16 想い
急な告白に、アンリエットの頭の中は、混乱の渦が起きていた。
会って間もない人が、いきなり自分のことを考えてほしいと、熱っぽく語る。
(婚約者候補がいらっしゃるのよ? 何かの陰謀としか)
しかし、あの視線と態度が嘘だとは思えない。ヴィクトルは王太子で、誰かを好むと口に出すだけで、多大な影響を与えることは理解しているはずだ。
なのに、どうしてアンリエットを?
考えてもわからない。アンリエットは王太子代理をクビになり、国を追い出された者なのに。
「トビアス、この書類についてわかる者を呼んでこい」
ヴィクトルの声が部屋に響いて、アンリエットはつい構えそうになる。
(ダメよ。アンリエット。平常心。平常心。今は仕事中なのだから)
書類にしっかり目を通し、おかしなところはないのか確認する。資料も合わせて差し合わせる。
「殿下、この書類にも判を押してくださいよ」
「気になる点があるから後回しだ」
「急ぎなのに!」
ヴィクトルの声が耳に入ってくると、やはり身構えてしまう。
仕方がないではないか、婚約者でもない異性に、直接、まっすぐに向かい合って、真剣に告白されたことなど初めてなのだから。
エダンとは、結婚が間近で、そろそろそんな話をしなければならないというところだった。アンリエットが十八歳になり、二十歳になる前には進めたいという話だったからだ。しかしそれまで、恋人のような浮いた関係とは言い難かった。お互いそんな余裕がなかったからだ。
そんな関係で、久しぶりにゆっくりできると、庭園を散歩した。気の抜けた、のんびりした時間。一時もなかったが、二人きりで仕事をせずにただ散歩をするだけというのは、とても珍しい時だった。
花を愛でながら、この際庭園も薬草を植えようかなどと、仕事の話をし始めたアンリエットに、エダンがぽそりと言ったのだ。結婚が待ち遠しいと。
一瞬、耳を疑った。エダンがそんなことを言うとは思わなかったからだ。
エダンはこうやって二人きりの時間が作れないのならば、早く結婚できればいいと思っただけだと、静かに口にした。エダンは城に泊まることが多く、アンリエットと他愛のない話もできない状況ならば、結婚した方がいっそ楽だという意味だったかもしれないが、アンリエットにとっては、嬉しくて、くすぐったくて、この気持ちをどうしていかわからなくて、抱きついて離れないくらいには、幸福になれる言葉だった。
お互い抱きしめ合って、初めてキスをした。そして、愛しているという言葉をもらった。
嬉しくて涙を流したのも初めてだった。
けれど、事が起きたのは、そのすぐ後のこと。
地位が必要だと言われていても、お互いの気持ちが繋がったと思っていた。しかし、あの時の言葉に嘘がないとしても、簡単に覆る立場だということに気付かされた。
今は、誰かと恋をする勇気はない。そして、あんな思いはもう二度としたくない。
(こんなすぐに、誰かとどうのという気持ちはないわ)
改めて仕事に集中しようと書類を広げて、アンリエットは首を傾げた。
「あら?」
「どうかされましたか?」
「この書類、この間の魔物討伐のものですよね?」
「何か問題でもありましたか?」
前に魔物が出たため、城に協力を頼んできた件の報告書だ。聞いていた地域と違っているようだが。
「最初に魔物の群れが見つかり戦いになった場所と、その後王宮から向かわせた者たちが戦った場所が違うんですよ。城の騎士や魔法使いたちが戦ったのがこの場所になるので、分かりにくいですね」
「では、さらに増えてしまったのでしょうか」
「そのようですね。十年に一度、この辺りでは周期的に魔物が増えるので、そちらの魔物が出てきたのだと思います。原因はわかっていませんが、そろそろ始まる頃ですからね」
書類には、魔物増加の可能性がある旨が記されている。
約十周年周期で魔物が増える場所。クライエン王国との国境をまたいでいるので、クライエン王国に出ているならば、スファルツ王国でも増えているだろう。
ここは伝説で語られた山の近くだ。伝説の英雄はこの山や森で戦い、精霊に出会った。
平民の魔法使いを歓迎する貴族、パルシネン家の領地で、アンリエットもよく懇意にしていた。
魔物が多すぎるため、あまり商人も近寄らない地域である分、魔物を倒す資金が不足している領地である。平民の魔法使いであればお金が少なくとも率先して魔物を倒しに行ってくれるので、パルシネン家当主は平民を重宝していた。穏やかな人で、できるだけの褒美を与えていたが、なにぶん領地が貧乏なので、申し訳なさそうにしているのが印象的だった。貴族の魔法使いはそれなりの報酬を出さないと出てこない事が多いのである。
国境を挟んでその家門の領地があるのだから、魔物の多い周期に魔物が現れるのは道理だ。
「元から魔物が多い地域ですから、クライエン王国とスファルツ王国を結ぶ道の一つで、よく商人などが襲われるんですよね。逃げてきた者を保護したという話はよく聞きます」
結ぶ道? 確かに森の中に道はあるが、商人が襲われたという話はあまり聞かない。魔物が多いため、よく傭兵や魔法使いたちを雇うと聞いた。だから安全に通れるのだと。
「その話、詳しく伺って良いでしょうか? その道のある場所は?」
「ちょっとお待ちください。今、地図を」
トビアスがクライエン王国の領地の地図を見せてくれる。スファルツ王国の地図はないが、アンリエットの記憶では、その道はパルシネン家の領地と、とある貴族の領地の境にある道に繋がっていた。
(この道で魔物? 報告は来ていないわ)
道はパルシネン家の領地に出たり入ったりする。パルシネン家の領地で起きているならば、平民の魔法使いが連絡をくれることだろう。ならば、もう一つの領地で起きているのだろうか。
確かあの領地は、メッツァラ家。アンリエットはあまり関わった事がない家門だった。メッツァラ家の領地にも平民の魔法使いはいるが、組織が小さい。そのため、貴族との軋轢は少なくない。何かあれば連絡を寄こすようにと伝えている。
(何かあれば、きっと城に連絡があるはずだから)
ふと、その連絡を誰がまとめているのかと、頭によぎる。
魔法使いについては専門の機関があり、平民については彼らに任せていたが、そもそも平民の魔法使いについて王は批判的だ。アンリエットがいなくなって、待遇が変わっていないか心配になってくる。
しかし、心配しても、どうにもできないのがもどかしい。
まったくの無関係者となった身では、なにもできることがない。
「アンリエット嬢、気分でも悪いのか?」
「いえ、すみません。考え事を」
ヴィクトルに声をかけられて、その話は終わりにする。スファルツ王国について、この国で話すことはなかった。
(せめて手紙を出しましょう。何か困っていることはないか。私にできることがあれば良いのだけれど)




