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愛しい子 SIDE:神



――その名は、世界の果てまで響くほど、清らかだった。




神子の祈りの光が収まった後、空は静かに深紅へと染まり、やがて藍に沈んでいった。

屋敷の庭には風が優しく通り抜け、枯れかけた薔薇の葉をそっと揺らした。

その葉の一枚一枚に、まだ微かに残るセレイユの力の余韻が、薄く輝いていた。

まるで彼女の呼吸が、この世界に刻まれた最後の印のように。





『……やれやれ、またかよ。』


レーヴンは屋敷の屋根の上で、尻尾をフリフリと揺らしながら、空を見上げていた。

首はいつもより下がり、いつもの軽い調子はどこかに消えて、代わりに静かな重みが彼の声に混じっていた。


『あんなに無理して、命を削って願うなんて……神子って、なんでいつもそうなんだ?』


神は白い空間の広間の奥で、お茶を一口、ゆっくりと飲んでいた。

その手元のカップには、セレイユが最後に祈った瞬間の光が、一筋銀色の糸のように浮かんでいた。


『彼女は、自分を「神子」だとは思っていない。』


神は静かに、しかし確かな声で答えた。


『彼女はただ、「セレイユ」でいたいだけだったんだ。愛されたい。愛したい。守りたい。それだけの、とても人間らしい願いを、彼女は神の力で叶えようとした。』


『……人間らしい願いを神の力で叶えるって、そりゃもう、まんま神子じゃねぇか。』


レーヴンが、小さく喉を鳴らした。


『でも、今回のはちょっとちげぇよ。前のは、国を救うって決意だったけど……今回は、あいつの笑顔が見たいって理由で、自らの命を差し出したんだろ?』


神はその言葉に、しばらく沈黙した。

やがて、静かに頷いた。


『そうだね。彼女の願いは、もう国ではない。……レクシオンだ。』





屋敷の奥、ベッドルームの窓から差し込む月光が、セレイユの髪を銀糸のように照らしていた。

彼女の胸の上には、レクシオンの手がそっと乗っていた。

その手は、一度も離さなかった。

眠っている彼女の指を、そっと握り返すように、重ねていた。


レクシオンは、もう何時間も、彼女の横で座っていた。

目を閉じても、彼女の呼吸が止まるのではないかと、心臓が跳ねてしまう。

彼女の額に触れ、頬に触れ、手を握り、脈を確かめ、また手を握る。





『……神様。』


レーヴンが突然、白い広間の扉を叩かず、ただ声をかけた。


『あいつ、もう二度とあんな真似はしないって約束したけど……俺、信じていいのか?』


神はお茶を置き、静かに微笑んだ。

その微笑みには、慈しみと、微かな深い悲しみが混じっていた。


『信じていいよ、レーヴン。彼女は、約束を守る子だ。』


『でも……』


『でも、人間の愛は、約束よりも強い。彼女は、レクシオンを愛している。そして、愛する人は時に、約束を破る。』


レーヴンはその言葉を聞いて、しばらく黙った。

やがて小さく、ぽつりと呟いた。


『……なら、俺も、破らせてもらうかな。』


『……?』


『お前が、あいつに「神子」だと教えたのは、いつ?』


神は、その問いに、少し驚いたように目を丸くした。

優しく、そしてどこか痛々しく笑った。


『……教えたことは、ないよ。彼女は、気づいたんだ。ただ私の声を聞いた時、自分の胸の奥に、ふっと「知っている」という感覚が芽生えた。それは、彼女の魂が、私を思い出した瞬間だった。』


『……はぁ。』


レーヴンは、大きく息を吐いた。


『……まいったな。俺が、一番最初に教えるべきだったのか?』


『……いや。』


神はそっと、レーヴンの頭を撫でた。

その仕草は、まるで、幼い頃の彼を撫でていたかのように優しかった。

レーヴンもまた、懐かしさを感じていた。


『彼女はあなたから、もっと大切なものを教わった。「自分は、愛されるに値する」ということを。』


レーヴンはその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。


『……俺、あの時、あいつの声を聞いたて感動した。』


『……え?』


『あの日、屋敷の裏庭で、彼女が初めて誰かに声をかけた時。あんなに小さな声で、でもあんなにちゃんと話ができていた。俺、その瞬間、胸が熱くなって、心臓が、バクバクしやがったんだよ。』


神はその言葉を、じっと聞いていた。

やがて、静かに優しく微笑んだ。


『……あなたも、彼女の、最初の光だったね。』


その夜、神は、白い広間の窓から、遠くの屋敷を見つめていた。

レクシオンの部屋の明かりが、ずっと灯ったままだった。

セレイユの呼吸は、少しずつ、深く安定していった。

そして、彼女の指が、ほんの少しだけ力を込めて、彼の指を握り返した。

変化に気づかないくらい、些細な変化だった。


神はそっと、手を空に向けた。

その掌の上に、小さな光が静かに浮かび上がった。

それはセレイユの髪の色と同じ、淡い金色で、ほんのりと温かかった。


『……愛しい子よ。あなたは、もう一人じゃない。あなたの愛は、誰かの愛で包まれている。あなたの光は、誰かの影を照らしている。あなたの命は、誰かの命と結ばれている。』


その光はやがて、ふわっと、地に舞い落ちていった。

星の間を、ゆっくりと優しく流れていったのだ。

地上からは、星に紛れて見えなかったけれど――


『……そして、あなたの「神子」という名は、祝福を意味する。……罰ではないんだよ。』




その瞬間——

セレイユの指が、レクシオンの手を、もう一度ぎゅっと握った。

レクシオンはその感触に顔を上げ、彼女の静かな寝顔を見つめた。

そしてそっと、彼女の額に口づけを落とした。


その唇の先から、微かに金色の光が、ほんの瞬間、浮かび上がった。

まるで神の祝福が、人間の愛の形で、この世界にやっと降り立ったかのように。






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