さんの合図で基礎練習を始めるけれど、やっぱり静かだ。それぞれがこの瞬間、ミーティングまで一時間も無いこの時間になっても、悩み続けているのだろう。

 自分の決断はこれで良かったのだろうか? 

 本当に自分がやりたい役はこの役なんだろうか?

 もし立候補した役に人気が集中してしまったらどうしよう。

 一年生の私が大きな役に立候補していいのかな?

 主役に人気がなくて、二年生の私が主役を演じられたりしないだろうかな~。

 三年生なんだから、悔いの無い選択をしたい。

 きっと、そんな自問自答をしながら、身の入らない基礎練習をしているに違いない。

 私だってそうだ。

 本当の私ってなんだろう。なんて私たち中学生は悩んだりもするのだけれど、私に言わせれば『本当の私』って言い方は間違っている。そういう事で悩む人が正しく言うなら『別の私になりたい』なはずだ。

 家族の前で見せるあるいは家族の前だから出来る食いしん坊な私、同じようにクラスメイトに見せる明るい美少女な私、先生に見せる真面目風な私、友達に時々だけ見せる泣き虫な私、そのどれもは違った色を見せる。違った表情を見せる。違った性格を見せる。

 けれど、その時にそういった私を見せる、見せてしまう、見せる事しか出来なかった、その決断をしているのは誰でもない『私』自身なのだ。

 つまりどの私も『本当の私』な訳。

 私達はいくつもの『私』を持っている。そして状況に応じて『私』自身を演じている。でもその全ての『私』は『本当の私』。だから、演技なんて特別な技術では無いのだと思う。私達は常に私を演じているのだ。それが社会環境に適応しなければいけない、人間と言う生き物なのだから。

 でも演劇でやるのは『私』じゃない。似ている時もあるけれど別人。全然似てないから別人。

 私は別の誰かになる。

 そして今回、文化祭の演目の役を決めると言う事は、別人を私の中に受け入れると言う事。三ヶ月もの間、一緒に生活を共にするパートナーを選ぶ作業なの。

 それはまるで、結婚相手を決めるかのような、就職する会社を選ぶような、進学する学校を選ぶような、そういう重さを持っている。楽しみを持っている。希望を持っている。

 だから、私は斉藤先生が顧問で良かったと思う。

 この大事な状況で、この演劇部では選択出来るのだから。私は自分でやる役を選ぶ事が出来る。それが叶うとは限らないにしても、悩んで選ぶ事が出来る。

 私は誰になろう。誰と共に文化祭を目指そうか。

 完璧な論理的思考を持つ美少女である私は、哲学的思考にも憧れる。魔王さんも良いなぁ。

 でもやっぱり女子なんだから、カワイイ服とか着てみたいのよね。メイドさんも良いかなぁ。

 ただ努力家の異国人騎士団長さんも、カッコ良くて憧れるのよね。私と違って無口だし。

 決められない。

 そんな調子で、なんとも上の空な発声練習を終えた。

 そして私達は、三年一組の教室に向かう。役を決めるミーティングをするのには、黒板があった方が都合が良いからだ。だから斉藤先生が担任をしている、つまりは私や村ちゃんや毒子ちゃんが所属する三年一組へと移動する。

 ここでも無言で集団移動。

 先頭を歩いていた部長さんが教室のドアを開ける。

 教室には斉藤先生がいた。優しい笑顔で「いらっしゃい」と言った。

 次々と教室に入り勝手に座る慣れた様子の上級生。とは違って戸惑う一年生。

「好きなところに座って!」

 と言う部長さんの言葉を聞いて、各々着席した。私たちは窓側の村ちゃんの座席周辺に固まって座った。

 黒板にはもう、全ての役名が書かれていた。私達が掃除の後に書いたのだ。せっかく自分で綺麗にした黒板に直ぐに文字が書き込まれ、せっかく綺麗にした教壇にはチョークの粉が落ちてしまった。だけどそんな事はどうでも良かった。その一つ一つの役名を書き込みながら、私は物語を思い出し、簡易的に心の中で演じてしまった。どの役も魅力的だった。全ての役をやってみたかった。引退なんかしたくなかった。

 でももう決めなくてはいけない。私は目を閉じて一回の深呼吸をする。その短い時間で、最後の自問自答。光を閉ざされた闇の中に浮かんで来たのは、二つのキーワードだった。

 そのうち一つは……、メイドさん。

 よし、決めたわ! 私はメイドさんを希望する!

 部長さんは、紙を配っていく。やる演目を決める時にも配っていた投票用紙。今回の場合は立候補用紙かな。

 それに自分のやりたい役を書き込み、部長さんに提出する。これもあの時と同じ流れね。

 そして部長さんが全員分の紙が集まったのを確認し、副部長さんと手分けして黒板に書いていく。黒板に大きく書かれている役名の隣に、小さく立候補者の名前を書いていく。

 ここでも無言無音の教室。自分の希望が叶うかどうか、祈りながら板書する二人を見つめる。

「え?」と驚きの声が聞こえた。ある人のイメージとは違う希望に驚いていた。

 二年生の女子中学生が「あ」と小さく言った。三年生二人と希望が重なってしまったのだ。

「やりぃ!」と三年生の男子生徒がガッツポーズを取った。三年生の名前が全部出ても、自分の希望した役は他に希望者がいなかった。

 そうして名前が出揃って来るにしたがって、静かだった教室から様々な声が上がる。緊張感に包まれていた空気が、歓喜や悲壮で淀んでいく。

 やがて、全ての名前が黒板に書かれた。

 いくつかの役は三名の希望者がいたけれど、概ね二名以下の希望だった。多くの人の希望が叶った。

 主役である旅の凄腕魔法使いのラージさんには、三年生の男子三名の希望者がいた。

 私の希望したメイドさんにも三名の希望者がいた。

 私、村ちゃん、そして先ほど「あ」と声を上げた二年生。

 他の役は二名以下の希望者。

 そもそも、一役に二名の枠がある状態なので、つまりは役×二の人数分の枠がある状態だけれど、それは演劇部員の人数より結構多い。

 だから前日公演と後日公演の両方を一人が演じる事もある。

 うまく希望がバラければ、みんなが希望通りの役を演じられたはずだった。だけど、人気のある役、希望が集まりやすい役というのもある。

 今回はうまくバラけてくれた、方だと思う。

 部長さんはチョークを握ったまま振り返り、

「えっと、以上で終わりです。これを見て変更したい人とかはいますか?」 

 ラージさん希望の三年生は、無言の笑顔で会話し、その内の一人が変更を申し出た。一人しか希望者のいなかった宮廷魔法使いオールサイさんに変更したい、と。

「他にはいませんか?」

 と部長さんは言うけれど、後の人は変更する必要は無い。一人を除いては、希望が叶ったのだから。

 数分の沈黙の後、二年生の女子生徒が挙手した。このままいけば、自分は自動で変更を余儀なくされる、三年生と希望が重なってしまった、彼女だった。メイドさんから変更をするのだろう。 

 部長さんが彼女を指名する。

 彼女は起立し、大きく息を吸い込んだ。彼女の横顔は笑っていた。澄み切った微笑だった。

 けれど、私の心で誰かが言った。「本当にそれで良いのか?」と。

 誰か、じゃないか。それは私の中にある私が、私自身に問いかけた言葉なんだ。別に二年生の彼女が三年生に役を譲る事に対しての罪悪感がある、とか言う訳じゃない。そうじゃない。

 私は、自分自身に、嘘をついている。

 実のところ、月曜日に感情的になってしまった私は、台本のある単語をことごとく黒く塗りつぶした。そして台本を読む時には、黒い棒線には別の単語を置換して読むようにしていた。

 だからみんなが知っている物語と、私の知っている物語は、ほんの少しだけ違う。

 私は黒い棒線を『ティンク姫』と置換して、台本を何度も読んだ。

 そしてティンク姫は私を魅了した。

 別の役とは違う。やりたい理由は説明出来ないけれど、何故か強く惹かれ、どうしてもこの役をやりたいと思った。さっきの目を閉じ行った、最後の自問自答でだって、真っ先に出たキーワードはティンク姫だったの。

 だけど、ティンク姫は、私の台本にしか存在しない。それが問題だった。私は自分に嘘をつかざるを得なかった。

 でも……。本当にそれで良いの?

 二年生の彼女が、

「えっと、私メイドさんをやめま……」

 辞退の宣言を言い切る前に私は、

「ちょっと、待った~!!」

 起立しながら叫んだ。

 みんなの視線が私に集まる。キョトンとした表情を見せる彼らの気持ちは理解できる。一体私が何を言い出すのか、予想つかないのだろう。

「みんな、おかしいよ。なんでティク姫に誰も立候補をしないの? ヒロインだよ! 良いの? 空いてるよ?」

 私は彼らの疑問に答えたのだが、よりいっそう疑問を深めたような表情になった。何も言わないって事は、問題ないんだろうと判断した。

「じゃあ、私がティク姫も~らい! 変更を申請するわ。部長さん」

 みんなの表情は、さらにクエスチョンマークだらけになっていく。毒子ちゃんを除いては。

 時を止めた少女になってしまった部長さんに、毒子ちゃんは、

「舞子はお姫様を希望するってさ」

 言い終わると同時に、噴出すように大声で笑い始める。

 みんなは笑わなかった。村ちゃんの小さな拍手から始まり、つられてみんなが拍手大喝采。

 部長さんも嬉しそうに、メイドさんの隣に書かれていた私の名前を消し、お姫様の隣に私の名前を書いた。

 今度は私が、みんなの気持ちを理解出来なかった。

 毒子ちゃんは私にだけ聞こえるかのような小さな声で、

「舞子。一応確認するよ。舞子姫になる覚悟が出来たんだよね?」

 そうなのだ。多分誰も気がつかなかっただろうけれど、ティンク姫は舞子姫の事だったの。

「うん。名前なんか関係ないよね。私は舞子姫になりたい。むしろ最高の舞子姫を演じて魅せるわ。みんなが『譲るんじゃなかった』って後悔するような、最高の舞子姫になってやるわよ! もう既になりきってるわ。アイ アム 舞子姫よ!」

 ちょっとヤケになって、舞子姫という単語を連発してみた。だんだん吹っ切れてきた。 

「そういう舞子、好きだよ」

 毒子ちゃんはどこか毒を隠したような褒め言葉をくれた。

 村ちゃんには私たちの会話は聞こえていたみたいで、

「姫さんなら、大丈夫ですよ」

 優しく応援してくれたけれど、なんか変なあだ名を付けられた。よりによって、まさか村ちゃんに?

「姫! ガンバ!」

 毒子ちゃんにもそのあだ名は気に入れられてしまった。

 多分、明日にはクラス中に『姫』と言うあだ名が広まるんだろうな……。まぁ、いっか。一年に一回の大行事、私達にとっては最後の大舞台なんだ。とことん暴走してやるわよ! 悔いの残らないように、ガムシャラ暴走少女でいくってもんよ! それに姫ってあだ名なら、美少女で上品な私にピッタリだし。 

 この後、部長さんが他に変更が無いかを確認したが、特に申し出る人はいなかった。

 二名の希望者がいる役を希望した人は、前日公演か、後日公演かを話し合う事になる。そして決まった日程を黒板の自分の名前の上に、前日公演なら『前』と、後日公演なら『後』と書き込む。各々は決まった配役を、自分の台本に書き写していく。

 という一連の作業が終わった所で、斉藤先生は教卓の前に移動し、締めのスピーチをする。

「まずはお礼を言うわ。今日まで真剣に悩んでくれてありがとう。そしてこれはお願い。希望通りにならなかった人もいるけど、自分の役を最後まで愛してください。文化祭が終わった後も、今回の劇が大切な思い出になるように、人生の最後まで愛してあげてね! 最後に顧問として命令です。文化祭まで手も気も抜かず、真剣な気持ちで、最高に楽しんでね!」

 こうして拍手の中、最初の重い空気はどこへやら、熱い熱気に包まれながら、ミーティングは終わった。と思ったけれど……。斉藤先生は、とんでもないサプライズを用意していた。

「もう一つ。お知らせしたい事があります。ご存知の人も多いかと思うけど、札幌ではいくつか演劇を発表できる大会があるわ。と言うのに、今この演劇部では文化祭だけの公演よね。だけど三年前には違ったの」

 私も噂でしか聞いた事の無い話だけれど、三年前、ちょっとした事件があり、この学校の演劇部は大会出場禁止の処分を受けた。それは一つの大会についての処分だったのだけれど、不服とした部員達は、文化祭公演だけに絞って活動するようになったらしい。その事件での演劇部の関係者は、去年の三年生が卒業した事で、今年、斉藤先生だけになった。

「詳しくは言えないけど、三年前に生徒達の意思を組み、そういう方針にしたわ。だけど、あなた達には聞いてなかったよね。ゴメンね。彼らが卒業したからって、手のひらを返したように方針を変える事について、なかなか結論が出せなかったの」

 斉藤先生は一度深く頭を下げゴメンなさいと謝った。

「だから、文化祭が終わって、初めての練習ではミーティングを開こうと思ってます。その時までに、大会でも発表してみたいかを考えてみて頂戴ね!」

 と微笑み、最後に三年生一人一人の顔を順番に見つめてから、

「三年生の皆さんには、選択の権利すら与えず、大会に出場出来なったよね。本当に申し訳なく思ってるわ。ゴメンなさい」

 もう一度、先ほどより深く頭を下げた。

 誰も何も言わない。

 怒っている人はいないと思う。ただ、今の私達にはどうでも良い事だった。もう気持ちは文化祭に燃えに燃えている訳だし、入学した頃から文化祭一筋だった訳だし、何より卒業していった先輩たちの意思に賛同する気持ちもあった。その一方で、後輩達には特に去年の三年生と接点のなかった一年生には、出来れば舞台で発表する機会を多く体験して欲しいと思ったし、それも自分達の意思で「やりたい」と言ってもらいたかった。

 先生の悩みや、行動は、理解出来た。だから、何も言えなかった。許しの言葉って言うのは、意外と出て来ないものだった。それもそうだ。許すも何も、私は怒ってすらいないのだから。

 そんな時、頼りになるのは猪突猛進、毒子ちゃんだ。

「先生は、何を謝っているんだい? 私達は文句を言った記憶も無いのに、勝手に罪の意識を感じられても困りますよ。まぁ、今後演劇部を背負う後輩諸君! きっちり悩んで、来るべきミーティングでは自分達の意思で『やりたいです』って言いな!」

 何故か、選択の権利を奪う形で熱く語った。すかさず三年生の男子生徒から、

「いや、ドク子。選ばせてやれよ」

 と言う笑いながらのツッコミが入り、村ちゃんも、

「自分達で選んだ結論を大事にしてください」

 と後輩にエールを送ったので、頼りになる美人先輩な私も、

「文化祭だけじゃなくて、大会も、きっと見に行くからね! 頑張ってね!」

 エールを送れば、

「いやいや、姫。それじゃ彼らの結論を決定付けてるじゃない。別に文化祭だけ公演の部活でも、自分達で納得してるなら良いじゃないか」

 あんたが言うなよ、の毒子ちゃんからのツッコミを受けた。ついでに、演劇部全体に『姫』と言うあだ名を披露した。

 こうして、熱い熱気と笑いの空気の中、ミーティングは、今度こそ終わる事になる。

 聞こえるように言ったんじゃ無いだろう、

「あなた達の顧問をやれて良かった」

 という斉藤先生の独り言に、

「私も先生が顧問で良かったと思ってるよ」

 と心の中で返した。

 その後、前日公演の面子だけ第一視聴覚室に移動し、台本を片手に、声だけで、最初から最後まで演じてみる事になった。

 残りの面子は教室に残り、必要な大道具や小道具や衣装についてや、すっぽり台本から抜け落ちている演出効果をどうするかなどについて、話し合うみたいだった。

 前日公演も、後日公演も舞子姫として出る私は移動する。毒子ちゃんは居残りだ。村ちゃんは後日公演のメイドさんだけれど、希望者のいなかった『村のお婆さん』役を前日公演で演じる事になったので、私は村ちゃんと一緒に移動した。

 この後の練習で、大勢の部員達に舞子姫と言われて、私は次第に舞子姫である事に慣れてきた。馴染んできた。ただ兄への恨みは忘れない。

 練習を終え、教室に残った毒子ちゃんと合流し、いつものように三人で下校する時、私は聞いてみた。

 ずっと気になっていた事を毒子ちゃんに聞いてみたのだ。

「毒子ちゃんは、なんで黒子役なの? せっかくの最後の機会なのに」

「おや。姫様は黒子を軽視しているのかい?」

「違うよ! そうじゃないけど……」

 黒子さんは絶対に演劇に欠かせない、重要な存在なのは確かだ。でも……。

「だって、毒子ちゃんが珍しく秘密にするから、どんな役を希望するのかずっと楽しみにしてたんだよ。理由ぐらい聞いても良いじゃない。それに、黒子さんって今まで誰も希望する人なんていなかったでしょ。だから、なんでかな? って思ったの」

「う~ん。そうだね。何て言ったら良いのかな。舞子さ、村もだけど、多分演じる時に何も考えて無いでしょ?」

「ななな!! いきなり、失礼な! 私だってちゃんと考えてるよ! どの位置に立てば、私が美しく見えるかとか!!」

「私も考えてますよ。照明さんや音響さんとタイミングを合うようにしないと、とか考えて演じてます~」

「あ~。ゴメン。そうじゃなくてさ、なんだろうな。あんたらは役に成りきるタイプの役者じゃない。だから、仕草とか表情や声のトーンとかね、自然に生まれた演技でしょ? そういう意味ね」

「言われてみれば……。そうかも。でも普通そうじゃないの?」

「ん~。今まで誰に聞いたでも無いからな~。普通がどうなのかは分からないけど、私は違うんだよね。見る人が怒ってると認識してくれる表情はどんなのか? あるいはこのシーンで感動してくれるように印象付けるのに有効的な仕草はどんなのだろう? そう言う事を考えながら演技してるんだよ。演じる役がどんな人物かについては考えるけど、ぶっちゃけ演じる役とそんなにシンクロはしない」

「うひゃ~。驚きの事実だよ」

「ビ、ビックリです」

「それで悩んでたんだよ。こんな演じ方で良いのだろうかってね。だから斉藤先生に聞いてみたのさ。去年の文化祭公演が終わって、一週間後ぐらいかな」

「そんなの知らなかったよ。驚きの新事実だよ!」

「ビ、ビックリしました……」

「その時、まぁ、色々話し合ってね。結果として、先生は私の方法も何一つ間違ってないって言ってくれたんだ。で、その時、客観的に演じるのが私流なら、いっそ客観的に劇全体を見て演出してみたいって思ったんだよ。だから黒子希望って言うよりは、斉藤先生のポジション希望って感じかな」

「なるほどね。納得の事実だよ」

「ビ、ビックリ仰天です。理解しました」

「ふ~。あんたらって、真面目な話は苦手みたいだね……。いや、舞子は聞くのが苦手なんだろうね」

「失敬な毒子ちゃんね!」

「ビ、ビックリ感想です。落ち込みました」

「そして、多分村はわざとだ。テンパってる舞子を見るのが嬉しいんでしょ? 舞子が焦るように同調しているでしょ?」

「そうなの? 村ちゃん?」

「ビ、ビックリです。バレてしまいました」

 ともあれ、毒子ちゃんの意外な気持ちを聞けて良かった。だけど、最近村ちゃんが私イジリをするようになったのは、嬉しくもあり、悲しくもあった。

 その後二人と別れ、家に帰れば、兄が玄関で待ち伏せしていた。

「どうだった? 舞子姫に無事になる事が出来たか?」

 と聞くためらしかった。私は無視しようかと思ったけれど、学校でこの事実を知って騒がれても困るので、

「私しか希望者はいなかったわ」と返答する事にした。

「自身で希望したか! そうかそうか。やっぱり、舞子も気に入ってくれたのか!!」

 とはしゃぐ兄を今度こそ無視して、『二分でご飯作戦』を決行した。兄は一人虚しく、見えない誰かと万歳斉唱をしていた。

 

 次の日から、主に声だけの演技で練習する事になった。一日に、前日公演メンバーで一回、後日公演メンバーで一回ずつ行った。

 この日から兄も練習に参加したが、思ったより大人しかった。ウルサクするなと釘を刺しておいた、肩ビンタが効果あったのかもしれない。と言うより真剣だったのかもしれない。真面目に静かに練習を見て、その都度台本に何かを書き込み、斉藤先生と何かを相談していた。やっぱり二人は相性が良いように見える。特に元々ファンだったらしい斉藤先生は、兄に対して良い感情を持っていそうだった。女の人特有の「ちょっと、やだ~」みたいな猫パンチ平手風の仕草で、何度も兄にボディータッチしていた。関係ないけれど、村ちゃんの元に陰ちゃんが、よく来るようになった。 

 各自が演じる役の資料作成もしてみた。その資料には台本に無い設定もドンドン書いて良かった。私は気分良くボールペンを走らせていたのだけれど、「姫さ~。好きな食べ物以外のエピソードも書きなよ~」と覗き見てくる毒子ちゃんが煩かった。

 こんな感じで、ハイテンションでエンジョイな練習だったのだけれど、期末試験の関係で練習開始して一週間後からはお休みになった。

 受験生でもあるし、下手に悪い成績をとっても困るし、と言うよりは今以上に悪い成績を取ってしまったら困るので、この期間は劇の事を忘れて猛勉強した。その甲斐むなしく、いつも通りのちょっと悪い成績だった。

 期末試験の後からは、大道具はもちろん小道具も、音も光の演出もない、人だけが演じる状態での練習になった。月曜日には丸一日役作りのために当てられた。他の人の役について資料作成してみたり、あるいは自分の役に成りきってアドリブ即興劇をしてみたりしてみた。水曜日は毒子ちゃん指揮の下、全員で道具作りなどをする日になった。

 そうして、一日一日が忙しい割りに、あっという間にカレンダーは進んでいき、夏休みに突入した。

 

 夏休み初日。いつもより少しだけ早い時間に起き、いつもより少しだけ早い時間に学校に向かっているのに、いつもと同じはずの道は寂しいものだった。いつも学校に近づくにつれ増えてくる、生徒たちの群れがいないだけで、印象が随分と違った。更に時々見かける生徒たちも学生服ではなくジャージ姿の人が殆どなので、改めて今日からは夏休みなんだなぁ~と思った。一杯練習してやるわ! と思った。受験に向けて勉強を頑張ろう! とはあまり思えなかった。

 学校に着いた後は、いつもと違う行動をする。教室には向かわず、直接第一視聴覚室に向かった。

 正直自分達のグループが一番早く教室に到着した自信があったのだけれど、ドアを開けた先には、一人台本を読んでいた兄がいた。そう言えば、最近は朝夜問わず良く見かけた兄を、今日の朝は見かけなかったなと思いながらも、とりあえず挨拶ぐらいはしとこうと思った。

「お兄ちゃん。早いんだね。おはよう」

 毒子ちゃんも続いて「おはようございます」と、村ちゃんは陰ちゃんになりながら「おはようございます!!」と挨拶をする。

 兄は私達三人の前では、馴れ馴れしくして良いと思ったのか、

「おぉ~! 舞子たちも早いでは無いか! さては、私を朝見かけなかったから急いできたのだな!」と何とも腹の立つ事を言うので、

「お兄ちゃんがいない食卓について何の疑問も沸かなかったわよ。今、この瞬間まで」

 正直に伝えてあげたが、

「舞子の寂しい気持ちも分かる。だがしかし、本当に舞子のためを想っているから、一緒に登校したい気持ちを抑えて、誰よりも早く学校に来たのだ!!」

 聞いちゃいなかった。陰ちゃんは「素敵です!」と拍手していた。

 毒子ちゃんは演出についての相談をしたかったらしく、兄の元へと行ってしまった。陰ちゃんもその後を追いかけ、三人で楽しそうに談笑。

 でも、私はあの集団には混ざりたくなかったので、一人台本を読む事にした。けれど、台本を一ページも読まないうちに、やっぱり寂しくなったので、兄の元で談笑する事にした。  

 話題は『魔法より愛だ!』の事が中心だったし、まぁまぁ楽しかった。

 次第に人が集まり、九時になった所で、基礎練習を開始した。

 その後は、いつもと同じように通しで演じてみた。このぐらいになってくると、自然とセリフも覚えてきて、台本を持たずに演技に集中する生徒も増えてくる。

 そうなってくるのを待っていたのか、今日になって、黒子と言う名の演出家になった毒子ちゃんから初めて指導が入った。と言っても斉藤先生の意思を受け継いでいるのか、演技自体は役者に任せる方針らしい。

「このシーンは雨が降ってる事にしようか」とか、「舞台の上では表現しないけれど、この子は朝食に失敗したから一日中ちょっと落ち込んでる裏設定を加えよう」などという感じで、私たちのイメージを誘導はするけど、役作りに関しては役者に任せるみたいだった。一方の兄は見ているだけだった。

 十二時を過ぎた辺りで、今日の練習は終わる事になる。

 毒子ちゃんは兄と話があるらしく、帰らないみたいだった。村ちゃんも兄と話がしたいらしく、帰らないみたい。

 また朝と同じような状況になってしまった。けれど、そんなに兄と絡みたくも無いし、絡む必要も無いので、たまには一人で帰るのも良いかなと思い、一人で帰宅する事にした。

「更衣室に立ち寄らないで帰られるのは夏休みの特権よね」、「そうね。いつもジャージで帰りたいわ」、「駄目よ。制服にしわがつくし、毒子ちゃんがウルサイんだから」、「あら、舞子。私が怒らなければ良いって事かい? 頂けないね」、「違うよ。毒子ちゃん。(本当はそうだけど)」、「あの。私は制服も好きです。嬉しいです~」

 などと一人で心の会話を楽しみながら、校門に向かえば、待ち伏せが趣味の男がいた。狩野君だ。正直、少し寂しかった私は、嬉々として話しかける。

「狩野君。今日も待ち伏せ。良い天気だもんね。ストーカー日和だよ!」

 狩野君は「参ったな」と言いながら微笑み、

「第一声からきつい事を言うなぁ。何か嫌な事でもあったの?」

 私は「ちょっと、聞いてよ!」と兄に友達を取られた怒涛の愚痴を吐き出す。狩野君は真面目な話なのに、不真面目に笑いながら聞いていた。

「大変だったね」と言う慰めの言葉は、全然心がこもっていなかった。

 一通り愚痴り終わって、ちょっとスッキリした私は、

「所で狩野君。今日は私の待ち伏せ? お兄ちゃんの?」

「高志さんだよ。ちょっと約束をしていてね」

「そうなの? お兄ちゃん、毒子ちゃんや村ちゃんや斉藤先生と一緒に話してたよ。う~ん、あの調子じゃ長引きそうだったなぁ。私、呼んで来ようか?」

「いや、大丈夫だよ。約束の時間は十三時半なんだ」

 私は学校の大時計を見てみる。時刻は十二時半を少し過ぎた辺りだった。

「狩野君って変わってるね。ただのストーカーじゃないね。根性のあるストーカーだったよ」

「君はヒドイ事を言うね。でも、まぁ、僕は時間はゆっくりと過ごすタイプなんだ。こうして待ってる間も楽しいし。それに高志さんが早く学校から出る事になったら、その分長い時間遊べるでしょ?」

 狩野君は恋する乙女みたいな事を言った。私は同性愛疑惑を思い出し、

「あのね。狩野君。別に狩野君の趣味や趣向について文句言う気は無いわ。だけど、お兄ちゃんは駄目なの。妹である私は二人の恋を応援出来ないわ。コソコソするのも嫌だから、言っちゃうけれど、今私はお兄ちゃんと斉藤先生をくっつけようと頑張ってるの。ゴメンね」

 私はハッキリキッパリ狩野君の目論見を否定した。突然ではあるけれど、難しい事を言ってる訳でも無いのに、狩野君は理解するのに時間を要するみたいだった。不思議がっていた。

「ごめんね。狩野君。別の恋は応援するから、お兄ちゃんは諦めてね」

 私は謝った。狩野君はようやく理解出来たみたいで、

「君は面白い子だよ。安心して。僕は男性を恋愛対象として見てないさ。いや、女性も見てないかな。あんまり色恋沙汰には興味が無いんだよ」

 狩野君はショックだったのか、中学二年生みたいなカッコの付け方で誤魔化していた。

 私は「そう……」としか言えなかった。狩野君はあくまで認めないみたいで微笑みながら「困ったな。まぁ、いつか誤解がとければ良いよ」と強がっていた。

「しかし、そう思われてたのか。君は何処まで知ってるんだい? 僕や高志さんの事。あるいは君自身の事について」

「ん? 何が? って言うか、秘密にして隠すのはみんなじゃない。それとも教えてくれるの? 狩野君とお兄ちゃんの関係について」

「そっか。そうなんだね」

 質問に納得で返す、狩野君はやっぱり残念君だった。

「ほら! 見なさいよ!」

 私は大声を張り上げ、反論する。

「僕は高志さんと違う。君も知るべきだと思ってる。……と言っても、どこから話していいのか。難しい話なんだよ。それに高志さんのご機嫌を損ねるのも嫌だ。これは自分でも意外なんだけど、彼の事を好きになってしまったみたいだ。あ、友達として、ね」

 少々ウソ臭い部分もあったけど、そんな小さい事はスルーして、せっかく狩野君の秘密に関して聞けるチャンスだったので、

「何でも良いから、教えてよ!」と聞けば、

「そうだな~。う~ん」と説明始めの第一手を選びきれない優柔不断っぷりは流石は残念君だった。イライラしてきた。

 そんな狩野君の初手は、

「僕は魔法使いを狩る者だったんだ」

 意味不明だった。その事実は、狩野君のラブレターで知っていたし、その文面から『初めてハンターの同性愛者』と言う疑惑が生まれたのだけれど。

「だから、そうじゃなくて。魔法使い狩りってどういう意味なの?」

 私は聞いてみてから、あのラブレターは見てはいけなかったんだと思い出し、

「……じゃなかった。え! 魔法使い狩りだったの!! 意外だわ!! それで、どう意味なの?」

 演劇部に入ってて良かった、と言わんばかりの名演技で言い直した。

 狩野君は「手紙見られてたのか~。封筒に入れれば良かったかな。いや、この場合ある意味良かったのかも知れない」とブツブツ独り言を言っていた。私を忘れて悩む狩野君は残念君でしかなかった。

「ちょっと! ちゃんと私に説明してよ~」

「あぁ、ゴメン。えっとね。言葉の意味のまんま。魔法使いがいるでしょ。僕は魔法使いが憎いんだ。だから、魔法使いを狩っていた」

 狩野君は噛み砕いて分かりやすく説明したつもりらしいが、全然分からなかった。私はとりあえず、

「魔法使いは、いないわよ」

 そこだけは否定しといた。ただ、兄の魔法使い(自称とか)の遊びは狩野君にまで飛び火しているらしい事だけは分かった。

「う~ん。魔法から説明しようか」

 いや、それはいらないです。と思ったけど、これを聞かないと兄と狩野君の関係について理解出来ないみたいなので、

「うん。教えて」と教授願う。

「君は『魔法』って聞いて何を想像するかな? いや、君が魔法を使うならどんな魔法を使いたい?」

 私は即答できた。

「チチンプイプイ、ご馳走よ、出てきたまえ~!」

「君らしいね」と爽やかだけど爽やかじゃないニヤニヤ顔をして、狩野君は熱く語り始めた。


 君の考えた魔法で、大体合ってるよ。今のを実在する魔法に分類するなら、召還魔法や生成魔法に属するかな。

 呪文詠唱をする。すると望んだ結果が叶う。これが魔法なんだ。

 そして、魔法を作り出すのは僕ら自身の中にある、意志力。これを僕らは魔力と定義つけているんだ。魔力は人間なら誰しも持っているんだ。だから魔法使いと言うのはある生命の種類を指す言葉じゃなくて、魔法の存在を知り魔法を使えるようになった人間を指す言葉なんだよ。

 ただその魔力は魔法の源でしかない。魔力だけじゃ魔法を使う事は出来ない。魔法を発動するには膨大なエネルギーが必要なんだ。

 エネルギー。

 天文学的って言葉があるでしょ? やっぱり宇宙は凄いよね。人間のスケールとは桁違いのエネルギーを放出し続けてる存在があるじゃない?

 太陽だよ。

 人間は自分自身の中の魔力を、太陽のエネルギーを借りて、出力する。

 それが魔法なんだ。

 ここで問題になってくるのは、どうやって太陽からエネルギーを借りるかって事なんだよね。

 最初の最初、どうやってそのシステムを開発したかのは、もう今になっては分からない。

 だけど、システムの使い方は分かる。

 一人の人間を犠牲にするんだ。

 誰が決めたでもない、生まれた瞬間から運命付けられている人がいる。人類が魔法を使うために、犠牲になるべくして生まれてくる人がいる。

 その人がちょっとした儀式、この儀式もある種の魔法かな。とにかく、その儀式で人間ではなくなってしまう。太陽と人との架け橋になるためにね。

 あぁ、この辺は本当に古代のシステムで謎だらけなんだ。もしかしたら昔々には、神様や宇宙人がいて、そういった人類じゃない誰かから授かった技術なのかもね。

 で、魔法の説明に戻るよ。さっきの君の魔法を例にさせてもらうね。

 まず君が呪文を詠唱するでしょ。呪文は言い換えるなら『命令』と言って問題ない。でもその呪文は『ご馳走が出てくるように』って命令じゃないんだ。『ご馳走が出てくる魔法を使いたいから、太陽にエネルギーを送って頂戴ってお願いしといて。このぐらいのエネルギーが必要だよ。場所はここだよ。使うのは僕だよ。必要なエネルギーの量はこのぐらいだよ。あ、使用目的はこんな感じだよ』って命令。つまり、太陽じゃなくて、架け橋となる人物に送る命令なんだよね。

 人には太陽まで想いを届けるだけの力は無い。そりゃそうだ。光ですら八分ぐらい掛かる距離なのだから。だから、一人が犠牲になって、人である事を捨ててまで、太陽と人の架け橋になる事に特化した存在になる必要が出てくる。

 そのおかげで、太陽のエネルギーを借りられるだけじゃなくて、他にも恩恵がある。魔法詠唱自体には時間を取られても、唱えた後の時間ラグは殆ど無い。光でも片道八分ぐらい掛かる距離だというのにね。

 僕は一人の犠牲者を出す、このシステムが嫌いだ。

 更に、今ある地球の物理法則や科学法則なんかを無視した魔法。それを使える人は自分達だけ特別な存在になるために、門外不出としている。それだけなら良い。

 偶然にも魔法を使える事実に気がついてしまった人たちを、追い込みすらする。理不尽な形だけの裁判にかけ、命を奪ってきた時代もあった。これも一つの魔法使い狩りの形だね。

 ひどい話だろ? 僕はそんな魔法使いが憎いんだ。人はエゴで出来た生き物かもしれない。でも、その中でも魔法使いは最悪だ。

 だから、僕は魔法使い狩りをしていた。今は違うよ。違うつもりさ。

 高志さんに出会ったからね。『憎んで暮らすなんてつまらないだろ。そんな事より友達になろうでは無いか!』とかなんとか、強引に高志さんワールドに引き込まれたって言うのかな。 ある意味救われたと言っても良い。でも、高志さんへの気持ちは、恋愛感情なんかじゃないから安心して。尊敬や感謝、って所かな。

  

「一気に説明すると疲れるな。大体全部言ったつもりだよ。分からない事はあった? 質問どうぞ」と優しく聞いてくれるのは有難いのだけど、

「全然、分かんないわよ!!」

 狩野君の常識は少しずれているみたいだ。今までイギリスにいたとか関係なく普通じゃない。残念君は伊達じゃない。

 質問どうぞも何も、何が分からないのかすら分からないレベルで意味不明な説明だった。仕方が無いので私は得意の論理的思考を働かせる。

 狩野君はこの学校に来る前はイギリスにいた。三年より前の記憶が無い。魔法使いが嫌いな設定。だけど魔法使い(自称とか)の兄とは仲良し。それは何故か。

 キラリーン。閃いた!

「えっと、狩野君はTRPGだっけ? 大人が言葉でやるごっこ遊びが好きなのね。なるほど。お兄ちゃんもそういうの好きそう。永遠の中学二年生だもの。悪い意味で。それに、今はインターネットがあるものね。歳や住んでいる地域なんか関係ないんだ。そっか~。ようやく、謎が解けたわ」

 私の理論は完璧だった。

 妖花さんたちが秘密にしたがっていたのも分かる。三十歳って言う年齢が加味されると、一般の人には理解され難い趣味かもしれないわね。そんなの笑いたい奴には笑わせとけば良いのに。まぁ、大人には大人の世間体ってやつがあるから仕方ないんだろうな。

 兄の魔法使い(自称とか)はきっと別の設定なのよ。

 狩野君がマッチョさんに対して怒ってたのはそれが原因ね。マッチョさんや妖花さんたちは、兄の誕生日に突発的に生まれた設定を気に入ってしまったんだわ。兄が魔法使い(自称とか)って設定をね。でも狩野君はその場にいなかった。だから、せっかく自分の好きな設定の物語で遊んでたのに、別の物語で遊びたいって主張されて怒ってたんだわ。下手したら狩野君の好きだったお話は完結して無いのかもしれない。

 ラブレターの正体は、説明下手な狩野君の精一杯の気持ちだったの。僕はまだ魔法使い狩りの設定で遊びたいんだ~! って言う心の叫びだったのよ。

 兄は「なんでもやるぞ~。同時でもいいぞ~」とかお気楽な事を言って中立なのよ。馬鹿だから。

 でも他の人は真剣なの。同時に二つとか嫌だったのよ。その気持ちは、理解出来なくも無い。

 惚れ惚れする。穴は何処にも無い理論だ。私はカワイイだけの中学生じゃなかったのだ。 

 対して狩野君は「参ったな」と漏らす。口癖なのかしら。

「言葉はいつでも不自由だね。君は凄いよ」

 褒めてくれたみたいだ。でも、何故だろう。嬉しくない。狩野君はこう付け足した。

「それに魔法とか関係ないや。君はお兄さんそっくりだ。僕の話の殆どを聞いてなかったでしょ?」

 やっぱりだ。褒めてないみたい。

「お兄ちゃんとは似てませんよ~! あの男がこんなにも完璧で、こんなにも美しいの?」

 狩野君は困ったようにはにかみながら、

「でも高志さんと似ている君も嫌いじゃないよ」

 と言っていた。私は一瞬ドキッとした。多分、イラついた。

 私は狩野君と話すのが苦手なのかもしれない。ドキドキするし、イライラするし、それは同年代の男の子とお兄ちゃんの話をしているのが原因なのかもしれないけれど。

「姫~! まだ帰ってなかったんだ」

 その時、玄関から出てきたらしい毒子ちゃんが手を挙げなら声をかけてきた。兄と、村ちゃんか陰ちゃんも一緒だ。きっと、あのご機嫌な歩き方は陰ちゃんだ。

 きっと陰ちゃんは、狩野君に話かける前に、

「姫さん! 今日はなんて素晴らしい日なのでしょう!」

 自分の気持ちを表現していた。これは陰ちゃんで間違いない。

 毒子ちゃんが「やぁ、狩野君。よく会うね」と兄が「待たせたか?」と狩野君に挨拶する。遅れて陰ちゃんが「こんにちはです!」元気に挨拶した。

 狩野君は「いえいえ、まだ約束の時間ではないですから」と返答し、兄は「舞子。せっかく待っててくれた所悪いな。私は狩野と約束があるのだ」と間違った推測をしていた。

 私は友達と一緒に下校出来るので、嬉しかった。だから兄の勘違いを優しく無視して、

「それじゃ、私達も帰るね。バイバイ!」

 校門前でグダグダ会話する流れにならないように、早急に切り上げた。みんなが短いお別れの挨拶をして、会話は終わった。だけど、兄と陰ちゃんが大きく手を振って、その場を動こうとしなかったので、結局多くの時間を費やした。


 夏休みの練習は午前中に集まり午後になって解散する。それは時間的にも内容的にも夏休み前のものと殆ど変わらなかった。火、木曜日は、前日公演と後日公演を一回ずつ、計二回を通しで演じる。月曜日に役作り、水曜日に全員で道具作りをする。

 違ったのは金曜日だった。

 斉藤先生が予め他の部の予定を聞きまわり、空いているプールで水泳したり、空いている競技室で卓球したり、空いているコンピューター室で絵を書いて発表しあったり、つまりはただ遊んだ。これは部内の連携を強めると同時に、劇に集中している時だからこそ違う刺激を取り込んで新たな発見をして欲しい、みたいな理由だった。劇の練習をしないのだから、兄は来る必要も無いのに、ちゃっかり出席して中学生と交流を深めていた。

 土、日曜日は休みだった。斉藤先生は兄に気がある、と確信していた私は、先生と兄を無理やりデートさせようと頑張った。けれど、気がつけば毒子ちゃんや陰ちゃん、何故か狩野君も含めて、みんなで遊び歩いていた。私はデートさせる事に失敗したのより、夏休み中は村ちゃんより陰ちゃんがメイン人格っぽくなっていたのが、少し気になった。

 毒子ちゃんと陰ちゃんは、練習が終わると必ず兄とお喋りタイムなので、私は一人学校を出る事になった。だけど、ほぼ毎日狩野君が待ち伏せしていたので、校門前でお喋りしながら二人を待った。二人よ。兄を除いた二人しか待ってないのは強く主張しておくわ。

 夏休み二日目の放課後だけ、狩野君は、

「昨日、高志さんに怒られたよ。舞子に変な事言うなって。だから、魔法の話はもう出来ないんだ」と兄の話をした。私は断る理由は微塵も無いので、

「私もお兄ちゃんの話はしたく無いから、良いよ」了解した。

 その後残念君は、

「高志さんがいるから大丈夫。僕も君の事を絶対守るさ」

 と訳の分からない事を言った。私は胸が締め付けられるように、イラっとした。

 だから夏休み三日目からは、「好きなおかずは何?」とか「カレーとシチューっなら、どっちが好き?」とか、当たり障りの無い会話だった。ただ、なんか狩野君とは話しづらい。私はもしかすると狩野君を嫌いじゃなくても、狩野君を生理的に嫌いなのかもしれない、と思った。無意識的に狩野君には、兄に浴びせるようなキツイ事を言ってしまうし。私は『生理的に嫌い』と言う謎の言葉が嫌いだった。だって、理由も見当たらないのに人を嫌いになるなんて人生損するじゃない。楽しくないじゃない。だから本能に逆らおうと決意し、狩野君に積極的に話しかけるようにした。気まずかった。ドキドキイライラだった。

 そうして、充実した夏休みは、神様が早送りでもしてるんじゃないだろうか、と疑ってしまうような速度で終わりに近づき、受験生っぽく「あ、宿題全然やってないよ~」と焦りもする、そんな夏休み最終日に事件は起きた。それはいつものような、練習中だった。

 この時期になると、杖やら剣やメイド箒、冠やらメイド帽子に付け髭、なんて言う小道具は出来上がっていた。私達はそれらの小道具を持って練習するようになっていた。

 終盤のあと少しで戦争が始まってしまいそうなシーン。

 話し合いは決裂し、遂に、人間の騎士団長さんと魔族の軍団長さんが、両者切りかかってしまう。そこへラージさんが魔法で二つの武器を弾き飛ばしてから、二人の間に割って入る。そんなシーン。だったのだけれど……。

 教室前方で、ステージと認められて無いエリアのドア付近から、ラージさんは呪文を唱えた。二人の武器を弾き飛ばすためだ。

 弾き飛ばすと言っても、危ないし、道具も壊れるかもしれないから、優しく地面に投げ捨てる。実際に二人はそうした。

 いよいよ、ラージさんがカッコこよく登場するシーン。

 ステージ外のつもりの右側から、ステージ中央のつもりの所へ、走りながら近づき、ジャンプしながら両者の間に割って入る予定だった。

 けれど、この日のラージさんは興奮しすぎていた。そして運悪く、後日公演のラージさんは運動神経が良かった。

 ジャンプするだけで良かったシーンなのに、調子に乗って、空中前転で登場。短い距離とは言え走って勢いをつけての、長い長い魔法使いの杖を持ちながらの、空中前転だ。

 着地に失敗し、勢いを殺しきれなかった彼は、転ばないようにバランスを保つために、前へ前へと危ない足取りで進んでいく。杖が邪魔だったのか、地面に投げ捨てた。

 この時は、教室に笑い声があった。まさかあんな事になるとは思わなかった。

 ラージさんの後を追いかけ息を切らしながら登場する予定だった、ドアの前で待機していた舞子姫である私も、「あの馬鹿、調子に乗って」と呆れていた。

 フラついてはいるけれども、足をひねったなどの怪我もして無いみたいだし、彼も「おっととと」と間抜けなアホ声を出していたし、そんなに心配していなかった。

 だけど彼は全然立ち止れず、ついには窓側の壁へとぶつかる。

 そして不運は重なった。

 彼の目の前の窓は、開いていた。

 教室のみんなに、嫌な予感が走ったんだと思う。突然電源を切られたステレオのように、笑い声が一斉に止まった。

 その予感は当たってしまう。

 彼は窓のサッシを軸にするように半回転しながら、落ちた。

 最後に見た彼は、どんな表情もしていなかった。自分の状況を飲み込めないような場違いな笑いでもなければ、恐怖で凍りついた表情もしていなかった。私に見えたのは、必死にバタつく足だけだった。

 その時、目も開けていられないような突風が吹く。目を守るためにされた瞬きで、私の視界は一瞬閉ざされた。

 目を開い時、私の視界が捕らえたのは、落ちたはずの彼だった。窓横の地べたに座り込み、周りを見渡し、ほっぺをつねり今ここが現実である事を確かめていた。彼は何が起きたのか理解出来てない様子だった。それは教室のみんながきっと同じで、私もそうだった。

 少し視界が奪われた。だから、連続した映像ではない。それでも彼は絶対に落ちたはずだった。あのバタつく足は、私の脳裏にしっかり焼きついていた。

 けれど、彼は地べたに座り込んでいる。

 不可解で不思議な状況の理解に努めているように、教室のみんなが言葉を失っていた。私も何か考えようとするのだけれど、そもそも仮定の一つも出てこない。考えようとするだけで、何も浮かんでこない。

 静寂の教室で、叫び声が上がる。毒子ちゃんだった。

「ふざけるな~!!」

 そのまま、ラージさん役の男子生徒の前まで走って近づき、

「怪我は? 痛むところはあるかい?」

「だ、大丈夫」

 次に正気に戻ったのは斉藤先生で、やっぱり男子生徒の所へ走って近づき、

「頭はどう? ぶつけて無い?」

「はい……。何も無い。どこも痛くないです」

 そして、毒子ちゃんがまた叫ぶ。

「あんたは馬鹿だよ!! 誰があんなアクロバティックな事しろって言った? 確かにね、ある程度は任せてるよ。だけど、やって良い事と悪い事の区別もつかないのかい!」

 続いて、斉藤先生も大きめの声で、

「そうよ。挑戦したいなら、ちゃんとしたいって言わなくちゃ駄目。危険の無いようにしっかり練習して、危険の無いように段取りして、シーンだってちゃんと考えるわ。狭いところで、長い杖を持ってなんて許せません」

「ゴメンなさい」

「大体、なんで黙ってたのさ? いや、聞かなくても分かるね。突然やった方がみんなの反応が良いとか思ったんだろう?」

「それとも今日はたまたま気分がハイだったのかしら。劇を楽しんでくれてるのは嬉しいわ。だけどね、危険は駄目なの」

 女性二人の説教は、この後二十分ほど続いた。いつも恐ろしい毒子ちゃんはいつもより恐ろしくて、いつも優しい斉藤先生はいつもと違って恐ろしくて、ほったらかしの私達はまだ放心状態のまま黙って見ている事しか出来なかった。

 そんな中、何故か兄は嬉しそうなドヤ顔だった。きっと呑気に「青春ドラマみたいだぞ~。失敗は成功の母なのだぞ~」とか思ってるのよ。馬鹿だから。

 毒子ちゃんは追い込みに掛かる。

「あんたはどうしようもない馬鹿だよ! 人間は馬鹿な生き物。馬鹿しかいない、どうしようもない生き物だけどね。それはさておき、痛い目見なきゃ分からない馬鹿と、死ぬまで直らない馬鹿。さぁ、あんたはどっちの馬鹿だ?」

「もう、やらない。俺は、そんな馬鹿です……」

 確かにあの男子生徒は馬鹿だけれど、自ら『馬鹿です』と言わせる手法は、なんとも残酷なように思えた。中学生に対しての正しい説教とは思えない。それ程までに毒子ちゃんはご立腹なのだろう。

 斉藤先生は場の空気を入れ替えるかのように、一度両手を合わせ音を鳴らし、

「お説教はここまで! もう危険は駄目だよ。でも、あなた色のラージ。元気なラージを失わないでね!」

 そう言った後で私たちの方を向き、

「今日の練習はここまでにしましょうか。夏休み最後の最後に、トラブルは起きたけど、きっと充実した夏休みだったと思います。みんな毎日真剣に楽しんでくれたように、私には見えました。でもまだまだ本番は遠いよ。最後まで笑って走り抜けましょう!」

 こうして夏休み最後の練習は終わった。けれど、この日起きた事件はこれだけじゃない。

 まばらに教室から出て行く生徒達。彼らの中での結論は『落ちたと思ったけど、勘違いだった。危なかったけど、無事だった』という事で落ち着いたみたいだった。

 納得出来なくて、もどかしさは残るものも、私もそう結論づけるしかなかった。

 みんなが教室から出て行く。毒子ちゃんと陰ちゃんが兄の元へ行く。この辺は見慣れた光景。けれど斉藤先生は兄の所へ行かず、毒子ちゃんや陰ちゃんに、

「あんまり遅くなっちゃ駄目よ」と言って、教室から出て行った。

 何か用事があるのだろうな、と私は思った。兄はそうは思わなかったみたいで、

「今日の話し合いは休みにしようではないか。急ぎの相談があれば、家に電話してくれ!」

 そう言って、慌てて斉藤先生の後を追いかける。

 私が「どうしたんだろう?」と友達に話しかけるより先に、まるで当然のように陰ちゃんは兄を追いかける。

 毒子ちゃんも「そりゃ、心配だよね」と呟き追いかけてしまうので、私も後に続く事にした。

 廊下に出ると直ぐに階段踊り場があり、その奥に陰ちゃんはいた。角から、覗き込むように、先の廊下を見ていたので、私も毒子ちゃんもそうした。

 そこには兄と斉藤先生がいた。

「あら、高志さん。どうしたんですか?」

「斉藤先生。練習中に生徒が転んだ。怪我はなかった。それだけの事ではないか。確かに、危なかったけれど、結果として何事もなかったのだ」

「心配してくれるんですね。でも違いますよ。心配するべきは、私をじゃありません。生徒達を心配してあげて下さい」

「もちろん、心配してるさ。だけどあの子らには、互いに気遣い、励ましあい、叱りあう、そんな仲間いるのだ。必要以上に大人が手を出す事は無い。だが先生はどうだ? 今あの場で、先生を支える事が出来るのは、私だけだ」

「高志さんらしい。自分を随分と過大評価しているんですね。それにその優しさは凶器だというのに……。そもそも何事もなかった訳でもありません。確かに事故は起きてしまいました。結果じゃないんです」

「ならば、それを次に生かせば良い。それに今回のケースで結果は大事ではないか。何事もなかった。誰も傷つかなかった。これ程までに貴重な結果か、この世に存在はしない」

「そうですね。それも一理あります。大きな事故にならなかったと言う結果は、私に反省するチャンスをくれました」

「そうだ。その通りなのだ! 先生の先生ライフは、まだまだ終わらないぞ!」

 一仕事終わったように高らかに笑う兄。

 斉藤先生は得意の猫パンチ平手風で「ちょっと、やだ~」と兄にボディタッチ。

「兄妹揃って、妄想も自信も大きいんですね」

 何故か私を巻き添えにしながら兄を非難し、続けてこう言った。

「大丈夫ですよ。私は逃げません」

「そうかそうか!」

 兄は嬉しそうに笑い続けていた。  

「ねぇ、高志さん。今日はありがとう」

「私は何もして無いぞ。いつも何もしないのだ!」

 その通りだ。兄は外部指導員としてこの学校に来ているのに、基本見ているだけで何もしない。毒子ちゃんとは何か話し合っているみたいだけれど。

「高志さん。女の勘を甘く見ないで下さい。今日起きた事も、私には理解できません。だけど、きっと、あなたにお礼を言うべきなんですよね?」

 兄は「そのだな、あのだな」と口ごもり、「舞子の勘は良く外れるぞ!!」

 何故だろうか。また私に流れ弾。

「あなた達兄妹は特別なんですよ。でもそれも魅力の一つですけどね」

 斉藤先生は嬉しそうに微笑んだ。 

「そう言えば、やっと二人っきりになれましたね」

 そして、斉藤先生の雰囲気が変わる。

「さっきの『誰も傷つかない結果が貴重なんだ』って高志さんの哲学なんですよね?」

「ふむ。その通り。私はいつもそれを心がけ、行動しているぞ!」

「それは無理なんですよ。誰かが笑うためには、誰かが泣かなくちゃいけない。そんな事例がこの世には沢山あります。かならず誰かが傷つかなくてはいけない、人間社会ってそういうものですよ」

「分かっているさ。それでも私の理想は変わらない。みなが笑えるように頑張りたい」

「みんな、ですか? 高志さんは相手が嫌な女でも笑わせてくれますか?」

「もちろんだとも!」

「じゃあ、試してみようかな。高志さんが失恋する女性をどうやって傷付けないのか」

 そう言って、斉藤先生は兄の顔を覗き込むように見つめる。兄は後ずさり。

「ままま、待て! 早まるな!」

「無理です。待てません。自分で思っていたよりずっと弱っているみたい。そんな時に優しくなんてするから……」

 今度は兄は鳴ってなかった携帯電話を取り出し、

「狩野か! そうか。今日は特別に急ぐのか!」

 下手な演技をしたけれど、斉藤先生は兄の手首をつかみ携帯電話を取り上げる。

「電源、入ってませんね」

「そ、そうだったか?」

「はい」

 斉藤先生は携帯電話を自分のポケットにしまってしまい、そのまま兄の手をしっかり握った。

「私も頑張ります。笑ったまま結果を受け止められるように。だから、高志さんも頑張って」

 斉藤先生は、私の予想通りに兄に気があったみたいだ。今から始まるのは、私達が見ていてはいけない大事な告白シーン、何だと思った。

 肝心の兄は、

「だ、だれか、たすけて……」

 私の予想以上に情けなかった。

 斉藤先生は可愛らしく頬を赤くし、潤んだ瞳で兄を見つめ、私達に見せた事の無い女の顔をしていた。

 うひゃ~。頑張れ~! 斉藤先生! と私は緊張しながらも、心の中でエールを送った。

 そして、陰ちゃんが壊れた。

「わ~!!!」と叫び、角から廊下へ乗り出す。

「私が高志さんのお嫁さんです!!」と堂々と宣言した。

 うん。なるほど。陰ちゃんは兄のお嫁さんみたいだ。うん。全然納得出来ないし、訳が分からない。

 私は陰ちゃんのそばへ駆け寄り、

「え~! ちょ、ちょっと。村ちゃん。落ち着いて。どうしたの?」

 毒子ちゃんも廊下へ姿を現す。

「あはは。見ちゃってました。ゴメンなさい」

 斉藤先生は、流石にと言うかやっぱりと言うか、私達に見られては困る所だったみたいで、俯いてしまった。

 兄も私たちの方へ振り返る。この時になって、兄の顔を確認出来たのだけれど、いつもの自慢顔でもなければ、時々見せる真剣顔でもなく、初めて見る真っ赤な照れ顔だった。

「おお! 舞子~!」と兄は私に近づき、

「私は舞子の声で何も聞こえなかったぞ! 今日は何も無い一日だったな! それではみな、サラバだ!」と逃げていった。

 私はトコトン兄を見損なった。

 陰ちゃんと斉藤先生が「カワイイ」と独り言。それを聞いた私は慌てて毒子ちゃんを見れば、

「安心しな。姫。多分、あんたと同じ気持ち。姫と同じ気持ちの私は自分の普遍性を疑わざるを得ない気もするけど、今回は私達が普通側のはずだよ」

 微妙な同意を得た。

 その後、残された私達はバツが悪そうに苦笑い。

 斉藤先生は、ピンク色が取れない顔で、

「みんなゴメンね。私はちゃんと先生も続けるし、顧問も続けるよ」

 言った。先生も兄同様、告白未遂はなかった事にするみたいだった。

 うん。この空気は私でも辛い。その案に乗った。

 ウソを知らないわ、の毒子ちゃんですらも、

「お兄さんの言う通りさ。何も無かった事を素直に喜んで、次から同じような失敗をしなければ良いんだ! と思います」

 無かった事にした。

 だけれども、陰ちゃんは、

「斉藤先生の事は好きです。でもそれとこれは話は別です!!」

 ビシっと斉藤先生を指差し、 

「正々堂々戦いましょう。あのキス女、ヨウカとかなんとかには負けないように!」宣戦布告。

 無かった事にしてくれなかった。ちなみに陰ちゃん。多分、先生は妖花さんを知らないよ。

 斉藤先生は陰ちゃんに微笑ながら、

「私も陰村さんの事好きですよ」とだけ答えて、

「さぁ、みんな明日からも真剣に、楽しみましょう!」

 意地でもなかった事にするみたいだった。顔はまだピンクだった。

 逃げ去るように、斉藤先生は職員室へと歩き出していく。

 私は陰ちゃんに、

「ねぇねぇ。何で? 何でお兄ちゃんなんかのお嫁さんなの? どういう事?」

 聞いてみれば、意外な返答。

「何で? って姫さんもですよ!」

 私は意味が分からなかった。私と同じ気持ちだと思われる毒子ちゃんが聞いてくれた。

「村。何も知らない私のために、落ち着いて最初から話しておくれよ」

「はい! よくある話です」

 

 少し昔、ある所に二人の少女がいました。少女達は大人の男性にプロポーズします。

『私をお嫁さんにして』と。

 大人の男性はよくある台詞で受け流します。

『もちろんだとも! 大きくなったらな!!』と。

 一人の少女はおバヵ……。ゴホン! 素直だったので、『やった~!』と喜びました。

 しかし、もう一人の少女は、そんな常套句に騙されませんでした。

『約束です。もし私が大人になった時に、あなたに彼女がいなかったら、私をお嫁さんに貰ってください』

 そう、強く何度も約束しました。

 今となっては、その約束すらも、冗談だったと理解出来ます。その男性は『子供の気持ちはその内、変わってしまうだろう』と安請け合いしたに過ぎません。

 それでもです。

 少女は、あと少しで大人になる年齢になっても、その男性を愛し続けています。婚約者なんだと、自負しています。

 

「その恋し続けている少女が私です」 

「大体分かったよ。でも待って。そんな子いたっけ? もう一人の女の子は誰なの?」

 私が聞けば、毒子ちゃんが私を指差す。陰ちゃんも私を指差す。

「ないないないない。そんな事は、絶対にあり得ないよ。私が? お兄ちゃんのお嫁さんになりたい? 無理!!」

「いや、あり得ると思うよ。私が見るに、実は仲良いよね。姫とお兄さん」

「そうなんです。私は小さい頃からジェラシーです」

「うがぁぁ!! 私は認めないぞ~!」

 兄、斉藤先生に続き、私は逃亡者第三号となった。校門で二人を待っていたんだけどね。


 その夜、帰宅した兄は晩御飯中の私に何食わぬ顔で聞いてきた。

「舞子~。私の携帯を知らないか?」

 飯食う私は「今忙しいの。ちょっと後にして!」と怒鳴った。

 兄の携帯電話は斉藤先生のポケットね。等と回想しながら食事を終え、兄に話しかける。

「お兄ちゃん。私は怒っています」

「うむ……」

「あら、珍しいね。今回は私が怒っている事が分かるんだ。じゃあ、理由も分かるよね?」

「うむ……」

「良い? 別に答えは関係ないのよ。だけど、逃げ出すのは最悪だからね。よって、私は三日間お兄ちゃんと口をききません」

「分かったのだ……」

「良し! 携帯電話の事だけど、その内戻ってくるから安心しなさい」

「そう、か。待ってるぞ……」

 なんか素直で元気の無い兄を相手にするのは、やりにくかった。

「じゃあ、今から三日間のお別れね」

 そう言い残し、私は部屋に戻った。

 私は陰ちゃんと斉藤先生のどちらを応援すれば良いのだろうか……。

 友達の恋は応援したい。だけど、兄は駄目だ。今日改めて認識したけれど、史上最悪駄目男。三十年もの間、世の女性が兄を避けたのは偶然ではなく必然な駄目男。

 じゃあ、斉藤先生?

 そのつもりだった。駄目男を押し付ける事で、復讐もかねるはずだった。あの日は復讐する事で頭が一杯で、完全に後付け理由だけれど、斉藤先生の包容力なら兄をも包み込んでしまう気がする。あんな兄でも上手く操縦出来る気がする。それに、駄目男はきっと悪い男じゃない、そう思っていた。今日までは。でもあいつは予想以上に情けない兄だった。あの弱さは、もう悪だ。女の敵だ。

 あれ? じゃあ、どっちも応援したくない? 

 それは困る。身内として、どんな手段をこうじてでも、兄のマイナス属性は消したい。

 そうだった。これは重要なファクターなのだけど、二人は兄なんかを好きでいてくれるみたいだ。じゃあ兄の駄目さ加減について、私が駄目出しする問題ではないのかもしれない。二人にとって、兄は価値ある存在らしいのだ。二人の価値観を、私の価値観で決めるべきではない。

 後ろめたさなんか感じずに、応援しても良いのかもしれない。

 で、どっちを?

 その後、論理的思考を巡らせ、私は結論を出した。

 人の恋路を邪魔しない。

 どっちを応援とか、そういう事じゃない。私が口を出す事じゃない。

 妹として、友達として、あるいは愛弟子として、どんな結果をも受け入る。私が応援するのは、そこからだ。

 逃げの思考。

 私は確実に兄の妹なんだと実感してしまった。

 頭を使った私は、なんだかとっても眠くなってきて、少しずつ少しずつ、まだ寝る時間じゃないよという自分の意思を無視するようにまぶたが重くなり、もう限界だ寝ちゃおうかなと思った所で、携帯電話が鳴った。

 電話に出る時、時間を確認すれば、時刻はまだ十九時だった。

「もしもし~。私、舞子~」

「あら、眠そうね。舞子ちゃん」

「誰よ~。そうなの。眠いのよ~。寝かせてよ~」

「もう、明日から学校よ。宿題は終わってるの?」

「まだ~。明日はやったけど忘れた事にする。明日、村ちゃんに写させてもらうって~。だから、寝かして~」

「それは駄目です! 期限を過ぎたとしても、自分でやりましょう!」

「先生?」

 電話の相手は斉藤先生だった。一気に目が覚めた。

「先生、どうしたの?」

「舞子ちゃん。それより、さっきの宿題の事なんだけどね……」

 その後、私は美少女策士の腕前で、言い訳を並べ、斉藤先生と激しい舌戦。けれど、斉藤先生が毒子ちゃんに一任すると言い出した事で、私の敗北が決まり、私は先生と毒子ちゃんのどちらに怒られるかを選択しなくてはいけなくなった。毒子ちゃんに怒られる事にした。

「いや、それよりさ。先生、急にどうしたの?」 

「うん。あのね舞子ちゃん。今から少し外に出られるかな? 私ったらいつの間にか、高志さんの携帯電話をポケットにしまっちゃってたの」

「その事ですか。別に明日学校でも良かったのに。どうせ鳴らない電話なんですから」

「でもやっぱり困るかもしれないでしょ? それに……。会うための口実も欲しかったの」

「そう言う事ですか。兄に行かせますよ。何処で待ち合わせします~?」(ニヤニヤ)。

「あ、違うのよ。舞子ちゃんと会いたかったの」

「はぁ。私にですか?」

 電話でのこのシチュエーションにデジャビュ。そうか。妖花さんも、兄じゃなくて私に電話してきた事あったなぁ。なんで私なのよ。もうパジャマに着替えちゃったし、正直ちょっと面倒だなぁ。とか思いながらも、『ファミレスでパフェを食べながら話しましょう。奢るわ』という斉藤先生の釣り餌に有難く釣られる事にした。

 

 私はファミレスに入るなり、難題に迫られる事になる。苺パフェ、チョコレートパフェ、フルーツパフェ。ファミレスにあるパフェはこの三種類だった。

 その三つは王道で、安心出来る。信頼の美味しさだ。けれど、一つしか選べない。何故一つしか選んではいけないのだろうかと言うと、今回私は奢ってもらう立場にあるからだ。

 苺パフェの色合いは女の子を喜ばせるピンク色をしており、メニューの写真だけで私の唾液腺を刺激する魅惑的な姿をしていた。そもそも、苺はデザートの代名詞と言っても良いフルーツなのです。苺なんて嫌い、と言うようなけしからん私を、私は未だ一人として見た事が無い。

 対して、チョコレートパフェはどうだろうか。生クリームとチョコ。その甘さと甘さのコラボレーションは、容赦なく私の別腹を刺激する。別の別の腹。あるいは別の別の別の腹までも刺激する。いくらでも食べられそうな気がする。さらにはチョコとバナナの無敵コンビ、あのお祭りの屋台で私の視線と食欲を独り占めする、無敵コンビまでもいるのだ。チョコレートパフェの強さは、もはや反則級と言っても過言ではない。

 その両者の良い所どりに見える、フルーツパフェ。しかし彼は、いかんせん器用貧乏なのよね。苺クリームも無ければ、チョコクリームも無いし。

「先生。私決めました。苺パフェにします……」

「なんで、悲しい顔をするの? 舞子ちゃんはパフェは嫌いだった? 別のでも良いのよ」

「違います。ただ、私は敗者を忘れるような女ではいたくないのです。彼らの死は無駄にしません」

 けれど、苺パフェは私を裏切り者にした。なんとも簡単にしてのけた。彼女は小悪魔パフェだった。

 ごちそうさま。

「で、先生。お話って何ですか?」

「あのね。舞子ちゃん」

 斉藤先生は神妙な面持ちで私を見つめ、

「あなたの幸せそうに食べる様は、見ていて楽しいわ。だけど、食べてる時もお喋り出来るようになると、将来の彼氏はもっと喜んでくれるよ!」

 失礼な助言をくれた。

「彼氏が出来てから頑張ります。食べるのが趣味な女じゃないので、今から可能ですけど」

 私はちょっと拗ねた。空になったパフェグラスの中を、意味もなくスプーンでかき混ぜる。

 斉藤先生はクスクスと笑い、鞄から携帯電話を取り出した。

 私は小悪魔の手によって忘却の彼方に追いやられた、パフェを奢ってもらえる理由を思い出し、携帯電話を受け取る。

「ちゃんとお兄ちゃんに渡しておきますね」

「お願いね」  

 そして沈黙。

 話があるはずの斉藤先生は、紙ナプキンを一枚取り出し、紙飛行機を作り出した。不思議な光景を見せられ、ただ待たされるだけの私。

「先生。話があったんじゃないですか?」

「そうだね。今日の事なんだけど……。見てたんだよね?」

「あぁ~。あれですよね。バッチリ見ちゃいました。大丈夫! お兄ちゃんにはちゃんと言っておきましたから!」

「な、何を言っちゃったの?」

 何故か慌てる先生を見て、私もちょっと焦ってしまう。

「別に。今度は逃げちゃ駄目だよ、みたいな事だったと思います」

「なんだ。そういう事なのね」

 そしてまた沈黙。

「先生! 話は!」

「うん。ゴメンね、舞子ちゃん」

「いや、怒ってる訳じゃないですよ。でも、言いたい事はズバッと言っちゃわないと!」

「そう。だから、今日は謝りたくて呼んだの。ゴメンね」

 私には心当たりが無い。逆に兄について謝りたい気分なのだけれど。

「あのね。覚えてるかな。部活の時、みんなに高志さんが小説家だってバラしてしまったでしょ?」

「覚えてますよ。多分、一生覚えてます」今でも思い出すと、ちょっと怒りが沸いてきます。

「その時、舞子ちゃん言ったよね。『お兄ちゃんの台本を劇でやる事になるだろう、って計算してませんでした?』って」

「えぇ、言いましたよ」

 その時、斉藤先生は自分の策を逆手に取られて、私に兄のような駄目男と押し付けられる事になったのだ。ちょっと予想と違うけれど、斉藤先生は不幸な事にまんまと兄に惚れてしまった。あの時の先生はまさか、私が天才美少女だとは思わなかったんでしょう。

「そう。そこまではちゃんと謝ったの。でも、その後も……。高志さんを外部指導員として練習に参加させたりもしたでしょ。きっと私と高志さんの仲も取り持とうとしたよね」

「はい。今だから言っちゃいますけど、結構、頑張ってましたよ」

 この夏休み、私は兄と斉藤先生をデートさせようとしたり、あるいは兄の好物がパンプキンケーキだとリークしたり。まぁ、色々頑張った。その全ての結果はいまいちだったのだけれど。今にして思い出せば陰ちゃんが邪魔していたのだけれど。

「その事なの。私が謝らなくちゃいけないのは。舞子ちゃんの性格なら、きっとそういう行動を取るだろうなぁって思ってたんです。利用してゴメンなさい」

 なるほど。私は斉藤先生を罠にかけ『策士策に溺れた』とか思っていた。けれど、実は私は最初から最後まで斉藤先生の思うがままに動いてたらしい。

「なんてこった!!!」

「舞子ちゃん……。それは、ギャグなの? 怒ってるの?」

「恐怖してます。大人の女って怖いです」

「ゴメンね」と斉藤先生は嬉しそうに微笑みながら、もう一度謝った。

「まぁ、私はもう何もしないですけどね。今の事で怒ってるとかじゃなくて、ほら、村ちゃんの事もあるし。どっちの味方だけど、どっちの味方も出来ない訳です」

「うん。それで良いと思うよ。でも舞子ちゃんなら陰村さんの応援に回ると思ってたなぁ」

 先生の読みはそんなに当たる訳でも無いらしい。そんな事より、

「で、先生は明日にでも再チャレンジですか? さっきも言ったけど、もう大丈夫ですよ。お兄ちゃんにはキツク言いましたから。もう逃げないはずです」

「ん~。しばらくは、無いわね。今日の感じだと、全然手ごたえ無いんですもの。でも、今日の事で私を意識するはずだし……。まだまだ諦めないわ!」

 この人は私が教え子だって理解しているんだろうか。生々しい作戦を聞かされた。でも、

「先生って凄いですね。これが世に言う『恋の駆け引き』ですか?」

 先生は兄バリの得意顔で言う。

「無駄に二十八年も生きてないのよ」  

 私は思う。

「その台詞。お兄ちゃんに言わせたいです」本当、切実に。

「高志さんは、あのままで良いの。そういうものなのよ」

 斉藤先生はふと窓を見て、

「不思議な人だわ。分かり易いようで、分かり難い人。でも分かり難そうで、分かり易い人」

 そう呟いたと思ったら、頬を少し赤く染め上げ、自分の世界にこもってしまう。

 私は少しの間、その横顔を見つめていた。その時の斉藤先生の顔は、とても綺麗で、そうかこれが恋は女を綺麗にするってやつなのかな、とか思っていたんだけれど……。

 斉藤先生は、全然、こっちの世界に戻ってきてくれそうに無い。

「先生~! カムバック!」

 痺れを切らした私が声をかければ、斉藤先生は戻ってきてくれたのだけれど、私の顔を見るなり噴出した。

「兄妹なのにね」

 そして謎の言葉を言った。私はその言葉の意味を考えてみる。そっか。

「私は兄と違って、スーパーポーカーフェイスですからね」と私が自慢げに言えば、斉藤先生は「そうだね」と笑いながら答えた。それは適当そうな返答だった。

 その時『相席良いですか?』の一言も無く、突然私の隣に男が座った。

「やぁ、舞子ちゃん」

 そう言ったのは、ヘラヘラとニヤニヤと締まらない表情の男だった。優男。兄の友達A、つまりは水原だ。

 この男、兄とは正反対の意味で、女の敵だ。私が知る限り、過去に三十人は彼女がいたはず。兄はゼロ人なので、その差は実に無限倍。

 私はこの男が少し嫌いだった。だって、女の敵だもん。

「舞子ちゃん。僕に対して、何か失礼な事を考えてるでしょ?」

「そんな事無いよ」

「ウソだ~。すっごく睨んでたよ」

 そして、この軽さ。どうも苦手だ。

「あの、どなた様ですか?」

 と斉藤先生は聞いていた。そうよね。断りも無く席に座るなよ。

「おやおや。舞子ちゃんの知り合いにしては、とても美人さんだね。あ、舞子ちゃんが美人じゃ無いって意味じゃないから安心してね。なんて言うんだろう。舞子ちゃんは可愛いんだ。この人は美人さん」

 よくもまぁ、美人なんて面と向かって言えるよね。先生に対しては初対面のはずなのに。

「あの……」

 先生は質問に答えてくれなかった事で怒ってるのか、それとも見知らぬ男に対しての不信感か、少し不機嫌そうな表情をする。

「そうだった。自己紹介しなくちゃね。僕は水原さんです。えっと、舞子ちゃんのお兄さんの友達。って感じで良いと思う? 舞子ちゃん」

「私に聞くなよ」

「う~ん。気になってたんだけど、妖花ちゃんやマッチョ君にはタメ口交じりの敬語なのに、なんで僕にはタメ口オンリーなの?」

「それはあんたの日ごろの行いなんでしょ。それとも敬語で話して欲しいんですか?」

「いや、止めて欲しいかも」

「でしょ!」

 斉藤先生はじっと水原の顔を見つめていたかと思えば、

「水原さんって、泣き虫王子の水原さんですよね?」

 と水原の事を知っているような口ぶりで質問した。

 けれど、肝心の水原の顔が曇る。にやけ面のままなんだけど、さっきまでのような軽さは無くて……。なんだろう。凄く冷たい、にやけ面だった。

「へ~。泣き虫王子か。その呼び名を知っている人物は限られるんだけどな。あんた誰?」

 声のトーンを三つほど落して、まるで脅すように先生に問いかけた。

 先生は水原とは逆に、一気に緊張感をといたようだった。笑顔で質問に答える。

「私は舞子ちゃんの通っている学校で、クラス担任をさせてもらっております。斉藤です。演劇部の顧問でもありますね」 

 水原は「マジで!」とか軽い口調に戻って大声を出し、

「演劇部顧問の斉藤先生って、もしかして演劇部の斉藤さんって事?」

 とても頭の悪い質問をしていた。この男にとって、『顧問』と言う単語はそれ程までに難しく感じたのだろうか。

 斉藤先生は大人なので、馬鹿な水原に対しても「そうですよ」と優しく答えてあげていた。

 別に水原がお馬鹿さんなのは知っていたけれど、

「ねぇ。泣き虫王子って何?」

 そのカッコ悪い呼び名は初めて聞いた。

「水原さんは、ちょっとした有名人だったのよ。泣かせた女は数知れず、されど甘いマスクの王子様の元には今日も沢山の女の子。ってね」

「それ好きじゃないんだよね。他人がした評価なんて、いつだって納得のいかないものかもしれないけどさ。僕は小さい頃からずっと、目に映る全ての女性に優しくしてるつもりなのに」

 それがいけないんだよ、と思ったけれどこの男には何を言っても無駄だ。

 所で水原はまさかこのままずっと居座る気では無いだろうか、と不安に思ったので、

「用が無いなら、どっか行け!」と聞いてみた。

「まぁ、良いじゃない。僕もちょっと暇が出来ちゃってさ。待ち合わせしてた人がまだ来てなかったんだ。でも店の中には舞子ちゃんがいるんだもん。こりゃ~、利用するしか無いでしょ? ほら、僕って寂しがり屋さんだしね!」

 水原が突然現れた理由は分かったけれど、それは理由とは認められないものだった。

 私は先生に「ゴメンね」と謝ると、

「そっか。舞子ちゃんが先生とお話してたのは、怒られたからだったんだね。思い出すなぁ。僕もね、学生時代は良く怒られてたんだよ。不良ってカテゴリーとは違うけれど、ほら成績も悪かったし、なんか学校にクレームの電話も来てたみたいなんだよね。おかしい話だよ。僕は女の子が大好きなだけなのに」

 水原は一人で話し、一人で盛り上がる。誰かこいつを止めてくれないか。更に、

「そうそう。丁度良い機会だ。思ったんだけどさ、僕と妖花ちゃんって別なんだよね。僕と高志君も別なの。そうでしょ?」

 疑問文になったところで、やっと私達に発言権が与えられたみたいだけれど、言っている意味が分からない。

「そりゃ、そうよ。あんたはあんた。当たり前でしょ?」

「そうなんだ。今日の舞子ちゃんは冴えてるね。つまり僕が言いたいのはそう言う事。周りなんか気にしないで、舞子ちゃんのやりたいようにやりなよ」

 すると斉藤先生が、

「私には何のお話をされているかは分かりかねますが、それは大丈夫だと思います。舞子ちゃんは、高志さんの妹ですから」

「駄目だな。斉藤さん。高志君はあぁ見えて、結構押し付けがましいんだよ。『みな笑うと良いのだ』とか言っちゃってさ。僕もいつだって笑うように、どんな状況も笑って乗り越えるように心がけてるけど、全然違うからね。僕は僕が笑っていられればそれで良い。泣きたいやつは泣けば良いし、怒りたいやつは怒れば良い。その辺も好きにさせれば良いのにね。あ、他人がどうなっても良いって事じゃないよ。でも、笑うだけが正義じゃないと思うんだよね。だって、世界中が僕や高志君や、ましてや舞子ちゃんみたいな人ばっかだったら、きっと人間社会は崩壊しちゃうって」

「なんで私があんたらのカテゴリーに入ってるのよ!」

 とりあえず、水原の話は良く分からないけれど、そこだけは主張しておかないといけない気がした。

「そっか。舞子ちゃんは割りと怒ってる事も多いね」

「お兄ちゃんとあんたの前ではね!!」

「あれ? もしかして、今も怒ってる? 不思議な子だなぁ。まぁ、その怒りも吹き飛ばす事実を僕は知ってるよ。舞子ちゃんの学校で、文化祭は十月の第二土曜、日曜日にやるだろ? カレンダー見た? 今年の文化祭の日曜日は舞子ちゃんの誕生日なんだよ! 凄いよね。僕は見に行けないけど。でもお店の方は定休日にしてあるんだ。意味は無いんだけどね」

 べらべらウルサイ男だけど、今のはちょっと嬉しいなぁ。カレンダーなんて今日の日付の確認にしか使わない私には、文化祭と誕生日が重なるという事実について、全く知らなかった。誕生日って特別だよね。どこか幸せな気分になる。でも、今気になったのは、水原のお店が定休日になる事。

 私は質問しようとしたけれど、その時、ウェイトレスさんが水原に水を持ってきた。そのまま、注文を聞く。お姉さん。この人はこの席の客じゃないよ。でも水原は私の空になったパフェグラスを見て、嬉しそうにこう言った。

「苺パフェと、チョコレートパフェと、フルーツパフェ。あとね、紅茶をお願いするよ」

 なんて男なの。私がどれほど悩んで、小悪魔苺パフェを選んだと思ってるの。大人っていつも汚いんだ。成長するって汚れるって事なんだ。と私は水原を力いっぱい睨む。

「舞子ちゃん。君の気持ちは分かる。だけどね。僕が三つのパフェを頼んだのは、決して怒った可愛らしい舞子ちゃんを見たいからじゃないんだ。仕事だよ。お勉強なんだよ」

 ちなみにこの男、札幌駅徒歩五分の好立地にカフェを開いている。『イケメンパティシエが作る、本格ケーキ』とかいうキャッチコピーは地方ローカル番組での特集を何度か受けるほどには評判が良いみたいだ。

 そして、私が水原をいけ好かない一番の理由はここにある。だって、こいつは私にケーキを作ってくれないんだもの。『駄目だよ。舞子ちゃん。仕事に選んだ事が好きだなんてわけじゃないんだ。僕はプライベートで彼女候補生以外にケーキを焼く気は無い。それにね、僕がカフェをやってる理由は女の子との出会いが多そうだから。何故パティシエになったと言うと女の子を喜ばせるためなんだよ。僕がケーキを好きだからじゃないんだな。ね? 舞子ちゃんは駄目でしょ? だって高志君をお兄さんなんて呼びたくないもの。それに、まだまだ、舞子ちゃんは僕の守備範囲じゃない。もうちょっと大人になってもらわないと。でも、大人になっても舞子ちゃんには作らないけどね。高志君が嫉妬しそうで五月蝿そうだもん』

 と長ったらしい拒絶の言葉を吐く。何度私がお願いしてもだ。

 話がそれた。水原といると、水原のペースに巻き込まれてしまうな。私が聞くべきは、こんな事じゃない。

「あんた、お店休みって。大丈夫なの? 私の劇を見に行くためだけに」

「もう知ってたんだ? そうなんだよ。僕達はね、毎年舞子ちゃんの劇を見るのが楽しみでね。高志君が秘密にして欲しいって言うから、こっそり見に行ってたんだけどな」

 その兄に教えてもらった、今年知った事実だけどね。それよりも、こいつは人の質問に答えない男だな。

「だから、そうじゃなくて、大丈夫なのかって聞いてるのよ」

「大丈夫だよ。一年に五日しかない休みだもの。文句なんて誰も言わないよ。第一、僕のお店に来た女の子が、僕が作って無いケーキを食べる? それこそあり得ないじゃない!」

 なんだかんだで、水原だって仕事に対してこだわりや熱意を持ってるんだよな。凄く歪んでいるけれど。

「まぁ、見に来ててくれるのは嬉しいし、私からどうこう言う問題じゃないけれど」

「そうそう。舞子ちゃんが気にする問題じゃない。僕の問題。それに、休む価値はあるからね。毎年楽しみに見てるんだよ! 劇も楽しいし、いつもと違う高志君も楽しいんだ」

「いつもと違う、高志さんですか?」

 斉藤先生が、なんか食いついてきた。

「うん。開演前とか、イメージトレーニングを頑張るんだよ。『舞子が出てきても騒がない』ってずっとブツブツ言いながら。それに彼って、お喋りじゃない。基本黙ってじっと出来ない人のはずなんだよ。これは勝手な僕の予想だけど、小説を書いている時も一人で騒いでるに間違い無いね」

 流石の兄も、水原にお喋りなんて評されたく無いだろうなぁ。でも、その予想は当たってる。兄の部屋から奇声が聞こえるのは珍しく無い。けれど、兄の面子も私の面子も潰れるので、報告しない事にした。

「そうですね。高志さんはお喋りです。でもあんまり話のネタは多くは無いんですけど。今だと、演劇の事か舞子さんの事ばかりで」

「ね~。高志君のシスコンぶりには友達だって引くんだよ。この前も、って言っても大分前だけど、高志君の誕生日パーティやったんだよね。あ、この日は僕のお店の年に五日しかない休みの一日なんだ。で、何の話だったけな。そうそう。高志君の誕生日の事なんだけど、大変だったんだから。『妖花~。舞子がおめでとうって言ってくれなかったぞ。女の子の反抗期はいつまで続くのだ~?』って騒ぎながら落ち込んでてさ」

「おめでとうって言ってもらえなかったんですか。それはカワイそう。ね? 舞子ちゃん」

「知りません!」

 その後、二人は兄の話題で盛り上がっていく。殆どが水原発『兄のとんでもエピソード』で、つまりは悪口。二人はとても楽しそうだ。私はとても不満だ。空気なんて読まないわ、の毒子ちゃんを見習って、

「二人とも! お兄ちゃんのいないところで、悪口言って楽しいですか!?」

 言ってみれば、

「ちょっと、違うよ。舞子ちゃん。僕達はね、友達だから言ってるんだよ。高志君が好きなんだ。その滅茶苦茶ぶりも含めてね。ある意味褒めてるんだよ」

 と水原がもっともらしい事を言って誤魔化したかと思えば、斉藤先生は、

「舞子ちゃん……。二人の兄妹愛は相思相愛なんだね。羨ましいなぁ」

 とか言っちゃう。

 この流れ、止まりそうになかった。私はふてくされ、机に伏せて、顔を横に向け、窓の外を眺める。時がこの最悪を終わらせてくれるのを待つ事にした。しかし時が十分ぐらい進んでも、水原の所へパフェ三つが持ち込まれたりして、余計に私は機嫌を損ねるだけだった。

 だけれども、水原は元々誰かと待ち合わせしているはずなので、そのうちどっか行くのは確実なんだから、私は辛抱強く我慢する事にした。

 更に五分ぐらいが経ったころ、

「優く~ん。待った~」

 ケバイけど綺麗な女の人が、水原に話しかける。きっと噂の待ち合わせの人だ。

「ゴメンなさい。優さん」

 そして、メガネのOLさんも、水原に話しかける。きっと噂の待ち合わせの人。

 何故か、四人用であるこのテーブルに、五人の客がいる。いや、移動しておくれよ水原さん。

 って言うか、女二人は水原にべったりだ。イチャイチャしてる。私は少し混乱した。男一人と女二人。そして、イチャイチャしてる。この世には、私が知らない世界が沢山ある。そう実感した、十四の夏だった。

 水原がどっかに行かないならば、私達が消えるわよ。

「先生。もう出ようよ」

「そうね。邪魔しちゃいけないものね」

 この場合、邪魔されたのは間違いなく私たちだけどね。

 私達が席を立つと、水原が寂しそうにぼやいてた。私達は、聞こえないフリをして、逃げるように店を出た。

 時間も遅くなったので、先生は私の家まで送ってくれるみたいだった。徒歩五分だから、大丈夫なのに。

「先生、ゴメンね。水原もウルサかったし、家まで送ってもらって」

「ううん。楽しかったよ。高志さんのお話も聞けたしね」

 斉藤先生がご機嫌だったので、私は聞いてみた。

「もしかして、水原みたいな人もタイプ?」

 モテ男と彼女が一度も出来なかった男。表面に出てくるベクトルは間逆に見えて、兄の友達の中で、水原は一番兄に似ていると私は思う。人に合わせようとしない、回りを巻き込む超マイペース。その上、超楽観主義。そして、女の子大好き。

 先生が兄みたいな人をタイプならば、もしかして水原も? と思った。

 斉藤先生は、

「みんなそれぞれ別の形をした幸せを追いかけているわ。だから本人達が納得しているのならば、どんな形の恋もアリだと思うの。それに、人の一つの欠点を見て、その人を嫌いになるなんていうのもしたくないな。だから、これは、あくまで恋人としてみるならの話よ」

 と私に念入りに前置きし、

「あんな人は駄目ね。私は浮気とか二股は許せないわ……」

 と言った時の斉藤先生はとても怖い顔をしていた。サスペンスドラマの犯人だった。

「た、多分お兄ちゃんは大丈夫だよ」

「そう? 例え高志さんでも、許せないから……」

 まだまだ納得しかねている、犯人なりかけに説得を続ける。

「だって、お兄ちゃんは彼女が出来た事が無いの。貞操観念はバッチリだよ!!」

 私には彼女が出来ない事と貞操観念の関係性を説明する事が出来なければ、エロ小説家と貞操観念の関係性についても説明出来ないのだけれど、他に交渉のカードを持っていなかった。だって、兄にも私にも、交際経験が無い。

 でもこのネゴシエートは良かったみたいで、

「そうなんだ……」

 恋する女が帰ってきた。私は説得に成功した。

 そんな会話をしている間に、もう私の家に着いた。

 そうだ。水原に邪魔されて、大切な事を言えなかったんだった。

「先生。私が応援出来るのは今日までですけど……」

 結局陰ちゃんと先生のどっちを応援するかも決めかねてる私が言うのもなんですけど、兄の妹である私が言うのもなんですけど、交際経験の無い私が言うのもなんですけど……。

「真剣に、恋しなよ!」

 私は指ピストルで先生のハートを撃ち抜いた。

「ありがとう。舞子ちゃんもね!」

 私は指ピストルで撃ち返された。

 恋、かぁ……。

 木村 舞子。十四歳。絶世の美貌を持ちながら、私は未だ恋を知らない。 

 その後、私は兄に斉藤先生を家まで送るように指示した。その際『三日間の沈黙』を私の方から破ったのだけれど、兄はとても嬉しそうだった。どさくさに紛れて、今更だけど三十路おめでとう、と言っといた。兄は嬉しそうに斉藤先生を送った。

 ちょっと陰ちゃんには罪悪感だけれど、今日で最後だから。それに、二人の様子を見るに、しばらくは進展は無いはず。

 こうして、私の中学生最後の夏休みは終わった。でも、夏休みの宿題が終わったのはもう少し後だった。

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