決闘が始まろうとしている
わかったよ…私は何事にも遅すぎるんだ。もう死にたい!私はバカだけど、同時に世界一の作家でもある。
目の前に広がる光景は、にわかには信じがたいものだった。
二人の戦士が、互いの武器に手をかけられる距離で対峙していた。どちらも、わずか一寸たりとも動こうとはしない。ほんの些細な動き、かすかな身じろぎ。それだけで、夜の静寂が戦場へと変わりかねないほどの緊張が、その場を支配していた。
ランスロットは片眉を上げた。
「あなたほどの征服者が、私のマスターを始末するために卑劣な手段を用いるようなことはないと、信じたいものですね」
ディケロスの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていった。それは次第に大きくなり、やがて抑えきれぬ歓喜を湛えた笑みへと変わる。
「フフファファファ! いやいや、そんなことはしないとも! 我がマスターから、貴様のマスターを殺せなどという命令は受けていないからな! 今宵、この身は何者にも縛られず、全力をもってこの世界に力を解き放ち、貴様を打ち倒すことができるのだ!」
彼の哄笑が、果てしなく広がる夜の静寂に響き渡った。
それは、宣戦布告だった。
彼らほどの存在が本気でぶつかり合えば、その衝撃は彼らの生きる世界そのものを揺るがしかねない。もし、この先に起こる出来事を目撃する者がいれば、その一件は瞬く間にニュースの速報として報じられることだろう。軍隊もまた、戦闘を鎮圧すべく出動するに違いない。しかし、そこで彼らが目の当たりにするのは、常人の武器など、このような戦士たちの前ではほとんど役に立たないという、あまりにも残酷な現実だった。
それでも、今のところ夜は静けさを保っていた。
目撃者はいない。介入する者もいない。二人の間に立ちはだかる者は、誰一人として存在しなかった。
ディケロスの視線が、まなかへと流れた。
彼女の胸が、きゅっと締めつけられる。
突如として恐怖に襲われた彼女は、思わず一歩後ずさった。
その笑みを知っている。
その眼差しを覚えている。
ディケロスに殺された記憶。それは、時間のループを繰り返す中で経験した、過去の周回における出来事だった。それでも、その記憶は今なお鮮明に残っている。
世界にとって、彼女の死など一度も起こらなかった出来事にすぎない。
だが、まなかにとっては違った。
彼女は何度も、何度も死を経験してきたのだ。
その経験が残した傷跡は、誰の目にも映らない。彼女自身を除いては。
そして今、そのすべての原因となった男が、まるでそれらを取るに足らない愉快な思い出とでも思っているかのように、彼女を見つめていた。
「心配することはありません、お嬢さん」
ランスロットの声は静かだった。囁くような、穏やかな声だった。
「敵を前にして、足を震わせてはなりません。恐怖とは、生と死の双方にとっての敵です。それに立ち向かえなければ、いずれ身を滅ぼす原因となるでしょう。ですが、恐怖を前にしてなお立ち続けることができるのならば、そこから別の何かが生まれることもあるのです」
彼は、ほんのわずかに間を置いた。
「勇気。そして、希望。あなたを傷つける者は、この私が決して許しません」
その言葉は、彼女を安心させるはずのものだった。
実際、ある意味ではそうだったのかもしれない。
ただ、一つだけ問題があった。
ランスロットは、まなかがこれまで何を経験してきたのか、何一つ知らなかったのだ。
彼女が何度死んだのか。何度、世界が自分に牙を剥く光景を目にしたのか。そして、それぞれの死の記憶がどれほど深く心に刻み込まれているのか。
彼には、そのどれもわからなかった。
自分が彼女に何を求めているのかさえ、理解していなかった。
どうして、わかるはずがあっただろう。
まなかにとって、恐怖とは単に克服すべき障害などではなかった。
それは、彼女がこれまで生き延びてこられた理由そのものだったのだ。
恐怖があったからこそ、彼女は慎重になれた。危険を察知できた。そして、すべてがあまりにも静かで、何事もなく過ぎていくように思える瞬間にこそ、警戒を怠らずにいられた。
恐怖がなければ、彼女はとうの昔に命を落としていたかもしれない。
恐怖は、必ずしも生き延びるための敵ではない。
時には、それこそが生き延びるということなのだ。
もしかすると、ランスロットの言葉は、そもそもまなかに向けられたものではなかったのかもしれない。
もしかすると、彼は自分自身に言い聞かせていたのだろう。
征服者を前にして、これほどまでに堂々と立つ老騎士でさえ、恐怖と無縁ではいられなかった。ディケロスをどう評価していようと、彼の心のどこかでは、目の前に立つ相手がどれほど危険な存在であるかを理解していたのだ。
まなかもまた、それを理解していた。
彼女はまだ未熟な魔術師にすぎず、戦いの経験も乏しい。それでも、二人の戦士の間に漂う緊張が、これまで目にしてきたものとはまるで違うことくらいは感じ取れた。
まるで世界そのものが息を呑み、どちらかがその息を吐き出す瞬間を待っているかのようだった。
これは、ありふれた対峙などではない。
ガイアの異なる時代から現れた、二人の戦士による最後の邂逅だった。
二人の歴史上の人物。それぞれが、とうの昔に失われた世界の誇りを背負っている。
征服者。
そして、聖なる王。
今宵、勝者となるのは、そのうちの一人だけだった。
「私は大丈夫です!」
勇気が逃げ去ってしまう前に、まなかは無理やり声を絞り出した。
ランスロットを弱気にさせるわけにはいかなかった。何度も繰り返される時間の中で、彼女を苦しめ続けてきたあの怪物から、自分を守るために立ちはだかってくれているのだから。
「あなたのほうが強いです、ランスロット。きっと勝てます。私はあなたを信じています!」
彼女は息を吸い込んだ。
「私を守るのがあなたの役目でしょう? だから、最初から負けたような顔をしないでください! あなたは騎士なんですから!」
一瞬、ランスロットは意表を突かれたようだった。
だが、やがて彼の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「ふむ。どうやら、覚悟は決まったようですね」
しかし、まなかが返事をするよりも早く、二人の戦士は再びディケロスへと意識を向けた。
ほんの一瞬、彼がそこに立っていることを忘れていたかのようだった。
だが、本当に問われるべきことは、まだ残されていた。
「どうして、私たちが話している間に攻撃してこなかったんですか?」
まなかは尋ねた。
「ずっと黙って立っていたのは、何のためだったんですか?」
彼女の好奇心が、ほんの少しだけ恐怖を上回ったのだ。
ディケロスは彼女を見た。
「貴様が立ち去るのを待っていたのだ」
「……え?」
まなかの顔に、困惑の色が広がった。
しかし、ランスロットは驚いた様子を見せなかった。
ディケロスは両腕を広げ、空を仰ぐように頭を傾けた。
彼の頭上には満月が浮かんでいた。
ほかに何もない夜空の中で、月はただ一つ、見事なまでの輝きを放っている。その淡く銀色の光が、戦場を静かに照らしていた。
今この瞬間、ディケロスは生まれて初めて、戦いの掟を破ろうとしていた。
マスターから戦闘を禁じられていたからではない。
介入する機会がなかったからでもない。
彼自身が、これまで守り続けてきた掟を破ろうとしていたのだ。
戦士たる者、日が沈んだ後に戦ってはならない。
それこそが、彼が長きにわたって従い続けてきた法だった。
夜の闇は、彼を戦場から遠ざけてきた。たとえ介入できる機会があったとしても、彼はその掟を破らなかった。
だが今宵、月に見守られながら、彼は長年守り抜いてきた信条を捨て去ろうとしていた。
「天よ、どうかお許しください」
彼の声は、先ほどまでとは打って変わり、静かで、どこか敬虔な響きを帯びていた。
「これより、あなたの子は、戦いにおける最古の掟を破ろうとしております」
祈りは短かった。
やがてディケロスは顔を下ろし、ランスロットをまっすぐに見据えた。
「騎士のマスターよ、この戦場から立ち去れ」
その声には、依然として揺るぎない威厳が宿っていた。
「この決闘は、二人の王だけのものだ。皇帝と聖王。貴様がここに居合わせる理由はない。我らの戦いと、貴様を結びつけるものなど何一つないのだからな」
彼はまなかを指さした。
「ここからできる限り遠くへ行け。そして、自らの目的を果たすがいい。目的地にたどり着けば、我がマスターと顔を合わせることになるだろう」
彼の唇に、かすかな侮蔑の笑みが戻った。
「貴様の実力に見合った相手と戦うほうが、よほどふさわしいというものだ。我がマスターは臆病者かもしれんが、それでも生まれながらの魔術師ではある。ならば、貴様にも相手が務まるだろう?」
まなかは呆然と彼を見つめた。
本気で言っているのだろうか。
「本当に、私に行けって言うんですか?」
彼女には、どうしても信じられなかった。
「だって、私がアロを見つけたら、捕まえてあなたとの契約を解除させることだってできるんですよ? 契約がなくなれば、あなたは消えてしまうんでしょう? そうなったら、あなたの決闘にも支障が出るんじゃないんですか?」
どう考えても、筋が通らなかった。
彼女を立ち去らせることは、ディケロスにとって大きな不利益になるはずだった。
もしまなかがアロを見つけ、契約を断ち切ることができれば、彼がこの世界に存在し続けることさえ危うくなる。しかも、ディケロスがランスロットと戦っている間なら、彼女にはその目的を果たす絶好の機会がある。
まなかには、彼がそんな危険を冒す理由がまるでわからなかった。
何かを隠しているとしか思えない。
ディケロスは、くつくつと笑い始めた。
「なぜか、と?」
「それはな――」
彼はまなかの言葉を遮った。
「我がマスターの性格が突然変わってしまったことは、実に気に食わん。だが、それでも私は、あの男がどのような人間なのかを知っている」
その表情には、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
「確かに、あの男は魔術師だ。だが、それ以前に、あの男は臆病者なのだ。おそらく、貴様が思いもよらぬ場所に身を潜めていることだろう。貴様があの男を見つけ出す頃には、この戦いもすでに終わっているはずだ」
彼は再び笑った。まるで、この状況そのものが愉快で仕方がないとでもいうように。
その傲慢さは、耐え難いほどだった。
だが、それ以上に不気味なものがあった。
ディケロスは、ただ自分の力に自信を持っているわけではない。
まなかが何をしようと、この決闘の結末に何の影響も及ぼせないと、心の底から確信しているようだった。
ランスロットは、そっと彼女の肩に手を置いた。
「お嬢さん、行きなさい」
彼女は振り返った。
「一刻も早く、彼を見つけられることを願っています。それに……」
彼の笑みが、ほんの少しだけ深まった。
「たまには私にも、存分に楽しませてください。まなか」
彼女は言葉を失った。
こんな表情を見たのは、初めてだった。
これまで彼女が見てきたランスロットの瞳には、彼女には想像もつかない過去の記憶が、重くのしかかっているように思えた。
その眼差しから疲労が消えたわけではない。戦いに明け暮れた生涯が残した傷が、なくなったわけでもなかった。
それでも今、その古い瞳には、紛れもない高揚が宿っていた。
ほんの一瞬、まなかの目には、もはや勝ち目のない敵に立ち向かう、傷ついた男の姿は映らなかった。
そこにいたのは、一人の騎士だった。
己の誇りを懸けるにふさわしい戦いを、ついに見つけた戦士だった。
「危難にある者を守れ。女性を、自らの母に接するように大切に扱え。そして、決闘を申し込まれたならば、決して背を向けるな」
ランスロットの手が、彼女の肩から離れた。
「それが、私の生きてきた信条です」
彼の血が、熱を帯び始めていた。
年老いた肉体の中を血が巡り、長い間忘れていた高揚を呼び覚ましていく。
その感覚は、彼にとって久しく味わっていなかったものだった。
向かいに立つディケロスもまた、同じ昂ぶりを感じているようだった。征服者の笑みは鋭さを増し、その全身から、これから始まる戦いへの期待があふれ出していた。
もはや、二人の間に言葉は必要なかった。
互いに理解していたのだ。
これは、単なる憎しみから生まれた戦いではない。
ただ力を競い合うだけの戦いでもない。
それは誇りと理想、そして時代を超えて彼らの存在を定義し続けてきた信条同士のぶつかり合いだった。
一人は、天の下に覇を唱えた皇帝。
もう一人は、騎士の掟に生涯を捧げた聖王。
そして満月の下、二人の道は、ついに交わった。
まなかは二人を見比べた。
本当は、ここに残りたかった。
ランスロットの姿を目に収めていたかった。これから始まる戦いを、最後まで見届けたかった。彼が無事に生き残ることを、自分の目で確かめたかった。
これまでの経験を思えば、また一人、大切な人を失うかもしれないという考えは、耐え難いものだった。
それでも、ここに残ったところで、彼の助けにはなれないことを彼女は理解していた。
彼女自身にも、果たすべき戦いが待っている。
アロは、まだどこかにいる。
そして、もし彼を見つけられなければ、ランスロットが勝利したとしても、すべてが無意味になってしまうかもしれない。
まなかは拳を握りしめ、無理やり身体を翻した。
「どうか……無事に戻ってきてください」
気づけば、その言葉が口からこぼれていた。
彼女は返事を待たなかった。
月明かりの下に立つ二人の戦士を、最後にもう一度だけ振り返る。
そして、自分を守ると誓ってくれた騎士にすべてを託し、まなかは戦場を後にした。
彼女の背後では、ランスロットとディケロスが、依然として動かずに立っていた。
二人の戦士。
二人の王。
忘れ去られた時代から蘇った、二つの伝説。
再び、静寂が訪れた。
だが今度は、それが長く続くことはない。
この章をお読みいただき、ありがとうございました!SodaKun Out ☆!




