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2.最後の魔女アンナ・ゲルディ

 グラールスの冷たい社会がアンナ・ゲルディという個人を呑み込む過程は、まるでゆっくりと、しかし確実に対象を締め上げる鉄の罠のようであった。

アンナは、貧しく孤独な女性だった。若くして未婚の母となり、その境遇は彼女に「後ろ暗い過去」という烙印を押した。当時の社会において、それは既に罪に等しかった。彼女が辿り着いた最後の奉公先は、州で最も権力のある人物の一人、医師であり判事でもあるヨハン・ヤコブ・チュディの邸宅だった。

チュディ家での生活は、表面的には安定していたが、アンナの立場は常に危うかった。そして、運命を決定づけたのは、チュディ家の娘、アンネミグリの身に起こった奇妙な出来事だった。

ある日、アンネミグリは激しい発作と痙攣に襲われた。医師である父チュディが診ても、明確な病名はつかない。それは不安な発端であった。そして数週間後、少女は血痰と共に、数本の縫い針を吐き出した。

この出来事は、グラールス全体に衝撃を与えた。理性で説明のつかない異常事態は、瞬時に人々の心を中世の暗闇へと引き戻した。「魔術だ」「呪いだ」。囁きはすぐに確信へと変わった。そして、その矛先は、もともと「異質な者」として見られていたアンナ・ゲルディへと集中した。

 彼は医師としての知識を用いて病理を分析する代わりに、判事としての権限を用いて「魔術」という結論を導き出した。彼はアンナを告発した。

これは個人的な恨みだけではなかった。当時、グラールスは外部からの批判に晒されており、「ヨーロッパで最も遅れた州」という悪評を払拭する必要があった。チュディにとって、この事件は単なる家庭内の問題ではなく、自らの権威、そしてグラールスという閉鎖社会の正義を示すための政治的な機会であった。魔女を断罪することで、彼は「社会の秩序と道徳を守る英雄」となることができたのだ。

アンナは投獄された。裁判は迅速かつ非情に進められた。拷問台の上で、人間の尊厳は粉々に砕かれた。彼女は、存在しない悪魔との契約、呪いの方法、全てを自白するよう強要された。肉体的な痛みと精神的な絶望の中で、アンナはついに、彼らが望む「魔女の物語」を語ってしまった。それは真実ではなく、権力と恐怖が作り上げた虚構のシナリオであった。

裁判の判決は死刑。「毒殺者」という名目で、しかし誰もが「魔女」として認識する運命の判決が下された。

1782年6月13日。処刑の日。グラールスの広場には、何千という民衆が熱狂的に集まった。彼らは、社会の不安、貧困への怒り、そして自らの中に潜む恐怖を、アンナという一人の女性への憎悪に昇華させることで、一種の「救済」を感じていた。彼らは正義が執行されるのを見届けたかったのではなく、自分たちの人生の不幸の責任を、彼女に負わせたかったのだ。

断頭台の上で、アンナは最後の瞬間まで無実を訴え続けた。その声は、群衆の歓声と、処刑人への罵倒と、狂乱のざわめきにかき消された。

その処刑台の下の、石畳の陰。わずか八歳の娘、ララは、人々の足元で身を潜めていた。彼女の小さな目は、母に向けられた憎悪の全て、そして母の絶叫の全てを、まるで焼き付けるかのように見つめていた。ララにとって、母は世界そのものであり、その世界が、歓喜する群衆の手によって、目の前で引き裂かれたのだ。

断頭台の鈍い金属音と共に、アンナの命が断たれた。その瞬間、ララの中で何かが音を立てて砕け散った。それは、幼い子が持つべき「愛」や「希望」ではなく、「世界に対する信頼」であった。

血の匂いが広場に立ち込め、群衆の歓喜は最高潮に達した。しかし、ララはその歓声の中に、偽り、安堵、そしてすぐにでも他の話題に飛びつこうとする底の浅い軽薄さを見た。彼らは母の死を悼んでいない。彼らは、自分たちの心の弱さをごまかしたかっただけだ。

ララの目から、涙は流れなかった。その代わりに、彼女の瞳には、母の無念、そして民衆への凍てつくような憎悪が宿った。彼女は、母を殺したチュディ医師を憎んだのではない。母を魔女として熱狂的に歓待し、その死に喝采を送った、この集団心理に支配された全ての民衆を憎んだのだ。

処刑後の広場の混乱の中で、ララはまるで魂が抜けたかのように立ち尽くしていた。その時、彼女の前に影が落ちた。それは、勝利者然としたチュディ医師であった。彼は慈善家を演じ、ララに手を差し伸べた。

「可哀想な子だ。これも神の試練。私が引き取って、償いをさせよう。」

彼はそう言ったが、その内心には、魔女の娘を側に置くことで得られる世間体と、アンナから受け継いだ何か、あるいは「魔術」の可能性を探りたいという冷酷な好奇心があった。

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