409. ライング・マリス
まず気になったのは、思った以上に人が少ないことだった。
街並みはレインディールに通じる雰囲気があり、規模もまた劣ってはいないのだが、とにかく閑散としている。
この異常なまでの寒さやそこかしこに積もる雪を見れば当然という気もしたが、
(あー……何だったっけか……『滅死の抱擁』、とかつったか?)
冷たい風に首を竦めながら、忘れちまったな、とエドヴィン・ガウルは胸中で独りごちた。
十数年前に発生したその大災害が切っ掛けとなり、バダルノイスは下り坂を転げるように凋落の一途をたどったという。国家が衰退するほどの吹雪というものが一体どれほどの規模だったのか、どうにもレインディール城下町育ちのエドヴィンには想像がつかない。
「チッ……」
異国へやってくるなど、滅多に……人によっては一生縁がない経験である。
せっかくだからと皇都イステンリッヒを巡ってみるつもりで練り歩いているのだが、正直なところ面白みも何もなかった。
(ったく、辛気臭ぇ街だぜ)
皇都を推したがっている風だったオームゾルフには悪いが、今のところこの街の心証はあまりよろしくない。
「……」
こんもりとした上着の衣嚢から、それを取り出してみる。美術館の無料招待券。てんで芸術やその類のものに興味などない性分だったが、それでも『誰か』と行けば違うのだろうか、と柄にもないことを思う。
(チッ、くだらねーよ……)
サベルとジュリーのように。
ベルグレッテと二人なら、楽しめたりするのだろうか、と。
「~~~っ」
頭をガシガシと叩くように掻きながら、足を早めた。
ありえない。
分かっているのだ。到底叶うはずもない恋だなんてことは。だからといって、簡単に割り切れるなら苦労はしない。
(ベルの奴は……)
ミディール学院の皆も、それとなく察しているだろう。
ベルグレッテはきっと、有海流護に思いを寄せている。もしかすれば生真面目で頑固で貞淑な彼女は、自分自身でその気持ちに気付いていないかもしれない。それでも、嫌な相手とああも一緒にいることはないはずだ。
(アリウミ……)
そして、あの少年も間違いなく、ベルグレッテに惹かれている。言わば、自分にとっては恋敵となる相手。
しかし。
「……」
今もはっきりと、覚えている。
挑んだ決闘。いつの間にか倒れ、見上げていた抜けるような青空。清々しいほどの敗北に、なぜか胸がスカッとした。入学して以来、心のどこかでわだかまっていた何かが、きれいさっぱり霧散した心地。
それはきっと、
(詠術士でなくてもいい。そう思ったんだ……)
神詠術こそ至上。詠術士こそ選ばれし勝者。
そうして根づいた世の中の常識を、打ち破る者が現れたから。
自分だってきっと、彼と同じ道を目指していい。
幼少の頃から抱き続けた憧れは、ただの夢物語などではなかった。古の英雄ガイセリウスだけの伝説などではなかった。現実に成し得ることだったのだから、と。
「……、」
しかしいざ、自分でその道を歩もうとして思い知る。
いくら肉体を鍛えようとも、有海流護のような強さは手に入らない。
遠く離れた間合いを一瞬で詰めることも、攻撃術をさらりと躱すことも、大男を一撃で殴り倒すこともできはしない。
結局のところエドヴィン・ガウルにそんな才能はなく、神詠術を使わずにできることなどたかが知れていた。
またも胸の裡で巣食い始める、鬱屈した何か。
しかしそれが、
『やっぱりエドヴィンさんは、いい人です』
『娘を助けていただいて、本当に感謝しています』
また、薄らいだのだ。
寒風の中でも暖かな上着の裾を、ぐっと握り込む。
「…………」
あの母子から贈られた、父の形見だという上衣。その温もりは、そのまま彼女らの心を示しているようで。
「寒ぃな。まだ来ねぇのかよ、迎えは」
エドヴィンの思考を引き戻したのは、よく通る少女の声だった。
ふと顔を上げると、少し先の歩道、街灯に寄りかかっている変わった風体の少女が一人。年齢はエドヴィンより少しばかり上か。
まず目立つのは、煌びやかなコートとマフィアが愛用するような黒メガネ。特に後者はほとんど顔の上半分を覆い隠すほど大きく、その小顔には今ひとつ似合っていない。整った鼻や唇の造形から、美しい顔であることは想像がつく。
加えて、身につけた装飾品の数々。頭には蝶を模した髪留め。編み込まれた金髪は、胸元へ流れ落ちる滝のように垂れている。両の耳からは派手な赤の耳装飾がぶら下がっており、銀の首飾り、金の腕輪に足輪。
いかにも高級そうな白い毛皮のコートを羽織っているが、袖は通さず肩に引っかけている。
それだけなら王都でもよく見かける派手好きな女だが、
「チンタラしてんな、あのクソ」
耳障りのいい美声に似合わぬ、男のような言葉遣い。そして、彼女の身じろぎに合わせて聞こえてくるかすかな鈴の音。見れば、装飾品の数々に小さな鈴が括りつけられている。
(何だぁ? この妙ちきりんな格好の女はよ。バダルノイスの流行りか?)
エドヴィンの感想としてはそんなものだった。
「まあ、そうカリカリしない方がいいでやすよ~」
そして、その派手な少女に笑いかける貧相な男が一人。
こちらはこれといった特徴のない、矮躯の男。顔からして根暗そうで、目や鼻、唇の形が少し曲がっている印象を受ける。女の恋人にしては、あまりに不釣合いな容貌だった。
服装はごく普通の平服……なのだが、それは室内ならばの話だ。男はこの凍えるような寒さの中で、上衣一枚すら羽織っていない。一応露出しているのは顔ぐらいのもので、黒い手袋を身に着けているようだが、
(おいおい、何だコイツ。寒くねーのかよ……)
他人事なのでどうでもいいのだが、見ているほうがブルリとしてしまう。季節を春か秋と勘違いしているとしか思えない装いだった。
そんな特徴的な二人組が、歩道端で立ち話に興じている。
一見変わっているように思えるが、このバダルノイス皇都イステンリッヒではこれが普通なのかもしれない。
などと考えながら、彼らの横を素通りする。
「今頃、アルドミラールのヤツは美術館か?」
「そのはずでやす」
派手女が言い、貧相男が答える。
(こっちでも美術館、かよ)
奇遇というべきか、エドヴィンたちの待ち合わせ先だ。
「ったくよ……最初の時点で例のガキが顔出してりゃ、とっとと片付いた案件なんだがな」
「それはあっしとしても意外でやしたよ。この展開はちょっと予想していやせんでしたねぇ」
見るべきところのない雪の街と身を切る寒さに辟易としていたエドヴィンは、いっそこのまま美術館へ向かおうかと思い立った。
砂糖を吐きたくなるようなサベルとジュリーのやり取りに一人で晒されると思うと気が進まなかったが、凍え死ぬよりは幾分もマシに違いない――
「で、さっきの話だけどよ。リューゴ・アリウミにベルグレッテ何チャラだっけ? 使いもんになるのかよ、そいつらは」
止まった。
派手な鈴の女が気だるそうに発した、その言葉を聞いて。
彼らの横を通り過ぎたエドヴィンの足が、ピタリと止まっていた。
「――――」
連動するように、背後からの会話が中断する。
(っと! マジィだろ……!)
ここで立ち止まるのはいかにも不自然だ。
瞬間的にそう考えたエドヴィンは、足を踏み鳴らしながら数歩進んで屈み込む。靴の紐を結び直すふりをしながら、その場に留まった。咄嗟に振り返ったりしなかっただけ上出来だったかもしれない。
「……使えるはずでやすよ。今回の天轟闘宴の覇者に、『黒鬼』を斬った詠術士でやすから」
明らかにひそめた男の声が聞こえてくる。
(何だ、コイツら……? どうしてアリウミとベルのことを……)
二人の知り合いかと一瞬考えたが、それはないと即座に否定する。
ベルグレッテの全名すら覚えていない女。男のほうは、天轟闘宴で初めて流護たちを知ったような口ぶり。
そして両者ともが発した、
(『使える』、ってのはどういう意味だ……?)
何とも上から目線な言葉。とても友好的な意味合いが込められているとは思えなかった。
「…………」
しばらく屈み込んだままでいるエドヴィンだったが、それきり後ろからの会話が聞こえてこない。
(チッ、コイツら……)
背後の二人は、明らかに聞かれることを避けようとしている。
エドヴィンとしても、いつまでもこうしてはいられない。これ以上は怪しまれるだけだ。しかし、もう少し情報も欲しい。となれば――
「っし」
いかにも靴紐を結び終えた風に立ち上がり、
「おっ」
すぐ近くの店先にある展示ガラスへと寄っていく。そこで足を止めて、いかにも興味ありげに中を眺めた。
そこは日用品の店らしく、ちょっとした家具や封術道具が並べられている。
もちろん、エドヴィンはそんなものに興味などない。
「…………」
氷片の張りつくガラスに反射して、かすかに映り込む街並み。そして、雪の歩道に佇む派手な少女と細い男の影。彼らとの距離は五マイレほどか。さすがに表情まで分からないが、二人の顔はこちらを向いているように感じる。
(チッ、いつまでも見てんじゃねー……! 俺はただの通りすがりだっつーんだよ、話を続けろよ、おら……!)
半ば祈るように念じていると、
「……しかし、アルドミラールさんに任せて大丈夫なんでやすかね」
どうにか聞き取れる声量で、男がそう口にする。
「ケ、問題ねぇだろ。あんなんでも成功例って奴だからな」
「いやぁ、その……性格的な意味で、でやす」
「それこそ問題ねぇよ。ウチの序列ってもんはよーく分かってんだろ、あいつもよ」
かすかな北風に交じり、そんな会話が聞こえてきた。
(『ウチの序列』……? コイツら、何かの集まりなのか?)
まだ情報が少ない。
エドヴィンは下衣の衣嚢から財布を取り出し、中を確認するふりをした。動きを止めては怪しまれる。こうすれば、買い物すべきか悩んでいるように見えるだろう。
「まぁ、彼はともかくとして……あっしはやはり、あいつだけは好かんでやすよ」
「どいつのこったよ」
「もちろん、あの爺さん……キンゾルでやす」
その瞬間、エドヴィンは手にしていた財布を取り落とした。
拾うことすら忘れ、呆然と立ち尽くす。
(キンゾル、だと……!?)
珍しい響きのその名前。
レインディールで超高額の賞金首に指定された大罪人。そして――
(オルケスター……!)
何らかの集まり。変わった名前の老人。
エドヴィンの出来の悪い頭の中ですら、それらが容易く繋がる。
(コイツら……、オルケスターかよ……!?)
動揺を押し殺し、粉雪にまみれた財布を拾う。冷たすぎる白い粉を払いながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。
あまりに思いがけない遭遇。
そして、またとない機会。もう少し何か聞き出したいところだったが、
(チッ……!)
ガラス越しに映る男女の影。その顔が、またもこちらを向いているように見える。
(クソ、そう上手くいきそうにねーな……!)
やはりこれ以上は危険だ、と直感が告げた。
ここでこの二人を締め上げて確保できれば大手柄だろうが、こちらは一人。
しかも相手は、その辺の無法者ではない。本物の犯罪組織の人間だ。となれば、両者ともに強力な詠術士という可能性も考えられる。近くに他の仲間がいないとも限らない。
対して、エドヴィンはただの学生。悪童の範疇を出ない、詠術士見習いに過ぎない存在なのだ。
『狂犬』といえど、ここで噛みつくのは明らかな自殺行為。
この局面で問答無用に未知数の相手と対峙できるのは、『ペンタ』や有海流護のような選ばれた人間だけだろう。
「……、」
エドヴィンは平静を装って財布を仕舞い込み、足早にならないよう努めてその場を後にする。
建物の角を曲がり、あの二人からは見えない位置取りとなったことを確認してから、ようやく一息ついた。
「……ふー」
思わず胸を押さえれば、心臓がバクバクと高鳴っている。
充分だ、と割り切るべきだろう。
情報としては申し分ない収穫があった。今ひとつ痕跡や確証もなく、実在すら怪しかったオルケスター。しかしそれは確かに存在し、この街に潜んでいる。
――そして、どういう訳か流護とベルグレッテに目をつけている。
(やべーぞ、アイツらに知らせねーと……!)
しかし残念ながら、今すぐは不可能だ。
流護はどこかの飯屋、ベルグレッテは兵舎へ向かったはず。エドヴィンの技量では、正確な所在が分からない相手に通信術を飛ばすことはできない。サベルとジュリーは美術館にいるはずだが、それにしても具体的な建物の場所を知らない。
総じて、エトヴィンの通信術というものは土地勘のない異国では全く使い物にならなかった。
「クソったれ……!」
神詠術に頼り切ることを苦々しく思っていながら、こういうときばかりは自分の未熟さを歯がゆく感じてしまう。そんな中途半端な自分に苛立ちつつも、焦りを押し込み考える。
(あのオルケスターの奴ら、すぐにでもアリウミとベルをどうにかするつもりなのか……?)
思い出せ。何か他に言ってはいなかったか。出来の悪い頭を懸命に働かせ、
「……イヤ、」
ハッとした。
そもそも、連中はなぜあんな路傍で立ち話に興じていたのか。
(……確か、最初に……迎えがどうのって……言ってやがったよな?)
それは一番最初。通りかかったエドヴィンの耳に届いてきた、口の悪い女の言葉。
あの二人は、あそこで誰かを待っていた。であれば、少なくとも今しばらくはあの場に留まっているはず。すぐには動かないはずだ。
(っし、冴えてんじゃねーか俺! もうバカなんて言わせねーぞコラ……!)
猶予はある。ならば、とにかく一時解散したあの高級料理店の周辺まで戻ってみるべきだろう。走れば十分そこそこでたどり着けるはずだ。
そして、そこからどうするか。今現在、あの二人は別行動を取っているはず。
(アリウミ……)
彼は、どこか食事ができる店を探しに向かった。
もちろんエドヴィンはこの辺りの地理に詳しくないので、あの大食らいの遊撃兵がどこに行ったかは見当もつかない。しかし、
(アイツなら……)
あのアルディア王が惚れ込んで任命したと評判の遊撃兵、リューゴ・アリウミ。
神詠術を使えぬ身でありながら、連戦連勝無敗の男。その活躍ぶりたるや、現代を生きる勇者と称して遜色ないものだ。
先日はメルティナ・スノウに不覚こそ取ったが、それは黒牢石の枷を外していなかったからだとエドヴィンは考えている。万全の状態で対峙したなら、相手が北方の英雄だろうと負ける訳はない。
自分の目標たる流護には最強でいてほしい、という個人的願望も多分に含まれてはいるが、『拳撃』の戦力分析としてあながち間違ってもいないはずだ。
(アイツは大丈夫だ。誰が相手だろうとやられやしねぇ。となりゃ――)
可憐な少女騎士の姿が……想い人の姿が脳裏に浮かぶ。
(ベル……)
彼女とて、エドヴィンより遥かに腕利きの使い手。格下の自分が心配するのは的外れだろう、とすら思う。
(けどよ……)
しかしそれは、飽くまで『詠術士としての話』だ。
(惚れた女が狙われてんだ……! 心配に決まってんだろーがよッ……!)
男エドヴィンは、迷うことなく回れ右で駆け出した。
戻るには戻るが、同じ道は使えない。
先のオルケスター二人に遭遇しないよう、迂回して別の道を通る必要がある。そして目指すは兵舎。詳しい場所こそ不明だが、少なくともそこに彼女がいると分かっている以上、流護を探すより容易いはずだ。
「ベルッ……!」
『狂犬』はひた走る。いっそ本当に犬なら、あっという間に駆けつけられるのによ――と悪態をつきながら。
ちりん。
わずかな身じろぎで零れる、小さな鈴の音。
「なぁ、モノトラよぉ」
全身、至るところに施したその音色に負けるとも劣らない、よく通る少女の声。
「こいつぁ、アタイの勘違いじゃねえと思うんだがよぉ」
美しい声音にそぐわぬ、粗野で品に欠ける口調。
「何でやすか、ミュッティさん」
矮躯の男が、誰に対しても変わらぬ低姿勢で応じる。
二人ともに。
今しがた、一人の青年が消えていった街角を眺めながら。
「あのウンコ頭、聞き耳立ててやがったよなぁ?」
「そう見えやしたねぇ」
「オルケスターの名前は出してねぇんだがな。何があの巻きグソの気を惹いたんかねえ」
端正な口元を歪め、鈴の女――ミュッティは雪の歩道に唾を吐き捨てた。それだけの所作でも、各所に下げた鈴がチリンと揺れる。
「まぁいいや。モノトラよぉ」
「へい」
さして思案もせず、女は安い店で料理を注文するのと変わらない口ぶりで告げた。死ぬほどどうでもよさそうに。
「あの巻きグソ頭、とりあえず殺しとけ」




