第四十話 準備
朝のギルドはすでに動いていた。
扉を開けた瞬間、ざわめきが耳に入る。掲示板の前には人が集まり、依頼の紙を見上げながら何人かが話し込んでいる。受付の前にも列ができていて、精算を待つ冒険者が並んでいた。
氾濫から数日が経っている。
街そのものは、もう動き出していた。市場も開いているし、荷車も通りを行き交っている。ギルドの中も、表面だけ見れば普段と変わらない。
だが、会話の端々にはまだあの出来事が残っている。
「あの数は異常だった」
「騎士団が来なかったら全滅だったな」
そんな声が、小さく混じっていた。
俺はそのまま受付へ向かう。
カウンターの向こうで書類を整理していたリシアが顔を上げた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
挨拶を返すと、リシアはそのまま話を続ける。
「ゴブリンダンジョンは現在閉鎖されています」
短い説明だった。
「騎士団による安全確認が終わるまで、立ち入りは禁止です」
大氾濫と、ボスの徘徊。その影響が残っているのだろう。
俺は頷いた。
「代わりはありますか」
リシアはすぐに答えた。
「モルディア旧坑になります」
名前は聞いたことがある。
「廃坑型のダンジョンです。通路は狭く、小型の魔物が中心になります」
そこまで言ってから、リシアは少しだけ言葉を足した。
「ただし」
視線がギルドの奥を軽く示す。
「同じことを考える人は多いので」
「中は少し人が多いかもしれません」
危険だとは言っていない。単に、状況の説明だった。
俺は頷く。
「分かりました」
受付を離れ、ギルドを出る。
外の空気はまだ少し冷えていた。朝の通りには人が動き始めている。荷車の音、店を開く音。街は普段の流れを取り戻しつつあった。
門へ向かう途中、訓練場の方に目を向ける。
柵の向こうで、数人の冒険者が武器を振っていた。その中に見覚えのある背中がある。
グランだった。
斧は持っていない。代わりに短い木棒を片手で振っている。左腕はもうないが、体の動きは止まっていなかった。
こちらに気づくと、グランは動きを止める。
「潜るのか」
「はい」
短く答える。
「……今日はグランさんはどうするんですか?」
俺がそう聞くと、グランは木棒を肩に乗せた。
「三日は潜らん」
あっさりした口調だった。
「斧が戻るまでは体を慣らす」
俺は頷いた。
「……行ってきます」
グランは軽く手を上げただけだった。
そのまま街の門を抜ける。
モルディア旧坑は、王都近郊のダンジョンの一つだ。廃坑だった場所がそのままダンジョンとして定着している。入口の岩壁には古い支柱の跡が残り、坑道の口は暗く沈んでいた。
入口の周囲には何人かの冒険者がいる。
ゴブリンダンジョンほどではないが、普段より多い。やはり流れてきているのだろう。
俺はそのまま坑道へ入った。
中は湿っている。空気は少し冷たく、岩の匂いが鼻に残った。天井は低く、通路は曲がりくねっている。ゴブリンダンジョンとはまるで違う構造だった。
奥へ進むと、すぐに魔物が現れる。
洞窟ラット。
小型だが動きは速い。
足を止め、地面に意識を向ける。足元の土がわずかに崩れ、ラットの動きが一瞬だけ鈍る。その隙に踏み込み、短剣を振る。
刃は問題なく通った。
魔石が転がる。
拾い上げながら、短剣を軽く握り直す。
昨日買ったばかりの武器だ。魔力を通しやすい素材が使われているらしい。確かに、土魔法を使うときの感覚は少し違う。流れが、わずかに安定している。
ただ、それだけだ。
劇的な変化ではない。
そのまま通路を進む。
岩トカゲが現れ、もう一度戦闘になる。動きはゴブリンとは違う。距離の詰め方も、足場も違う。
だが、問題はない。
土を崩し、動きを止め、短剣で仕留める。
同じ流れで終わる。
魔石を拾い、袋に入れる。
通路の奥では、別の冒険者が戦っている音が聞こえた。やはり人は多いらしい。だが、取り合いになるほどではない。
しばらく潜り、戦闘を繰り返す。
魔石の重みが少しずつ増えていく。
ゴブリンとは違う魔物だ。動きも、地形も、戦い方も違う。
それでも。
対応できない相手ではない。
袋の口を閉じ、通路の先を見る。
もう少し潜ることもできるが、十分な量は集まっている。
俺はそこで引き返した。
坑道を戻り、外へ出る。
外の光が、少しだけ眩しかった。




