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律ちゃんはエレベーターを降りると、医務室の前まで送ってくれた。
「それじゃ、俺はそろそろノンカード組の方に行かなきゃならないけど、ここからはひとりで大丈夫か?」
心配そうにそう訊かれて首を横に振れるほど、私は子供じゃない。
「大丈夫だよ。不安はあるけど、頑張る」
律ちゃんはほんのりと眉を動かしたけれど、「そうか」と満足そうに目を細めた。
そしてぽん、と頭に軽く手を乗せてくる。
「ユキのそういう前向きなところ、好きだよ」
かっこいい律ちゃんがかっこいい声でそんなことを言ってきても、幼馴染みの免疫がある私は今さら動じない。
さっき頬を触れられたり耳元で囁かれたりしてドキリとしてしまったのは、魔法のことでいつもと違う空気感に包まれていたせいだ。
だいたい、律ちゃんのこの ”好き” は、恋愛度皆無なのだから。
もちろん、私だって律ちゃんに恋愛感情を持っているわけじゃないし。
だから私は「子供扱いはいい加減やめてよね」といつものごとく反論してみせた。
けれど、その口調も律ちゃんの腕を払う仕草も、すべてが律ちゃんには子供っぽいと見えてしまうんだろうな………と諦めてはいる。
まあ実際に五つも年下なのだからしょうがないけど。
律ちゃんは反論してきた私に「ごめんごめん」と楽しそうな笑い声をあげてから、
「じゃあ、行くよ」
と、名残りを感じさせずに私の頭から手を離した。
「おじさんとおばさんに連絡するなら、今のうちにしておいた方がいいよ。あのホテルは本当に一般の電話はつながらないから」
一般ではない電話は通じるのだろうか……
そんな考えが過ったけれど、私は少し迷ってから、
「………やめておく」と答えた。
「今は何て話せばいいかわからないから。そのかわり、帰ったらたくさん話すと思う」
律ちゃんは私の返事が予想通りだったのか、短く「そうか」と呟いた。
「それじゃ、くれぐれも無理のないように。ユキの心と体の健康が何より大事なんだから。いいね?」
「わかってる」
なによりも、自分最優先。
律ちゃんとの約束だ。
「自分を大事にする。約束は守るよ」
「よし。それじゃ中に入って」
律ちゃんは私が医務室の中に入るまでを見届けたいらしい。
私は律ちゃんに心配かけないように、「うん」と笑顔で頷き、扉を開けた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
律ちゃんが右手を小さく振ったのを視界の端で確認してから、私は医務室の扉をパタンと閉めた。
さあ、ここからは律ちゃんのいない時間がはじまるのだ。
律ちゃんの不在を胸に刻み込み、私は、自分の足と意志で一歩を踏み出したのだった。
※
「おや、戻ってきたのじゃな」
真っ先に声をかけてきたのは、デスクで書類に目を通していた瑠璃子さんだった。
「はい。ただ今戻りました」
「他の者達は食事をしておったようじゃが、そなたは腹は減っておらぬのか?」
「そうですね、あまり……」
「まだ腹が痛むのか?」
「いえ、そうじゃありませんけど、ちょっといろいろはじめて聞く話ばかりで、なんだかお腹もいっぱいなんです」
「ふむ。そうか。ならば…………おや?」
瑠璃子さんが書類をデスクに放り投げ、身を乗り出してくる。
「……なんでしょうか?」
じっと熱い視線を投げてくる瑠璃子さんにたじろいでいると、瑠璃子さんは「ふむ」と腑に落ちたような呟きをこぼし、デスクチェアに身を戻した。
「そなた、心の臓が音を変えたようじゃな」
「心の臓……ですか?つまり、心臓のことですよね?」
「そうじゃ?そなたの心の臓の音が、ここを出た頃よりもまいるどになっておる。緊張感が除けたせいやもしれぬ。あの幼馴染みとは良い話し合いができたようじゃな」
デスクに肘をつき、ニッと口角を上げた瑠璃子さんに、私は「そうですね。良い時間を持てました」と素直に答えた。
「ふむ。そのようじゃな。さっきとはまるで別人じゃ。すいっちが切り替わったかのごとくな」
「え……?」
スイッチ、という言葉に若干の過剰反応を示してしまうも、すぐに会話を繕った。
「…でも、心臓の音まで聞こえるなんて、すごいですね」
素直なままにそう感心を伝えると、瑠璃子さんはまた書類に手をやりながら横目で私を見上げてくる。
「便宜上 ”音” と言っておるだけで、なにも真に音が聞こえるわけではない。ただ、感じるのじゃ。そなたは己の力については巧みに隠しておるようじゃが、心の臓は無防備のままじゃな。実に感じやすい。真に正直者じゃ」
力が強いとか、隠しているとか、心臓の音とか、瑠璃子さんの言っていることはどれもこれもピンとこないけれど、最後の ”正直者” というフレーズだけは、今日だけでも似たようなことを紫間さんからも律ちゃんからも告げられていた。
「自分では、全然わからないんですけど………」
まさにここでも正直に返すと、瑠璃子さんは手持ちの書類を引き出しにしまい、デスクに両肘をついて正面から私と目を合わせてきた。
まっすぐに。
「そなたはにゅーかまーなのじゃから、赤子のようなもの。なにもわからぬで当たり前じゃ。わからぬことはこれから学んでいけばよいだけのこと。なに、そこで偉そうに振る舞っておるあの男とて、はじめはそなたと同じにゅーかまーであったのじゃからな」
瑠璃子さんが目で指したのは、奥にあるソファで他の二次試験参加者たちと談笑している紫間さんだった。
MMMコンサルティングの社員、つまり魔法使いは年を取るスピードが遅いのだから、紫間さんの実年齢がいくつなのかは推し量れない。
でも、瑠璃子さんの言い方からは、紫間さんの方が若手のようなニュアンスを感じた。
すると、私達の視線を察したのか、急に紫間さんがくるりとこちらを向いたのだった。




