元仔豚ちゃんは女神さまに誓う
「ねえ、最近よくぶつぶつとつぶやいているのは学校の勉強?」
「そう魔法の暗記。試験が近いんだ」
「あら大変なのね。暗記って、そこまでする必要があるの?」
「はは、とりあえず覚えるしかないからね。ちょっと聞き苦しくてもゆるして」
庭で水をまきながら、彼の声に耳をかたむける。変声期をむかえて、すこしかすれた声は低く、子守歌のようだ。
「『モエ・ロヨモ・エロ・ホノ・オヨ・モエ・ロヒノ・コー・マキア・ゲテン・マ・デコガ』」
あたしは噴き出した。
「やだ。ただの延焼促進の魔法じゃない。どうしてそんなに難しく唱えているの?」
「これ? でも学園で教わった通りだよ」
「聖女はそんな唱え方はしなかったはずよ。最近はあまり言葉の意味を教えないのね?」
「意味って? 意味があるの?」
ナルシスは目をまんまるく見開いた。その反応にあたしのほうが驚いてしまう。
もちろん言葉にはすべて意味がある。それを知らずに唱えていたら、起こせる魔法なんてほとんどカスミみたいなもの。なのに、かつて初代聖女がもたらした数多の魔法を、いまの貴族は意味もしらずに唱えているらしい。
「なんてこと……」
「女神さま?」
あたしは憤るままに、ナルシスと目を見あわせた。
「ゆるせないわ、あの子があんなにも頑張ってこの世界にもたらした『ことば』を忘れさるなんて」
かつて、この世界の人は弱かった。力と知恵をあわせ道具を持って文明を築いたが、突然現れた魔物と呼ばれるけだもの達に襲われたとき、対抗する手段はなかった。人は神に祈り、そして神は『かくあれかし』と唱えて、人にふたつのものを授けた。
魔力という種を人の中に蒔き、その種を咲かす存在として「彼女」をつかわせたのだ。
それが異世界の少女、初代聖女、ユリだ。
彼女は魔力を効率よく使う手段として「魔法」ということばを授けた。新しいちからを得た人は魔物を制圧し、世界の隅へと追いやることに成功した。そして魔力を持つ人たちは国をおさめる貴族となり、持たない平民たちを守りながら、国を発展させ、今に至る。
この世界の、ほんの五百年ほど前の史実だ。ここまではみな知っている。
だが、史実にのっていないこともある。たとえば魔法の由来となったのは、異世界の聖女の母国のことばや歌だということ。
そして異世界からたったひとり、この世界にやってきた少女は、世界中から感謝されたけれど、それでも癒せない孤独も抱えていたこと。
二度と戻れない故郷のこと、家族のこと。誰にも話せない悲しみをかかえた少女には、聞いてくれる存在が必要だった。だから、故郷の神さまを思い出しながら、みずから彫って、それをつくった。自分を勝手にここへ連れてきた神へのちょっとした反抗ともいえる。
『木彫りのかみさま、あたしのかみさま、ねえ、あたしのはなしをきいて』
手の脂で木肌が飴色になじむまで、毎晩毎晩、何年も彼女のことばを受けたそれは、やがてほんとうに神様になった。
それがあたしだ。
たったひとりのために生まれたあたしは、だから彼女の姿を模している。年を取る前の、多くの友と最愛の家族と知り合う前の、まだ孤独のなかにいた彼女の姿を。
そんな初代聖女の孤独と努力を知っているあたしにとって、彼女のことばの意味が失われていくのはたまらない。そう憤り、次になんだか悲しくなってしまったあたしに、ナルシスはそっと手を包み込むように握って、言ってくれた。
「だったら女神さまの知っていることをすべて、ぼくに教えて。誤って伝わってしまった魔法を、ぼくが正すよ」
と。真剣そのものの目で誓ってくれた彼に、あたしは嬉しくなって、思わずぎゅっとハグしていた。
それから。
あたしの薫陶をうけたナルシスの魔法はまたたくまに成長し――あたしに言わせれば、本来の姿を取り戻した。それこそ、学院をかきまわしていた「聖女」なんて、目じゃないくらいに。
そのせいだろう、あるときナルシスが襲われた。
ナルシスが負けるはずがない、卑怯な不意打ちじゃなければ。しかも、その女は目に見える攻撃魔法ではなく、呪詛魔法を放ったのだ。周囲に無力な平民たちが大勢いる、花祭りの日に。下手に避ければほかの人間がそれに冒されるとわかっていては、応戦しようもない。
呪詛がもたらす苦痛に脂汗を流しながら、なんとか屋敷に逃げ込んだ彼を、あたしは主寝室に寝かせた。彼が整え、あたしが魔法で維持していた清潔なベッドで、彼の碧い目は痛みより悔しさに涙ぐんでいた。
「ごめん、女神さま。せっかく教わったのに……」
「いいえあなたは十分頑張ったわ。いまは『おやすみなさい』。治療魔法をかけてあげるから」
屋敷から出られない女神にも、できることはある。
あたしは、青い顔で眠るナルシスの額をそっと撫でて、渾身のちからで魔法を唱えた。
『いたいのいたいの、おまえのあるべきばしょにとんでいけ!』
その後、花祭りの会場では、王子さまに媚を売って、王子様の婚約者に喧嘩を売っていた聖女が、とつぜん悲鳴をあげて倒れるという椿事が起きたそうだ。原因不明の痛みにのたうつ彼女を医者たちが精査したところ、彼女の力は魔力を強化する草によるもので、その髪も染め粉によるものだと判明したとか。
そのころ、あたしは目を覚ましたナルシスといっしょに、花祭りのランタンを飾り付けていた。きらきらひかるお星さまの下、花ざかりの庭はランタンのあかりでさらに白くかがやいて、ナルシスと手をつなぎながらそれを眺める。
それから。
ナルシスは学園を卒業するころにはその実力が広く認められ、魔法の研究機関に勤めることになった。
その日から、元仔豚ちゃんはあたしの屋敷に住むようになった。成長しきった彼は、どんどん大人になって、そしてあたしはだんだんと自分の姿が永遠に変わらないことをすこし気にするようになった。けれど、大人になったユリの姿を模ろうとするあたしを、彼は止めた。
「ぼくの女神さまは初代聖女さまじゃないよ、あなただ」
と。だからあたしはこのままの姿でずっと彼の女神として彼のそばにいることにした。
それから。
それからもずっと彼はこの屋敷で暮らした。誓い通り、魔法を正しく伝えるための研究と仕事にまい進して、上司からのお見合いを蹴って、実家に縁を切られても誰とも添わずに。ひとりでずっと、にこにこと、あたしのこの屋敷で暮らした。そして。
「ねえ、女神さま」
主寝室の寝台に寝たきりになった彼は、そう言いながら右手をのばして、あたしのほおに触れた。すでにその外見は、父と娘どころか、祖父と孫娘ほどに離れている。銀色だった彼の髪も、もうすっかり真っ白だ。碧い目は深いしわの中にうもれていて、それでも優しくあたしを見つめている。
「あなたは、ぼくにすべてをあたえてくれましたね」
ありがとう、と囁く声にあたしは首を振る。
「ナルシス、あたしはなにもしていないわ、ただお話をしただけ。考え、学び、動いたのは、あなたよ」
「でも、すべて、あなたが導いてくれたんです」
かすれきった声は穏やかで、けれど弱弱しいものだった。あたしは、とうとうその時が来たことを知った。だったら、いままでどうしても教えられなかった、あの言葉を教えなければならない。心安らかに別れるための魔法を。そうあらねばならないのなら、と。
『さようなら』と。
「ねえ、ナルシス――」
「あのね、女神さま」
けれど覚悟を決めたあたしのことばを、ナルシスはさえぎった。
「ぼく、女の人の手を握ったこともないんです」
「え?」
碧い目がいたずらっぽく笑う。
「神さまに永遠に添うなら清い身でいないといけないとおもって。だから、いいですよね?」
そして彼は息を引き取る、のではなく、ただ、ゆっくりと肉体を脱ぎ捨てた。あらわれたその魂は青年期の、あたしと似合いの姿だ。銀色に輝く髪は頭の後ろで結ばれて、碧い眼はすっきりとあたしを見つめていた。
『ナルシス』
『ぼくの女神さま。やっとあなたと一緒にいられます。さあ、受け取って』
指輪のはまった手で、自分のかつての肉体から木彫りの指輪を抜いた彼は、それをあたしの左の薬指にはめる。魔法で取り出した、かつての白い花冠を、あたしの頭にのせる。
『あいしてます、ぼくの女神さま』
とろけるように甘くて熱いそのことばに、返すものはひとつしかない。だからあたしは、ことば以上の熱を伝える口づけで、彼に応えた。
ほっと顔をゆるめて笑う彼に、あたしは思わず笑ってしまった。面白くて、懐かしくて。どうしたのよ、仔豚ちゃん。
『まさかこの期に及んで断られるとは思ってないでしょうに』
『でも、あなたは女神さまだから』
なんて言う愛しいひとに、あたしはまた一つ真実を教えてあげた。
『あら、聖女だって恋をしたのよ? 女神だって人を愛することはあるわ』
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その国には、誰も住んでいないのに、なぜか美しく姿をたもつ屋敷があった。その庭には季節を問わず真っ白い花が咲き続け、そして、その下には、小さな木の指輪と木彫りの像が埋められていた。