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34:ひとつの卒業

「あれ。所長?」


 帰り支度を整えて、事務所を出る。廊下にいたのは先に出ていたはずの桐生さんではなくて、いつぞやの高校生のような姿の所長だった。

 もしかして、桐生さん。余計極まりない気を回したのではないだろうな、と。疑惑を抱いていると、所長が口を開いた。


「代わった。あいつ、右足やられてたからな」

「え……?」

「おまえが気にすることじゃない。あいつのミスだ」

「で、でも」

「仮におまえに原因があったとしても、おまえの教育係はあいつだ。おまえが犯したミスも含めて、責任はあいつだ」


 そう言われてしまえば、あたしには返す言葉がない。

 というか、ぜんぜんそんなふうに見えなかったのに。所長は「仮に」と言ってくれたけれど、間違いなく原因はあたしだ。思い当たる節が多すぎて黙り込んだあたしに、所長が溜息交じりに付け足してくれた。


「本当にたいしたことはない。医局に叩き込むのに苦労したくらいだ。おまえが次に出てくるころには治ってる」

「……だったらいいんですけど」

「だから気にするな」


 はい、とは言いにくかったけれど、これも一つの教訓とすることにして、あたしは頷いた。

 だから所長、現場にやってきた瞬間に、「この馬鹿」呼ばわりしたのかなぁ、とも疑いながら。


「そもそもとして、おまえたちふたりになにかあれば、責任は俺にある。そういう意味で言えば、あいつの怪我は俺の責任だな」


 「所長」だもんなぁ、と思って、ふと桐生さんの先ほどの台詞を思い出した。紅屋を大事にしているって、つまり、こういうことでもあるのかもしれない。


「あいつは嫌がるだろうが」

「たしかに。嫌がりそうですね」

「嫌がっていればいいんだ。次からしないようになるだろう。あいつは昔から無駄に年上風を吹かせたがる」


 所長がそんなふうにあたしに桐生さんのことを話すのははじめてで、もしかして、あたしの存在を少しは認めてくれたのかもしれないなと思った。


「送っていく」


 話を打ち切って壁から背を離した所長を、あたしは気が付いたときには引き留めてしまっていた。


「そういえば、あの」

「なんだ?」


 あたしの呼びかけに、所長は律儀に脚を止めて視線を合わせてくれる。所長だなぁ、と思った。聞きたいことはいくつもある。どうでもいいようなことも、知りたいなぁと思うようなことも。


 ……これから、いくつでも聞いていったらいいのだろうけれど。でも。


 研修生見習いから研修生になって、紅屋にいることを正式に許されて。このタイミングで最初に聞きたいことは、この一ヵ月の一番の疑問かな、と決めた。


「桐生さんと所長っておいくつなんですか」

「なんだ。気になるなら調べたらすぐにわかっただろう」


 いささか唐突だったはずのそれにも、所長の声は「そんなことか」と言わんばかりだった。聞いたら答えてくれるよ。勝手に壁を作っていたあたしに教えてくれた桐生さんの言葉を思い出しながら、眉を下げる。


「いや、それはちょっと、さすがに」

「あいつが二十七で、俺が二十五」


 あっさりと告げられたそれに、あたしは内心ほんの少し驚いていた。ある程度の予想はしていたけれど、それでもやっぱり思っていた以上に若い。というか、あたしと五歳しか変わらないとか。


「ちなみに、おいくつのときにライセンスを取得されたんですか?」

「十五」


 それは、なんというか本当に規格外だった。所長も育成校の出身じゃないのだなとも改めて知る。そして、この人も本当に子どものころから実戦の真っただ中にいたのだな、とも。


「じゃあ、十歳のころから、もう鬼狩りとして実践に出ていたんですか」


 それは、あたしの日常が崩されたのと同じ年だった。


「珍しい話じゃない。特に俺や桐生のような、古い家の出身者には。最近は、育成校に行かせる親もそれなりに多いが、自分の家の術式に拘るところもやはり多いしな」

「所長もお家で学んだんですか」

「いや、……俺は、紅屋で育ててもらった」


 御三家の「天野」なのに? との疑問をあたしは寸前で呑み込んだ。聞いてはいけないこと、というものも間違いなくある。答えてくれるから、あたしが知りたいから、で、よしとしてはいけないものが。

 だから「そうなんですね」と、応じるに留めた。桐生さんの言っていた紅屋の先代。所長の叔父だという人が所長を育て上げたのだとしたら、それは十分に所長が紅屋を大切に思う理由になると思う。


 ……どんな人なんだろう。自然とあたしは想像を張り巡らしていた。後を譲ったということは、もう現役を引退されているのかもしれないけれど。いつか逢えたらいいな。そんなことを考えていると、ふいに所長の口から懐かしい名前が飛び出した。


「佐原恭子が言っていた」

「え? 恭子先生が?」

「同期なんだ。俺の。といっても、あっちのほうがいくつも年は上だがな」


 同期というのは、きっとライセンス取得時なのだろうと理解した。所長は育成校出身ではない。けれど、ライセンス取得が同期であれば、研修などで顔を合わすこともあったのだろう。


「昔からまぁ、いいやつではあったが、あまり『鬼狩り』には向いていなかったな。あいつは優しすぎるきらいがある」

「……」

「だから、早々に現役に見切りを付けて、育成校の教師になると聞いたときは、似合っていると思った」


 その言葉に恭子先生が教壇に立っていた姿を思い出した。恭子先生は、厳しいけれど、優しい先生だった。あたしたち生徒に親身になって向き合ってくれる、素敵な先生。


「あいつは、俺と違って人を育てるのに向いている」


 どこか自嘲じみたそれに、あたしは思わず首を傾げてしまった。そんなこと、ないですよ。あたしが言う台詞をわかっていたかのように遮って、所長が言葉を続けた。


「その佐原がな、……まぁ、これは偶然だったんだが、おまえの指導教官だっただろう。俺がおまえを採りたいと言ったときに、わざわざ電話を寄こしてきた」

「え……?」 

「おまえの二つ名は、おまえの新しい門出への花向けだったと」


 あなたに幸運があるように祈っているわ、とほほえんだ恭子先生の顔が脳裏に浮かんだ。


「あまりにインパクトがあったから目に付いたと桐生も言っていただろう、そういうことだ」


 少しでも多くの人の目に留まりますように。記憶に留まりますように。誰にでも愛してもらえますように。たくさんの人に出逢って、最愛の人を見つける間口が広がりますように。

 あなたの人生に、たくさんの幸運が舞い降りますように。


「恭子……先生……」

「あいつがおまえの教師で、よかったな」

「あたし、この二つ名で良かったです」

「そうか」

「本当に、よかったです」

「泣くなよ」

「っ、泣いてません」


 そうは言ったけれど、あたしの瞳からは大粒の涙が零れ落ちていて。困惑した顔であたしを見下ろしている所長には申し訳なかったけれど、なかなか止まりそうになかった。

 おもむろに所長の手が持ち上がって、ぽんぽんとあたしの頭を撫ぜた。桐生さんのように慣れていない、ぎこちない動き。力をどれだけ抜けばいいのか測りかねているようなそれが、けれど、たまらなく優しくて、気が付けば、あたしの涙はますます止まらなくなってしまっていた。


 恭子先生。

 お父さん、お母さん、瑛人。

 桐生さん。――そして、所長。 

 あたしは紅屋に配属されてよかった。本当に、本当に、よかった。



 ――なぁ、フジコちゃん。


 パソコンを閉じた後、部屋を出る前。桐生さんはそう言って笑った。

 この一ヵ月をここで過ごして、多少は僕らのことがわかったと思うんやけど、と。

 どこか悪戯に。


 ――あの蒼くんが、二つ名が面白いからっていう理由だけで、フジコちゃんを選んだと、本当に思う?


 十年前。所長はもう鬼狩りのライセンスを取得していた。あの声と真摯な態度をあたしは忘れたことはなかった。


「あの、所長」


 涙をぬぐって、あたしは顔を上げる。


「ありがとうございました」


 今度こそ怪訝な顔を所長はしたけれど。お構いなしにあたしはもう一度繰り返した。


「今夜の礼なら、俺より桐生に言うべきだと思うが」

「もちろん、桐生さんにも言いました。でも、所長にも言いたかったんです」


 なにを、とは言わずに笑う。「そうか」と所長は素っ気なく言っただけだったけれど、それで十分だった。

 赤と青の世界にあたしは立っている。希望と恐怖と、様々な感情の上に成り立つ世界に。この人たちと同じところに立てていることが、幸せだと思った。

 外はきっと、まだ星がきらめいている。


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