第四八話 なんだかいい感じ
やがて日は落ち、ささやかな月の光は鬱蒼と生い茂る木々の葉に遮られ、森は暗闇に包まれていた。
ファリドは喋に導かれるがまま歩きつづけていた。なにも見えず、方向感覚さえとうに失ってしまっている。
蝶に導かれるがまま、道なき道を彷徨う。この蝶を見ていると、なぜかあの女性を前にしたときに感じたような、安心感を覚える。
船を出る前は、とにかく不安であった。今の状況を俯瞰して見るならば、普段のファリドならこんな夜中に一人、森の中を彷徨うなど考えられないことであった。
爽涼なそよ風に揺られる木々たちのざわめきが聞こえる。森へ入ったときにはあんなに怖かったそのざわめきも、今は心地よささえ感じていた。
やがて、前方に青い光が見えた。蝶は光の中へと消え、彼は吸いよせられるように光の方へと進んでいった。
「ここは……」
視界が開けたかと思うと、森を抜け船を停泊させている浜辺に出ていた。
昼間は子供たちの声で賑やかであったこの場所も、夜になれば凛とした空気をまとう別世界のように感じられる。
穏やかな波の音を聞きながら、彼は呼吸を整え、夜空を見あげた。星は、見えなかった。そこには雲の奥でぼんやりと光を放つ、月の姿があった。
彼は船の方までトボトボと歩きながら、なぜこの浜はこんなにも凛としているのだろうと考えていた。
そして気づいた。アンカラは夜も働く人がいるせいで、うるさくて眩しい。
しかし、この浜は絶妙な静寂と闇があり、落ち着くのである。
「そういやヌライって、月光って意味だっけ。女の子なのに強くて、怖いもの知らずで、かっこいいよなぁ。サリーフと違う強さもあって、本当にお月様みたいに代えが効かない人だ。ボクも……ヌライに負けないくらい頑張らなきゃ……!」
すべてを照らすには心許ない月光を見あげながら、彼は思った。
「ボクはもうお姉ちゃんに守られるだけの弟じゃいられないんだ。フィンにはなれなくても、フィンの代わり……いや、まずはフィンに少しでも近づけるように強くならなくちゃ!」
船まであと少しのところで、彼は足元に違和感を覚え視線を落とした。薄暗いなか目を凝らすと、それは人が人を引きづった痕だと分かった。
「誰か帰ってきたんだ……! 引きづってるってことは、きっとケガをしてるんだ! 早く行かないと!」
急いで梯子を登って船内へ入ると、そこには、予想だにしない光景が広がっていた。見ず知らずの男が、体ごと帆柱にくくりつけられ血だらけになるまで、殴られていたのである。
殴っていたのは、みんなと共に散策に向かったはずのルカと、パウロであった。
ルカは、集団の中でどこか腫れ物のように扱われていた男で、ハッキリ言えば、嫌われていた。
その理由の一つとして、切れた肉を見ては薬草から作った塗り薬を試したり、針と糸で縫ったりするような痛々しいことを平気で繰りかえすというのがある。
悪いことをしている訳ではないが、誰も理解ができず避けられていた。
一方のパウロも不思議な男であった。人の血や切れた肉を見てほくそ笑む点で言えば同じだが、パウロの方がみんなに嫌われていた。
その理由は、知性がまるでない獣のような性格にあった。サリーフやヌライがもつ勇敢さとは異なり、独断的で輪を乱しながら、とにかく好きなように暴れまわる。パウロとは、そういう男であった。
そんな二人もフィンの言うことだけは素直に受けいれていたのだが、フィン不在の今、二人を上手く制御できる人はおらず、船内でより孤立するようになっていた。
個の能力や癖が強すぎる二人は、フィンがいてこそ、その本領を発揮し、船の墓場では心づよい戦力になっていたのだ。
「なにやってるんだ二人とも! その人は誰だ!」
「よお……帰ったのかファリド。あぁ、こいつは……」
「待てパウロ、俺から話そう」
そう言ってルカが近づいてきた。
ファリドは数歩だけ後ずさりをした。
「俺たち年長組は森の中で襲われたんだ……。隙を見てパウロと二人で逃げだしたんだが……帰ってくる途中、この男に出会してな。言葉からして、きっとみんなを襲ったやつの仲間だ。俺たちは皆を助けるためにこの男からアジトの場所を聞きだそうとしているのさ」
「手伝えファリド!」
パウロが声を荒げる。
「で、でも……ボクは……」
「ファリド! みんなが心配じゃないのか!」
巨体のパウロと、正論を吐くルカ。二人にまくし立てられ、ファリドはパウロに言われるがまま、生まれて初めて人を殴った。
自分の拳も痛いが、痛がって叫びちらす男を殴ることには快感があった。やがて、自身への正当化のためか、みんなの仇とも言える男を拳で殴りつけるというのは、男らしい方法で、みんなを助ける責務を果たしているという感覚がわいてきていた。
「どうだファリド……どんな気分だ?」
パウロに聞かれ、ファリドはニヤケながら言った。
「なんだか……いい感じ」
パウロの指示がなくなっても、ファリドは男を殴りつづけた。それを見たルカは少し離れたところで、少しニヤケながら、見ていた。
「パウロ……ファリドはもう手玉に取ったぞ。フィン君亡き今、後継者に相応しいのは俺だ。俺が主になって、この聖なる森で、僕を従える大物になってやろう……!」
ルカは野心を滲ませていた。




