2
それから、程なく三十分後。
電柱の陰に身をひそめていたら、誰かがやってくる気配がした。予告通り、真紀がやって来たのだろう。だけど、すぐに違うと気付いた。荒い息遣いから、妹ではなく男のものであることを知ったのだ。
自分の立つ場所から三メートルも離れていないところから、困惑気味の声が聞こえてきた。
「あれ、おかしいなあ。ここだと聞いたんだけど、だれもいないな……」
そのつぶやきを耳にした瞬間、頭が真っ白になってしまって、他に何も考えられなくなった。再び涙が出そうになる。声の主が、あんなに会いたいと思っていた彼だったから。
頭が真っ白のまま、フラフラと通りに出る。
すると、彼がこちらに気づき、わたしの名前を呼んだ。
「まどか! やっぱり、ここにいたんだなっ」
とても信じられなかった。大阪にいるはずの彼が、目の前にいるなんて。驚きのあまり、息をすることができなかった。
――うそ、うそでしょう?
心の中だけで、彼に応える。
「まどか!」
すると、公共の場にいるのに、誰に見られているか、わからないのに。彼は駆け寄って、わたしを強く抱きしめた。
「バカだな。なんで勝手に別れようとするんだよ。離れていたって、おれはまどかのものだよ。まどかだって、そうだろう? おれのものだよな?」
彼の熱い体温と甘い言葉に、目がくらみそうだった。その場に崩れ落ちそうになる。とっさに彼の腰に腕を回し、しがみついた。
さらに、わたしを抱きしめる腕に力がこもったようだ。つぶれそうになるほど彼の体と腕の間にはさまれて、息が苦しい。
「どうして、ここにいるとわかったの? どうして……」
わたしの頭の上で、彼の声が響いた。
「有休がとれたから、会いに来たに決まってんだろう。おまえの部屋に行ったら、荷物がなかったからびっくりしたんだよ。ひょっとしたら、こっちにいるかもと思ってさ。あわてて迎えに来たのさ。住所は悪いけど、まどかの免許証をこっそり見て知ってたんだ」
わたしを抱きしめたまま、彼は一気に話し出した。話はまだ続く。
「朝いちばんの電車に乗ったんだよ。こっちに来たら、はじめてなもんだから間違えちゃって。そうしたら、驚いたよ。真紀ちゃんに会ったんだ。彼女は、おれの顔を覚えていてくれてたんだよ」
「え、真紀が?」
彼の口から、真紀の名前を聞くとは思わなかった。
「あの子に会ったの?」
と、彼を見あげたら、彼は嬉しそうにうなずいた。
「ああ、そうだよ。真紀ちゃんは、おれたちの恩人だな。もし、彼女に偶然会っていなかったら、おれたち、ずっとすれ違ったままだった。本当に別れていたかもしれないな……」
「うん、そうだね……」
「まどか、おれと結婚してくれないか。本気で言ってるんだ。ずっとそばにいてほしい。今すぐじゃなくてもいいから、大学を卒業するまで待つから」
もちろん、わたしも同じ気持ちだ。今度のプロポーズは、素直にうなずくことができた。彼の腰に回した腕に、力を込める。
真紀の声が聞こえてきた。
「今度こそ、運命の人だって……ほざいてなかった? 世界でいちばん好きな人だって……」
うん、そうだよ。真紀、彼がお姉ちゃんの大好きな人。世界でいちばん愛してる人だよ。
――ありがとう、真紀。
真紀が学校から帰ってきたら、彼との結婚を決めたことをいちばんに報告しよう。きっと喜んでくれるに違いない。
妹の驚く顔を思い浮かべながら、わたしは彼を見あげた。
「ね、ところで……いつまでこうしてるつもり? 町中の噂になって、往来を歩けなくなっても知らないよ」
「お? わっ! ああ、そうだった!」
彼は慌ててわたしの体を離すと、名残惜しそうな顔をした。
サッと手を差し出す。
「これなら、いいだろう? 堂々と歩けるし」
「うん」
わたしは彼の大きな手を握りしめて笑った。
世界でいちばん幸せだと思えた瞬間だった。
おわり
短いお話でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!




