281. 静かな帰郷
(この密着状態から後頭部に蹴りだと!? ぐはぁ! つ、強ぇ……! そんな足技を作るのに欠かせない~~……っと)
秋も深まった昨今、すっかり明るくなった午前八時過ぎ。休日とはいえ今朝は涼しすぎるぐらいな気温のためか、まだ辺りには誰の姿もない。
そんな中庭にて、地道な股割りをこなし芝生にぺったりと伏せっていた流護は、
「……?」
大層な荷物を抱えて学生棟から出てくる人影に気がついた。
今日は安息日、つまり学院は休みである。となれば、こんな朝っぱらから遊びに行こうとしている生徒か。
「……ん? あれって……」
かすかな足音が遠のいていく。少しだけ見えたその後ろ姿に、見覚えがあった。ちょっと気になって、「ほっ」と無駄にアクロバティックな挙動で立ち上がって後を追う。
学院の内外を隔てる壁に沿って歩いていくと、
「む……」
敷地の出入り口となる門前に佇む、一人の少女の姿があった。馬車を待っているのだろう。
その装いは制服ではなく、闇のごとき黒一色のワンピース。かすかな風にはためくその衣が喪服を連想させ、流護は一瞬だけギョッとする。
「…………、」
しかし黒の不吉さと彼女の持つ儚げな美しさとが混在し、どこか禁じられた魅力を醸し出しているかのようでもあった。
足下に置かれた茶色の麻袋は、少女が持つには手に余るほどのボリュームがある。荷物の大きさは、そのまま旅路の長さ……移動距離の長さに直結しているといえるだろう。
思わず棒立ちとなった流護の存在に気付いたか、彼女はゆっくりと首をこちらへ横向けた。そして驚いた風もなくペコリと一礼し、いつも通りの口調で一言。
「……おはようございます」
「お、おお。うっす」
そんな黒衣の少女――レノーレに対し、流護も釣られる形で挨拶を返していた。
「何だ、レノーレ……早いな。一人で、どっか出かけるのか?」
そう問いかけた流護へ、彼女は深々と丁寧に頭を下げる。
「……不肖レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ、実家に帰らせていただきます」
「旦那とケンカした奥さんかよ……って、え? 帰る? 今から?」
思わず眉をひそめた。
安息日には、親元へ戻る生徒も多い。
が、それは王都やディアレーなど、比較的近場に生家がある者の場合だ。
ダイゴスやレノーレのように遠方の異国などから学院へ編入している者は、遠すぎて週末の安息日では帰ることができないのだが――
「……しばらく、学院には戻らないと思う」
「え? そうなん? またえらい急だな……」
「……同感。……昨夜手紙が届いて、少し帰らなければいけないくなった」
「そうなのか……。ベル子たちには話したのか?」
「……今朝、ベルにだけは話した。……他の皆にはベルから話してもらうつもり」
「そっか……。気をつけて行ってこいよ」
レノーレがこくりと頷き、それきり会話が止まる。
「……」
「……」
流護自身が口下手なこともあって、レノーレとの会話ではこうした妙な間が生まれることが多い。というより、彼女と喋る機会そのものが滅多にないのではあるが。
さて、このまま黙っているのも気まずい。それじゃあこれで、と踵を返してしまうのも素っ気ない気がする。
(えーと、他に……何か、言うことは……)
ない知恵を絞り、流護は話を続けようと努力した。
「おお、そうだ。いつぐらいに帰ってくるんだ?」
「……分からない」
「そうか……」
「……そう」
「……」
「……」
「まあ……あれだよ、もし困ったこととかあれば、力になるし……」
「…………」
あれ、俺は何を言ってるんだろう、とよく分からなくなってくる。少し的外れなセリフのような気もする。俺にラデイルさんみたいな話術がありゃあなぁ、とあの色男が心底羨ましくなる思春期の少年だった。
「……実は」
ポリポリと頭を掻いていると、レノーレが小さく口を開く。
「……実は、このまま学院には戻ってこられないかもしれない」
思わず流護は彼女の顔を凝視した。
一方のレノーレは変わらず無表情で、どこか試すように、
「……なんて言ったら?」
かすかに小首を傾げ、そんな風に疑問形を投げてくる。
「な、なんじゃそら」
面食らった流護だが、ややあってたどたどしく切り出した。
「いや……まあ、もしレノーレが妙なことに巻き込まれそうで、学院に戻りたいのに戻ってこれなくなるようなら……力になるぞ。んなことになりゃ、ベル子とかミアとか……皆が悲しむのは分かってるだろ? つか、ダイゴスん時みたいに、強引にでも連れ戻してやる」
「……そう」
「ああ」
はっきり頷くと同時、門の外――遥か丘の向こうから、一台の馬車がやってくるのが見えた。一分もかからずここまでやってくるだろう。
レノーレが呼んだもので間違いないようだ。遠目に確認した彼女は、話を終えるようにペコリと頭を下げて。
「……じゃあ、これから先の人生でそんなことがあったら、よろしくお願いいたします」
「つか、そうだ。何の用事で帰るんだ? 訊いても大丈夫か」
刻限が迫った今になって、そこへ至る。レノーレが妙なことを言ったおかげで、変な焦りが生まれたのかもしれない。
「……母が急病にかかったそうなので、お見舞いに」
「え、まじか……。そりゃ、ワリと大ごとだな……」
「……全然、問題はない」
そうして話すうち、馬車が到着した。
「……では、いってきます」
「お、おう。えーと……すぐ、戻ってくるんだよな?」
「……どうでしょう」
「ぬ、意外とレノーレって曲者だよな……。よーし分かった、もし妙なことになったら、そっちの国に乗り込んででも連れ戻しに行くから、よろしく」
「……意外と強引。……では、あなたにキュアレネーの加護があらんことを」
乗車室に乗り込んでいったレノーレが、窓からひょこりと顔を覗かせる。
手を振ってくる彼女に応えると同時、馬が威勢よく駆け出した。馬車はあっという間に、みるみる遠ざかっていく。
(レノーレって、なんつーか……変なヤツだよな)
クール系美少女かと思いきや、会話の端々にユーモアが垣間見えたりもする。
案外、素の性格は全く違ったりするのかもしれない。
そんなことを考えながら、敷地内へと引き返していく流護だった。
「……はぁー」
ガタゴトと揺れる馬車の中。レノーレの口からは、自然と溜息が零れ落ちる。
学院の誰かに聞かせたら、心底驚くような重苦しい響きだった。
「――ふふっ」
驚かれるなら、それは皆を偽っているということ。レノーレの本当の姿を、誰も知らないということ。何と滑稽な、馬鹿らしい、それでいて悲しい話だろう。
メガネを外す。流れゆく外の景色を、青い瞳で感慨もなく眺める。朱に染まり始めた遠方の木々、風に揺れる草花。故郷へ戻れば見られないそれらが、生き生きと色付いている。
そう。これらの景色が当たり前に感じるほど、この国になじんで。
重苦しい溜息が漏れるほど、帰還が億劫になった。
(ああ、そうか。私は、いつの間にか……)
今の生活を、気に入っているのだ。
その事実に気付き、自分でわずか驚く。
もちろん、故郷は……自分の生まれ育った国のことは心から愛している。
しかし。道を違えてしまった今のあの国に、かつての栄華は見る影もない。
特に、凋落の元凶となったあの男――安易な政策で国を滅ぶ寸前まで貶めたあの男については、思い出すだけで腸が煮えくり返る思いだ。今すぐ絞め殺してやりたくなってくる。
そんな中で、
『あら、あなたが今回の護衛さん? 随分と可愛らしいお嬢さんですのね。では、よろしくお願いしますっ』
敬愛し、忠誠を誓った自らの主である救国の英雄と。
『将来、王宮に仕える立派な詠術士になりなさい。母さんみたいにね』
己が人生の全てだと表現しても過言でない、愛する母親。
この二人だけが、今やレノーレの心の拠りどころであるといえた。
『何よ、うるさいわね。自慢のつもりなの?』
……嫌なことは、思い出さないようにして。
連鎖するように、顔が思い浮かぶ。
ベルグレッテ、ミア、クレアリア、ダイゴス、エドヴィン、エメリン、ステラリオ、アルヴェリスタ、マデリーナ……多くの級友たちの顔が。二年近くを一緒に過ごした、『仲間たち』の顔が。
そも、思っていなかった。そんな間柄の人間ができるなんて。
(……まいった。心が弱くなったのかな、私は)
『よーし分かった、もし妙なことになったら、そっちの国に乗り込んででも連れ戻しに行くから、よろしく』
そして同じように、浮かぶ。冗談じみた功績を叩き出し続けた、あまりに異質な存在すぎる、あの遊撃兵の少年の顔が。
「……私のことなんて、何も知らないくせに」
当たり前だ。何も話していないのだから。彼にも、ベルグレッテにも、ミアにも、誰にも。
そんな間柄なのに、心配してくれる。
「……変な人ね」
少女は小窓の外を眺める。泣きそうな顔がうっすらとガラスに映り込んでいた。




