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時をこえる少女  作者: 釋臣翔流
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第19章 ラベンダーの庭

 鷺沼の実家は島の中央付近にある高戸山という山の麓にあり、車は昨夏真人らも撮影で使った海水浴場に沿って北上し、湾の最北に当たる所で山の方に右折した。曲がりくねった民家の間の道を少し進み、周囲にみかん畑が広がる丘の中腹にその家はあった。サザンカの垣根から立派な瓦造りの母屋が見えている。鷺沼は門の前にバンを止めると、「ここだよ」と言った。

 一行が車から降りると、和子は海の方を臨んで「綺麗ねえ」と言った。確かにそれは綺麗な光景だった。標高三十メートル程度の丘の中腹からは、左手に海水浴場が緩い弧をなして連なり、昼時の陽に照らされて湾内の水面が煌めくのが良く見えた。湾のやや左中央には絶好の釣り場のような小島が浮かんでいる。運転席から降りてきた鷺沼は、海を眺めながら佇む和子の後ろ姿に声を掛けた。「毎日見ているから改めて綺麗なんて思ったことはないけどね」

「こんな光景を毎日眺められるなんて最高ね」和子は振り向いてそう言うと微笑んだ。

 鷺沼は「家を案内するよ」と言うと、先導して一行を門の中に案内した。正面には先ほど垣根越しに見えていた二階建ての瓦造りの家が建っていた。瓦の装飾が豪華で家主の拘りが感じられる趣の家である。玄関も風格のある引き戸であった。家に向かって左手の方に三十坪ほどの庭が広がり、真ん中に聳える松の木を囲んで色とりどりの春の花が咲き誇っていた。

「あら、ガーデニングにも凝ってらっしゃるのかしら」

 和子はまず庭に興味を持ったようで、二、三歩歩いて足元に咲いていた水仙の花を覗き込んだ。その隣にはフリージアがオレンジ色の鮮やかな色を放って存在を主張している。

「和子ちゃんに見てもらいたいのはこれかな」鷺沼も庭に足を踏み入れると、奥の方に進んで紫色の花が咲き誇る一画を指さした。「君のために用意しておいたんだ。ラベンダー畑」

 そこには一メートル四方の囲いの中でラベンダーの薄紫色の小さな花が所狭しと上に伸び、無心の生命力によるひときわ華やかな印象を振りまいていた。近付くと甘い花の香がほんのりと漂う。――粋な演出をするものだ、と真人は思った。「時をこえる少女」の中でラベンダーは物語のキーとなる花だ。主人公の少女はラベンダーの香りの中で気を失ってからタイムリープの能力を身に付ける。そして、それは環境破壊の進んだ未来からタイムトラベルしてきた少年が薬剤の原料入手目的でラベンダーを収集していた活動と関係があるという筋書きなのだ。

 真人が固唾を呑んで注視するなか、鷺沼の笑顔に対して和子も微笑みを湛えて応えた。

「有り難う。私、今はラベンダーの花も香りも大好きよ」

 和子も三十年以上前とはいえ「時をこえる少女」の撮影を経験しているのだ。当然、鷺沼がラベンダーに託して何を言おうとしているのか百も承知のはずだった。しかし、和子はただラベンダーの花も香りも好きだと言っただけだった。真人は和子の表情に注目したが、相変わらず微笑を浮かべるのみで内心は窺い知れなかった。――でも少なくとも嫌そうな顔ではないな……。そう思った時、真人は和子の向こう側に佇むクリスのひどく興醒めな顔に気が付いた。春の花畑でみんながにこやかに振舞っているのに一人憮然としているかのような表情である。――ラベンダーが嫌いなのか? 真人がそう思うくらいクリスの眼鏡の奥の目は冷たかった。もっとも、他にクリスの表情に注意を払う者もおらず、真人もすぐに忘れてしまった。

 一頻り花を観賞したあと、鷺沼は一行に向かって「そろそろ中に入ろう」と言った。外は春の陽気が強くなり、少し汗ばむほどになっていた。涼を取ってもいい頃合いではあった。


 鷺沼の母親の菊子は八十五歳であったが矍鑠としていた。和子を紹介されると丁寧に頭を下げ、昼過ぎだから今食事を作っている、と言った。真人はそれを聞いて初めて空腹を意識したくらいだった。それほど吉山和子との出会いに心が躍っていたのだ。一行は庭を臨むリビングの丸いテーブルを囲み、菊子が作った出し汁の美味しい温うどんを食べた。それはコシの強い讃岐うどんとは異なり、口の中に入れるとすぐ溶けてしまうような柔らかいうどんだった。

「讃岐うどんはニューヨークでも流行ったからよく知っているけれど、こういうのは初めてよ。私、四国のうどんはみんな讃岐うどんかと思ってたわ」

 和子はそう言ってひときわ美味しそうにうどんを食べた。普通に箸を使って食べているのだが、真人にはとても気品のある食べ方に思えた。

 食事が終わると、一行は同じリビングで菊子の入れたお茶を楽しんだ。この島の家にしては狭いながらも洒落た洋間で、壁に沿って並ぶ重厚な食器棚や古いステレオも落ち着いた趣である。色とりどりの花が咲き誇る庭が明るく、室内は照明が要らないくらいだった。

「新しい家のようにも見えますけど、実際には築何年なんですか?」和子は鷺沼に尋ねた。

「五十年くらいは経ってるね。もっとも、今度のプロジェクトが始まってから君が来ることを想定して庭も含め大きな改修をしたけどね」

 鷺沼がそう答えると和子は少し黙り込んだ。何かを考えている風でもあった。場が沈黙し、皆が和子が何を言うのか固唾を呑んで見守った。和子は戸惑うような顔で静かに口を開いた。

「私、まだ分からないんです。このプロジェクトに協力すべきなのかどうか。だって、そもそも全体像が分かってないんですもの」

「そうだな、あの手紙じゃ良く分からないものな。クリスが何者かも分かんないだろうし」

 鷺沼はそう言って頭を掻くと、真人に向かって「おい、説明してくれない?」と言った。いきなり話を振られた真人は慌てた。「え? 僕が説明するんですか?」

「君は経緯についてほぼ僕と同じくらい全てを知っているじゃないか」

 鷺沼は意味ありげな笑いを浮かべて言う。――この人、和子さんへの手紙でも僕をダシにするみたいに書いてたけど、高校生の僕に語らせた方が真実味が増すとでも思ってるのかな? 真人はチラッとそう考えたが、肝心のペンタゴンのことを話していいのかが気になった。

「あのう、ワシントンの話もいいんですか?」真人は正直に鷺沼に尋ねてみた。

「構わんよ。この映画は和子ちゃんが主役になるんだから、隠し立てすることなど何もない」

 鷺沼は平然と言い切った。クリスは表情乏しく黙って聞いているのみである。鷺沼の言葉に真人は腹を括った。確かに鷺沼の言う通りではあった。とはいえ、自分の語る内容に対する心証で和子の態度が決まってしまうかもしれないのだ。真人は一連の経緯を頭で整理し、言葉に気を付けながら語り始めた。去年のこの島での映画部の撮影、鷺沼との出会い、そして鷺沼からの誘い、ペンタゴンでの吉山和子の映像との衝撃的な出会い、スタジオ・クスノキの楠木会長の了承、長い下準備の末の今次のこの島での再ロケ……。

 和子は時折お茶を飲み、時折庭の方を眺め、時折微笑みながら真人の話を聞いてくれた。LAでの異常な撮影態勢については和子にも思い当たる節があったのか、その裏でCGによる映像製作技術が開発されていたことに納得するように何度も頷く場面すらあった。

「……というわけで、この島でロケを始めたところにちょうど和子さんもいらしてくれたんです。僕らとしてはこの映画を完成させて、七月には公開したいと思っています」

 真人はそう言って話を終えると、和子が苦笑して呟いた。「七月公開……随分急ぐのね」

「今年は四月十六日が土曜日、そして七月十六日も土曜日なんだよ。だから、その日付に間に合わせるようこの映画を完成させることに意味があるんだ」日付に拘る鷺沼が口を挟んだ。

「ああ、映画の中の日並びのこと?」と和子が思い当たったように尋ねる。

「そう、今年は閏年で三月以降が一九八三年と同じ曜日の日並びになっているからね」と鷺沼が答えた。

 和子は合点したように頷いた後、暫く黙って考え込んでいた。撮影されていた彼女自身も知らなかった映像が三十年以上もアメリカ軍の中で保管されていたというような信じ難い話を聞かされて消化するのに時間を要しているようだった。やや間を置いて、和子は目の前の紅茶カップを見詰めながらポツリポツリと感想を述べ始めた。

「事務所の先輩だった薬王院きよ子さんから、『野性の署名』のロケの話を聞いたことがあるわ。自衛隊の戦車部隊に追い掛け回されるというシーンなんだけど、実はカリフォルニアでアメリカ軍の協力を得て撮影したんだって言ってた。アメリカ軍も動員できるなんて楠木フィルムって凄いなって思ったことを記憶しているけど、まさか自分もそんな形でアメリカ軍と繋がりがあったなんて思いも寄らなかったわ。だって、『時をこえる少女』とアメリカ軍なんて最も似つかわしくない組み合わせじゃない?」

 和子はそう言い終えると、クリスの方に探るような視線を送った。クリスは自分に話が振られたことに気付くと、眼鏡をゆっくりと外しおもむろに口を開いた。

「ケンジには言ったのですが、結局あのプロジェクトは、ペンタゴンのCG技術開発と若き日のあなたの映像を永久保存したいというミスター楠木の思いとが合致したプロジェクトだったのです。CG技術の急速な発展で軍事機密指定が掛かってしまい、当時は日本側に提供できなくなってしまったのですが、最近漸く映像自体の機密指定が解除されるに至ってその使い出をケンジに相談したところ、映画をリメイクするのが良いだろうという話になったのです」

「ふーん、そんなことってあるのかしら」和子はまだ合点が行かないように首を傾けた。

 真人は自分自身の説明が足りなかったのかと思い、口を挟んだ。「ご本人に言うのも変なんですが、とにかく一回見て下さい。オリジナル映像みたいに動くんですよ。和子さんが」

 和子はゆっくりと真人の方に向き直ると、静かに諭すような口調で言った。

「でも、そんなに気持ちのいいことではなくてよ。自分の若い頃の映像なんてただでさえ恥ずかしいのに、自分の意志さえ外れて動かされているのを見るのなんて」

「それはそうだ」と鷺沼が話を引き取った。「『若い頃のあなたを自由に演技させます』なんて言われて気持ち悪く思わない奴はいない。お芝居の経験がある者なら猶更だ。でも、あの映画はどうしても君の映像で撮りたいんだ。それにはこのクリスの助けを借りるしかないんだが、映像の出所は明かせない。だから『秘蔵のオリジナルフィルムが発見された』ということにしようと思っているんだが、どうだろう、肖像権の権利者として承諾してくれないだろうか」

 鷺沼は真剣な顔をして正面に座る和子の顔を見据えた。和子は手に持っていたカップをゆっくりと皿に置くと、暫く考え込むようにそれを撫でながら見詰めていた。再び沈黙がテーブルを支配する。やがて、和子はふと瞳の方を見遣ると鼻に掛かった掠れるような声で質問した。

「瞳さん、ね? あなたはどう思って? あなたは一生懸命演技するのに、映画にはあなたの顔もクレジットも出ない。あなたそれでいいの? 本当はあなたが主演でもいいのに」

 瞳は突然自分に話が振られ慌てたようで、弓道着姿である分、真人には滑稽に見えた。

「いえ、私、本当に女優になれるなんて思ってませんし……。こうした形で和子さんの映画を完成するのにお手伝いできるんなら私はそれで満足なんです」

 映画部の特別部会で影武者なんて嫌だとごねた瞳にしてはしおらしく殊勝なことをいうものだと真人は心の中で苦笑した。

「瞳君はなかなか才能あるよ」と鷺沼が口を挟んだ。「しかし、重要なのはあの映画は君を主演に八〇年代に企画されたということだ。僕はあの時の雰囲気のままでこの映画を作りたい。そのためには、和子ちゃん、君の主演とする以外に考えられない」

 鷺沼は静かながらも力強くそう言い、再びテーブルは沈黙に包まれた。和子は窓の外の花を眺めていた。誰もが和子が次に何を言うのかを待っていた。和子はテーブルの方に視線を戻すとゆっくり、しかし確りとした声で口を開いた。

「私、まだ分かりません。日本に三十三年ぶりに戻ったばかりで気持ちの整理も付かないんです。だから、ごめんなさい、今ここで決めろと言われても困るんです」

 それは鷺沼や真人が待ち望んでいた言葉ではなかったが、その訥々とした話し方に和子の正直な気持ちがよく表れていた。

「あの映画は私にとって否定すべき過去というわけではないの。でもね、あまりにも私にとって複雑なものでもあるの。だって、あのあと一旦何もかも捨ててアメリカに逃げたんですもの。そして、あっちで三十年以上、私は私の人生を歩んで来たんですもの」

 真人は、静かな口調ながら和子の魂の叫びを聞いたような気がした。恐らく和子の言う通りであり、それは経験した者にしか分からないものだった。

「もちろん、じゃあ、何でここに来たのと言われるかもしれないんだけど、何だろう、私の中で日本という国の持つ意味が変わってきているんです。何故だか、こんな海や山に囲まれたのどかな自然の広がる場所がとても懐かしいんです。ここに暫くいたら、日本ともう一度向き合えるような気がしているっていうか……。映画のことはそのあとで考えさせて欲しいんです」

「いいだろう」話を聞いた鷺沼は即決するように言った。「思い存分ここの自然を楽しめばいい。日本の地方のいいところが凝縮されたようなところだしね」

 鷺沼はそこで言葉を切り、少し考え込む様子を見せたかと思うと、和子の方に向き直って大胆な提案をした。「一つどうだろう? 僕の実家を開放するから暫くここに泊まったらどうだい? 僕はこちらの真人君らと同じところに泊まればいいし、お袋に賄いさせるから」

 突然の意外な申し出に和子が戸惑いの表情を見せたのに対し、鷺沼は和子がこの地に逗留することを決めたかのような口調で付け加えた。「海や山に囲まれたところを存分に楽しみたいのなら松山市内のホテルよりここの方がいい」

「でも悪くないですか?」暫く考えたあと、和子は穏やかな表情に戻ってまんざらでもなさそうに尋ねた。真人は先ほど和子が興居島の風景を見てやたら「綺麗」と口にしていたのを思い出した。ひょっとしたら、和子の魂は今日本ののどかな自然を欲しているのかも知れず、そして鷺沼は鋭い直感でそれを見抜いているのかもしれなかった。鷺沼は直ぐに返事をした。

「全然。むしろそれを準備していたくらいさ。ホテルには荷物を運んでこさせればいい」

 和子は暫く庭の方を眺めながら再び何かを思案する様子を見せた。微妙に心の中が揺れているのが、真人にもはっきりと感じられた。やがて和子は顔を上げた。

「今日は一旦ホテルに戻ります。明日、また来ますわ」

 真人は一瞬それがイエスを意味するのかノーを意味するのかが分からなかった。しかし、鷺沼の方を見ると、彼は嬉しそうに頷いていた。「分かった。じゃあ準備しておくよ。但し」

 鷺沼はそう言って今度は厳しい顔をして和子以外のメンバーの方に向き直った。

「撮影は明日から予定通り再開する。結果として彼女の許可が出なかったらそれまでだが、希望が一厘でも残っているのなら作業は淡々と前に進める。いいね」

 もとより真人もそのつもりである。鷺沼の強い口調に対し、真人も「もちろんです。やります」と力強く答え、クリスや瞳も勢いに飲まれたように黙って頷いた。

 真人は和子がどういう思いで三十三年間もアメリカで暮らしていたのかと改めて思った。目の前の和子は、よく見ると年月を経た顔をしているものの、全体的な雰囲気は本当に少女のような透明感をそのまま湛えていた。映像の中の和子だけではない。この本物の和子にも恋をしそうな自分に真人は我ながら驚いていた。そして、この現実の和子が抱える何らかの苦悩を少しでも癒してあげたいと本気で思った。

「和子さん、僕らが撮影を進めることは迷惑ですか?」と真人は気になっていたことを質問した。撮影が和子の内なる苦悩を深めるのであれば、それは深刻なジレンマになるからだ。

「いいえ……。むしろ私の方があなたたちにとって迷惑かもね。態度を決められないから」

 和子は微笑みながら恐縮するように言った。逆に気兼ねする優しさに真人は感動した。

「ただね」と和子は付け加えた。「あの映画で大木監督が描こうとした少女は私ではないし、ましてやあの時の少女のイメージで今の私を見る人がいたら多分それは違うことだと思う」

 和子が言った後、再び沈黙が訪れた。やがて鷺沼が庭の花を見ながらポツリと呟いた。

「君はそういうアイドルの虚像を自覚する前に芸能界を引退していたんだと僕は思っていた。そうでもなかったんだね」

「凄く複雑なの。凄く」

 和子は庭の方を眺めながらそう答えると、それっきり微かな笑みを湛えながら口を閉ざしてしまった。咲き誇る庭の花が陽光を浴びながら風に揺られ、リビングから大きな窓を通して見るとまるで一篇の花の映画を鑑賞しているかのようだった。部屋はガラス細工のような沈黙に包まれ、それを破ると全てが終わってしまうような脆ささえ感じられた。

 ――今は決められない。でも前に進むしかない。真人はテーブルから静かに庭の花を見詰める和子の横顔を眺めつつ、改めてそう思った。

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