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15/15

ep.15

 ニンの口から平坦で間延びするような、緊張感の無い音が漏れ出す。しかし彼女の表情は、呆然としていた先程までとは明らかに違う。深くシワの刻まれた顔色が異様に白い。血の気が完全に抜けている。唇は紫色に近く、生気を感じない。


 整った顔立ちに光る二つの眼球は黒く、肌の色は白く、そして大きく開いた周囲の唇は紫色。なまじ人間の少女の形をしているから、違和感が嫌悪感にまで昇華している。


 私は背筋に冷たい汗が吹き出るのを感じた。目の前にいる人の形をした人では無い何かに、心の奥底から不快感が湧き続ける。


 私がニンを見ていると彼女の背後から黒い煙が、また瘴気が溢れ出した。それはまるで生き物のように室内を這い回り、急速に視界を狭めていく。


 妙だ⋯⋯さっきジンから吸った量よりも、明らかに瘴気の量が多い。


 噴き出した瘴気を纏うニンの顔が俯き、肩が小刻みに震えている。苦しんでいるのか、と思ったけれど、少しだけ見える口元は⋯⋯笑っていた。


 雲源が言った言葉が頭に浮かぶ。


 ──瘴気は人の暗い感情を含んだ情報の塊。


 憎悪に満ちた満面の笑みで、喉の奥からくぐもった笑い声を漏らしている、ニン。ありとあらゆる暗い感情が同時に湧き出したような、歪んだ笑顔に寒気を覚える。


「ハァァァ⋯⋯」

 ニンの口から濁った吐息が漏れる。

「イッパイダ⋯⋯⋯⋯ぁ」


 彼女の、ニンの身体が不自然に折れ曲がる。前方に頭を垂れ、その背からは骨が軋む嫌な音。ニンの肩甲骨が、皮膚の内側から押し上げられるように浮き上がった。


 背中から生えてきたのは翼だ。羽根の無い骨と剥き出しの筋繊維だけの翼。


 異様な光景に、私は思わず一歩下がった。その足音を聞き付けたのか、ニンは素早く頭だけを上げて、ぎこちなくこちらを向く。目が合ったその瞳は——やはり真っ黒。瞳孔も虹彩も区別がつかない、底なしの穴みたいな黒。


 次の瞬間、ジンの腕が私の前に伸びた。

「玲奈、もっと下がれ」

 ジンの短い、有無を言わせぬ命令のような言葉。


 彼の体が、また私の前に滑り込む。若いが、靭やかで逞しい背中。その背中越しでも、ニンの視線が突き刺さる気がする。空気を震わせるような濃密な憎悪だ。剥き出しの濁った憎しみが部屋を満たす。


 理由は分からないけれど、明確に私を殺そうとしている事だけは分かる。更に数歩下がり、銃を構えながらジンの脇腹の辺りからニンを覗き込む。


 視界に入ったニンの体が、揺らぐようにゆっくりと前傾し、四つん這いに近い体勢に変わった。指先が床に触れ、いつの間にか歪に伸びた爪がコンクリートを引っ掻く。二足歩行のヒトの動きじゃない。四肢を使って、まるで獣のように這いつくばった手。その表面には、ビッシリと黒い血管が浮き出ている。


 石が割れる音と共に、次の瞬間──ニンが跳んだ、ジンに向かって。視認出来るギリギリの速度。私は息を呑む暇も無かった。


 ジンも動かない。ジンが殺される!


 ニンが長く伸びた爪を振り下ろす。そこで初めてジンの体が僅かに傾く。ただそれだけでニンの攻撃は空を切った。


 しかし爪を躱されたニンは、驚きも躊躇いもなく、更に逆の手で再度ジンに襲い掛かる。


 ニンの爪撃に対し、ジンの手が弧を描くように、まるで吸い付くようにしてニンの腕に触れ、そのまま払うように攻撃を流す。ニンの体が腕に引かれて横に流れ、床に爪が叩き付けられた。コンクリートの床が砕ける。その衝撃は、小柄なニンからは想像もできない。一体どんな腕力だと私は目を剥いた。


 体勢の崩れたニンに向け、間髪入れずにジンの足が一歩前へと動く。ニンは滅茶苦茶な動きで後ろへ跳んで、ジンから距離を取る。


 ニンの爪で砕けたコンクリートを見てもジンに動揺した様子は無く、身体の軸もブレていない。しかも先ほどと変わらず何の構えも取らない。ただ半身で立っている。それだけで相手を近付けさせない空気があった。


 私は一度だけ、この空気を感じた事がある。彼の養父の倉治だ。ジンはあの男と同じ空気を纏っている。


 まさか、こんな異常事態──怪異に対峙しても同じように対処する程だとは、思わなかったけど。


 私が思考を回している間にも、四つ足で構えたニンが、獣のように喉を鳴らす。這いつくばって腰を高く上げているため、背中から腰の細い身体のラインが白いワンピース越しに形取られている。


 しかし状況が状況だけに扇情的なものは何一つ感じない。


 ニンがコンクリートの地面を握り締め、今度は背中に生えた肉の羽根をも使って加速する。先程よりもさらに早くジンに跳び掛かる。しかし勢いとは反して、今度はいなされる事を想定した連撃だった。


 爪、膝、いつの間に伸びたのか牙のように尖った歯を使う。段々と獣に近付いているように見える。現実世界に存在する獣では、絶対に有り得ない程の攻撃性だけど。


 力も速度も、人間の戦い方じゃない。しかし初見であるはずの人外の如きそれらを、ジンは最小の動きで全て躱し続ける。半歩移動。少しの体の捻り。徹底して相手の攻撃に合わせて"いなす"。


 これは合気? 中国拳法の化勁? 軍隊格闘術のシステマが近いかも知れない。私の知らない何か高等な武術、そう呼ぶしかない動きだ。ジンは反撃はせず、しかし全てを能動的に受け流している。


 攻撃を受け流され、たたらを踏んだニンが距離を取り、再び低く唸る。決して不利にはならないが、有利にもなれない状況に苛立ちが見える。


 ニンの身体が震え、また黒い煙──いや大量の瘴気が一気に溢れ出した。それは瞬く間に倉庫内の視界が狭まり、空気が急に重くなったように感じる程の量だった。


「また、何処にこんな量が!?」


 思わず叫んだが、直ぐに息が詰まる。目まで痛い。私は口元を押さえて姿勢を低くした。他人の悪感情が流れ込むという苦しみの一端を感じる。ほんの少量でこれ──。


 同じく瘴気に晒されたジンは動かない。私の前に立ったまま、ニンから目を離さない。恐ろしいほどの胆力。もしかしたらミャンマー人の血の受けた加護とか言うモノの効果かも知れない。


 暗い視界に薄っすらと見えるニンは、四つ足の姿勢のまま獣のように首を傾けている。黒い瘴気が、彼女の体から今も噴き出し続けている。煙のようでもあり、至近距離で見れば液体のようにも見える。空気の中で揺れながら、じわじわと広がっていく様は生き物のようだ。


 喉の奥が焼けるように痛んだ。咳が出る。

「⋯⋯っ、ぐっ!?」


 誰かが頭の中に手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃに掻き回しているような不思議で最悪な感覚。

 怒り、憎しみ、恐怖、焦燥や自棄。その感情を自分は知っているのに、知らない他人を通して濃度を増した激情が、洪水みたいに頭の中に流れ込んでくる。


 知らない人間の記憶。

 誰かの絶望。

 誰かの叫び。


 眼球が弾け飛んで、頭が割れそうだ。


「玲奈」

 遠くでジンの声が聞こえる。水の底から聞いているみたいに、くぐもっていた。


 視界が歪む。微かに黒い影が揺れている。

 ニンが動いたのか。その影は四つ足のまま、ゆっくりと私たちを回り込むように。


 その目は、多分ずっと私を見ている。憎しみを込めて。はっきり分かる濁った感情。


 なんなのよ——


 言葉にしようとして、喉が詰まる。息ができない。

 頭の中で誰かが叫んでいる。


 殺せ。憎め。壊せ。


「⋯⋯ゃ⋯⋯⋯⋯ぁ」

 声にならない。


 歯を食いしばり正気を保ち、薄目で周りを見ると、たまたま目に付いた雲源が、薄ら笑いを浮かべながら事切れていた。白衣君は姿が見えない。逃げたのかも知れない。だとしたら彼は幸運だ。


 ジンは?


 彼を探して周囲を見たその時、ジンにノされて床に倒れていた研究者の一人が動いた。この騒動で起きたのかしら?


 その研究者は、ゆっくりと"手を使わずに"上体が起き上がる。その異様な動きを見て、直ぐに顔を確認した。真っ黒だった。ニンと同じように眼球が完全に黒く染まっている。そして同じように感情のない顔。その男が、ゆらりと歩き出す。


「なに⋯⋯」


 別の場所でも布の擦れるような音がする。視線を向けると、瘴気が纏わり付いたスーツ姿の男、白衣君とは別の研究者達、さっきまで倒れていた連中が次々と起き上がる。


 彼らは身体に瘴気を吸い込んで、まるで天井から引っ張られるように立ち上がり──


 一斉にらこちらを向いた。全員が同じ目をしている。黒い穴のような人外の瞳。


「ジンッ⋯⋯うぐっ!?」


 背後から髪を引かれ、背中を押された。力無く前方に自分が跳ね上がるのを感じる。冷たい感触が体の中に入っていた。それを理解するまで少し時間がかかった。


 視線を落とせば、胸から何かが突き出していた。


 赤い腕だ。


 細くて赤い腕が、肘まで私の体を貫いて血に染まっている。壮絶な光景に、けれどまるで痛みの感覚がない。これから痛みが襲ってくるのか、と存外に呑気な事を考えている自分がいた。


 素早く胸元から腕が消える。全身の力が抜けて視界が傾く。視界が回って天井が見えた。


 遠い所でジンの声が聴こえた気がする。冷たいコンクリートの床に倒れる。でも直ぐに冷たいとも感じなくなった。体が、自分のものじゃないみたいだ。感覚が無いから現実味も無い。倒れた勢いで床に寝たまま、天井を見上げる形になった。


 首はまだ少し動いたから、見える範囲で周囲に気を配ると、視界の端でジンが動いていた。多分、ニンと小競り合いをしている。彼の整った顔が歪んでる、と何故かそう思った。


 怒りなのか、焦りなのか分からない。彼の周りに、黒い目の人間たちが近付くのが見えた。簡単な動き、でも確実に包囲するように。


 ジンに教えなきゃ──でも声が出ない。私の姿が視界に入った異形の姿をしたニンは、それでもかろうじて人間と分かる口角を上げて、ニタニタと笑っていた。


 ああそうか⋯⋯そうじゃないかと思っていたけど、きっと彼女もジンに好意を抱いてる。ジンが私の為に戦う事が気に入らなかったのね。現状に後悔が募り、涙が溢れてきた。


 その時だった。倉庫の入口が勢いよく開いて、誰かが倒れ込むように飛び込んで来た。ふらついた足取りで、頭から血を流しているのは──夜須波瑠だ。


「⋯⋯っ、チッ」

 状況を見た瞬間、あからさまに舌打ちする。


 私と目が合う。一瞬だけ、表情が固まったり、そしてすぐに視線を逸らした。周囲を見回し、異形の姿をしたニンと、それに対峙するジンの姿を見て、吐き捨てるように言った。


「⋯⋯最悪だな」


 夜須波瑠はそのまま踵を返す。即断即決で逃げる気だ。良い判断だわ。ここに人間が長居して良い影響は無いだろうから。


 視界の端で、夜須波瑠の背中が遠ざかる。しかし、その姿に反応した四足歩行のニンが追った。私は声を出そうとしたけれど、もう声が出ない。更に視界が滲むけど、それを拭う腕も動かない。


 その時、ニンの攻撃対象から外れたジンが動いた。足元に落ちていた星の欠片を拾い上げ——倉庫の中央に鎮座する鉱神に向かって、勢いよく投げつける。


 ガンッ、と鈍い音が響く。星の欠片は鉱神に当たり、しかし弾かれること無く磁石のように張り付いた。


 また一つ拾い、投げる。また拾う。投げる。


 ジンの顔は、ひどく歪んでいた。歯を食いしばっている。全部の星の欠片を、鉱神へ叩きつけるつもりだ。そのジンに群がる、生ける屍のような研究者やスーツの男達。


 ボヤけて狭まっていく視界の端で、ニンが夜須波瑠の銃弾を躱しているのが見えた。流石に異形の獣を相手取るのは、夜須波瑠でも苦戦するようだ。


 ニンから、また黒い瘴気が更に溢れ出し、さらに世界が暗くなる。音も遠くなる──血が流れ過ぎている。


 私が最後に見たのは——ジンが、最後の欠片を振りかぶる姿。


 そして次の瞬間、視界が、白く弾けた。



 気付くと、私は事務所のデスクの前に座っていた。数瞬前とのギャップに、これが二度目でも思わず立ち上がる。


 私の目の前にいるスーツ姿の男が、煙草を片手にじっと私を見つめている。細身で冷たい目をした男。黒縁眼鏡をしていても、その冷たさを全く誤魔化せていない。


 こんな男でも今は懐かしい気持ちが湧いてくる。全く好きではないけれど。


 何よりも今回はその姿を見ても特に緊張が無い。過去を聞いたせいだろう。ニンとあまり似ていないな、と思ったくらいた。最後に見たニンの姿と比べれば、どの人間も似ていないけれど。


 そう言えば、雲源に社長の名前を聞けばよかった。優先順位が低くて、うっかりしていた。ニンの名前を捨てさせた組織の連中に縛られて、この男は命令に従っているんだったか。そう思えば、この態度は娘を守る為の鎧なのかも知れない。


 私がそう、思いたいだけかも知れないけど。


「⋯藤森、返事をしろ。積んだかと聞いている」


 またこの会話か。前と同じね。


「ええ、はい。積みました。いつも通りです」

 とりあえず前回と同じ雰囲気で返事をする。


 社長は、小さく頷いて椅子に腰掛ける。


 窓から見える雲の位置を確認して、既視感に襲われる。当たり前だけど、前回と同じ。ほんの数秒前まで、私はまた死にかけていた。


 今回はジンとのキスは無かったけど⋯⋯。


「倉治の弟子が来たらここへ連れて来い」


 目の前の男が、ニンの父親が抑揚の無い口調で指示を出す。いつもの事なのに、何となく現実感が無い。


 ふと、倉庫の床に広がった血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。ここにはそんなものは無いのに。見渡した事務所は相変わらず整然としている。磨かれた机、無駄のない家具、壁掛け時計の秒針の音。


 何もかも、ほんの数秒前とは無関係な別世界。今も潜入捜査中なのに、まるで平和な日常に戻った気分。


 だけど私は知っている。この世界はあの倉庫の光景に繋がっている事を。このあと何が起こるのか。そして更に先で、どこで何が起きるのかも──。


 社長――ニンの父親が煙草の灰を灰皿に落とした。

「返事をしろ」


 私は一瞬だけ息を止める。とうしようか⋯⋯ここで黙っていれば、前回と同じ流れになる。


 ジンが来て、コージンビルを回り、最後はあの倉庫。そして瘴気に呑まれる。前回はニンが人外に変わり、雲源の喉が裂け、私の胸が貫かれた。見えなかったけれど、夜須波瑠も恐らく助かりはしなかったはず。


 ニン──彼女は今回の巡礼の前、つまり現時点で既に瘴気に呑まれている。ジンから吸い上げた量とは、明らかに見合わない程の瘴気を撒き散らしていた。その事から考えて、間違い無いと思う。


 純粋そうに見えたけど⋯⋯信じられないわね。


 しかし、このままだと世界はまた巻き戻る。同じことの繰り返し。


 意を決して、私は社長の顔を見た。

「社長」


 彼は眉根を寄せた。私は普段、余計なことを言わない部下だから、意外でしょうね。


「なんだ」

 相変わらず感情の無い声、けれど返事をした。


「あなたの⋯⋯娘について、雲源に聞きました」

 煙草の煙が、閉め切った室内で揺れた。


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