410. 燃える血潮
「はっ、ぜっ……!」
白い息を弾ませながら、街中を駆ける。
ベルグレッテの元へ向かおうと決めたエドヴィンだったが、早速の誤算に見舞われていた。
(クソ、思った以上に走りづれぇ……!)
そこかしこに積もる雪である。
歩道ということで除雪されているため大した量ではないのだが、所々に固く凍りついている箇所があり、道がひどくデコボコしているのだ。歩く分にはさして気にもならなかったものの、一刻も早くベルグレッテの下へ向かいたい今の状況では面倒なことこの上ない。
いっそ火の神詠術で吹き散らしたいところだったが、焼け石に水ならぬ大雪に炎か。とても消しきれるものではない。無駄に体力を消費するだけだ。
凹凸に躓かぬよう――滑って転ばぬよう、慎重に進みながらいくつめかの建物の角を曲がったエドヴィンだったが、
「ッ!」
そこで思わず立ち止まることとなった。
「どうもでやす、お兄さん~」
塀に寄りかかる、矮躯の小男。先ほどの二人の男女の片割れ。オルケスターの一員と思われる存在。
(コ、イツ……!)
明らかに待ち構えていた、その相手を前にして。
「あァ? 誰だお前。どっかで会ったかよ」
「またまた~。ほんの今さっき、お会いしたばかりじゃないでやすか」
こうして目の前に現れた以上、ごまかしは無意味。チンケなやり過ごしなど、やはり通用しない。分かってはいても、つい食い下がりたくなるのは致し方ないところだろう。
(チッ……!)
エドヴィンは油断なく視線を走らせる。
男は一人。先ほど一緒にいた派手な女の姿はない。どころか、周囲に人の気配は皆無。とはいえ、本当に一人かどうかは怪しい。妙な策を巡らせているかもしれない。どんな手を使ってくるか分からない、どれほどの力を持っているかも分からない本物の悪党とやり合うなど、やはり論外だ。
幸い、周囲の建物や路地は入り組んでいる。上手く撒けるか。
「そう焦らなくても、あっしは一人でやすよ」
逡巡を読み切っているかのような男の言葉。もちろん、(本人としては不本意ながら)馬鹿と名高いエドヴィンとはいえ、そんなセリフを鵜呑みにするはずもない。というより、むしろ悪童たる『狂犬』はこうした相手との化かし合いには慣れている。
「あァ? 誰が焦ってるだぁ? 何なんだよてめーは。ケンカ売ってんのか、あ?」
ここは口先で何とかやり過ごし、上手く機を窺って逃げる――
「二度、でやす」
男の意味不明な呟きに、必死で回転させていたエドヴィンの思考がピタリと停止した。
「……あぁ?」
「さっきの道端で、お兄さんが露骨に動揺した回数でやす。二度目、財布を落とした時は分かりやすかったでやすね。キンゾルの名前を出した瞬間でやした」
「……!」
「キンゾルの名前に反応するとなると……お兄さん、もしかしてレインディールの人だったりしやすか? 賞金稼ぎや冒険者……って感じじゃありやせんよね~」
問うていながら、ほぼ確信を得ているような笑み。
(コイツ……)
キンゾル・グランシュアは、レインディールにおいて破格の懸賞額がかけられている大罪人。バダルノイスとの中立地帯ハルシュヴァルトでは手配書も出ているようだが、本国における知名度はさして高くないという。
「で、問題は一度目。お兄さんがあっしらとすれ違って足を止めた時。二度目は『このお兄さん怪しいなぁ~』とビンビンに警戒してやしたんで、すぐ分かりやしたが……。最初、一度目の時は何を話していやしたかねぇ、と。そもそもの切っ掛けとして、あっしらの会話の何がお兄さんの気を惹いたんでやすかね、と。さっきから、それを考えてるんでやすが」
男が張りつける、卑屈げに歪んだ笑み。『歪んだ』とは比喩でなく、鼻や唇はおろか頬や顎といった造形に至るまで、左右の均整が妙に釣り合っていないのだ。その面相はひん曲がった茄子を彷彿とさせる。
(ヤロウ……)
不気味な微笑みを前にして、エドヴィンは内心で舌を巻いていた。
となれば、わざとだ。
最初に足を止めたことで即座に怪しまれて以降、この男とあの派手な鈴の女が交わしていた会話は当たり障りのないものだったのだろう。
その中にさりげなく餌を撒く形でキンゾルの名が出され、エドヴィンはまんまと食いついてしまった。動揺し、レインディールの人間だと悟られてしまった。
(予想以上に……ヤベェかもな……)
その底知れなさ。自分のような不良学生とは比較にもならない、本当の意味で闇に生きる者の狡猾さを前に戦慄していると、
「……今回の天轟闘宴の覇者に、『黒鬼』を斬った詠術士……の話を、ミュッティさんにしていた気がしやすねぇ」
記憶の糸を遡るように。そして、
「リューゴ・アリウミに……ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード……でやしたかねぇ」
迷い路から抜け出すように。
茄子男の口から、ついにその名が発せられて。
「……、」
それでも、エドヴィンは辛うじて動揺を押し殺した。押し殺したつもりだった。
「彼らもレインディールの人間……。お兄さん、もしかして……この二人のお知り合いでやすか?」
「知らねーよ。誰だァ? 何の話をしてんだよ。で、用事はそんだけか?」
「う~ん……あっしの思い違いでやすかねぇ……」
それまでの自信に満ちた態度から一転、男は困り顔となって唸る。そもそも、この場で相手に確認する手段などないのだ。
傾いた。
平静を貫き通したことで、やり過ごせる光明が見え始めた。
――と、エドヴィンが考えた瞬間だった。
「じゃあ、構わないでやすよね。リューゴ・アリウミを殺しても」
それは不意打ち。
闇の者らしい揺さぶりのかけ方に対し、
「はァ? 知らねーつってんだろ。誰だってんだよ。何の話してんだ?」
しかし危機感の高まっていたエドヴィンは、もう目に見えてうろたえることはなかった。すでに何を言われようと動じない心構えができていた。
「ん~、そうでやすか……」
意外そうに眉をひそめる茄子男に対し、エドヴィンは心中で「やれるもんならやってみやがれ」と嘲笑う。
そもそも、あの有海流護に勝てるはずがない。相対して数秒で己の愚かさを後悔するだけだ。勝手に挑んで勝手に返り討ちに遭えばいい。あの遊撃兵の少年に対する心配など何もいらない。
「じゃあ、構いやせんね」
「あぁ?」
「ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードの方も。殺しちまって、構いやせんよね」
「……あぁ」
エドヴィンは、もう陳腐な揺さぶりになど動じない。
笑いながら答えてやれる。
「勝手にすりゃいーんじゃねーの」
そして、灯る。
エドヴィン・ガウルの右手に、煌々と燃え盛る紅蓮の火球が。
「!」
茄子男が左右非対称の眼をカッと見開くも、先んじたのは『狂犬』だった。
「ゥオラァ!」
躊躇なしの全力投球。唸り飛ぶそれはエドヴィンの切り札たる攻撃術、スキャッターボム。
かすかな弧を描いた爆炎の砲弾は、男に反応すら許さずそのどてっ腹へと命中。
「がぼぁっ!?」
くぐもった爆発とともに、その矮躯を容易く薙ぎ倒す。
名も知らぬオルケスターの男は、白煙を吹き上げながら雪のまぶされた石畳へ大の字となった。
「あァ、勝手にすりゃいーぜ。まだ立ち上がれるならな」
仰向けになった男を見やりながら、エドヴィンは朗々と言い放つ。
もう、くだらない探りに動じはしない。
しかし、別だった。
思いを寄せる少女を殺すなどと宣言されて、笑って見過ごせるかどうかは別の話だった。
きっと早計だったに違いない。
この男が倒れたことで――仲間がやられたことで、オルケスターは異変を察するだろう。ここはどうにか撒くなどしてベルグレッテらに対応を任せれば、展開を有利に運べたかもしれないのだ。
(ヘッ……)
それができない自分の未熟さ。しかしエドヴィンとしては分かっていても譲れず、また許すことなどできはしなかった。
(さて……どーすっかな)
スキャッターボムの直撃。
生半可な防御など突き破り、人の腕程度であれば軽々と吹き飛ばす、『狂犬』自慢の奥の手である。挑発にまんまと乗ってはしまったものの、始まるまでもなく終わりだった。
倒れた男の腹部から立ち上る白煙を眺めつつ、脳裏に甦るのはかつて繰り広げた流護との決闘だ。
『お、おい! エドヴィンの奴、いきなり「スキャッターボム」撃ったぞ!』
『事前に詠唱してやがったんだ! さすが「狂犬」だぜ、卑怯くせえ!』
『詠術士の面汚しよアイツ。信じらんない!」
甘いことを言う。これが闘いだ。非難の眼差しと言葉を受けながら、そう考えた。そして今も、その思いは変わらない。
相手は、裏社会に生きる筋金入りの無法者。まともに闘っていたなら勝ち目などなかったかもしれず、またここで止められなければ、ベルグレッテに危険が及ぶ可能性もあった。
生きるか死ぬかの分水嶺。
正々堂々なんて思想は、平和ボケした連中の戯言に過ぎない――とエドヴィン・ガウルは考えている。
「ふ~む。じゃあ、お言葉に甘えやしょうかねぇ~」
何事もなかったかのような言葉は、大の字に寝そべった男――倒したはずの敵から発せられた。
「な、に……?」
エドヴィンは己の目を疑う。
その驚きを嘲るかのごとく、茄子男があっさりと上体を起こす。まるで朝目覚めたみたいに悠々と。
「それにしてもお兄さん~、ひどいでやすねぇ。いきなり術をぶつけるだなんて。ちょいと卑怯じゃないでやすかぁ?」
平和ボケした学院生と変わらぬ口を叩きながら、その無法者はまるで堪えた様子もなく立ち上がった。
(な……んだ、コイツ……!? 俺のスキャッターボムまともに喰らって、どうして平然としてやがる――!?)
腕の一本や二本、軽々と飛ばす威力の秘技。流護ですら、危険と評するだけの威力を持った術。腹に直撃したなら、そのまま命を落としても不思議はないはずだった。
「!」
そこでエドヴィンは気付く。
茄子男の腹部。破けた布地の下から、黒光りする光沢が覗いている。
(金属……? コイツ、下に何か着込んでやが――)
「お言葉に甘えやす」
「……あァ……?」
「まだ立ち上がれるなら、勝手にすりゃあいい。お兄さんさっき、そう仰いやしたよね」
「――――」
絶句する間に、相手は続けた。
「お兄さんをこの場で縊り殺して、お仲間も後を追わせてあげやすよ。このモノトラと――我々、オルケスターがね」