第三八話 湖の底で
XXX~リエール王国 船の墓場~XXX
吐いた息は包まれ、優しい光の許へと向かっていく。いかなる喧騒とも無縁な別世界のように、そこは静かであった。青く澄んだその無垢な空間は、痛みや悲しみを慰めるように、ただ揺れる心をあるがままに受けとめる。
「……」
なす術もなく、ただ重力に身を委ね落ちていく。優しい光は遠のき、意識は朦朧としていた。
たゆまぬ努力を重ね、自らの信念を貫き生きた男の炎は、ゆっくりと消えかかっていた。世界は残酷にも彼を、深くて暗い湖の底へと誘う。
諦めきれない思いを上まわるほど、彼は安息を求めた。疲れたのである。
「ブクッ……。ブクッ……」
彼はゆっくりと目を閉じた。世界の片隅で彼は最期の一時を、穏やかに過ごそうとしたのである。
「ゴボッ……ブクッ……ブクブクブクッ」
意識が途切れようとしたそのときであった。
思考もままならない状況だというのに、彼の脳裏には大切な人を失い、泣きくずれる人々の姿が浮かんでいた。それは彼が今までの人生で見てきた光景であった。徐々に彼の心に熱が灯りはじめる。
次に彼は希望を見た。
月明かりの下で泣きくずれていた少女が、涙を拭いさり顔を上げる。その少女は、帰る方法を失い絶望の淵にいるにも関わらず、瞳に力強い輝きを宿していた。
それは、彼の父親が決して忘れるなと教えを説いた意志の表れであり、彼が見てきたなかでもっとも純粋かつ強力な意志の輝きであった。
少女から放たれた"生きたい"というその意志の輝きは、とまりかけていた彼の心臓を突きうごかした。
彼は心の底から切望した。手を伸ばしても掴めぬ幻想と知りつつ、活を求め少女へと手を伸ばした。
彼の手が少女の瞳へ触れると同時に、先ほどまで暗闇に包まれていた視界が晴れ、辺り一面が爛々(らんらん)と輝きだした。
「うっ……。ブクッ……」
あまりの眩しさに一瞬目を閉じたが、徐々に光に慣れてくると、そこには、神秘的な光景が広がっていた。
宝石のようにキラキラと輝く湖の底は、活き活きと大地に根を張る藻や、群れをなし力強く泳ぐ小魚たちで溢れていた。
(あれは……)
フィンは湖の中を優雅に泳ぐ、一匹の巨大な亀に目を奪われた。彼がしばらく眺めていると、亀はそれに気づいたのか、フィンのいる方へと向きを変えゆっくりと近づいてきた。
(君も一人なんだね……。僕はこれからどうすれば良いんだろう……。もう一度……皆に)
フィンは、亀の翡翠のように美しい甲羅に手を添えなから、心の中で語りかけた。
すると、亀はフィンの手が添えられている甲羅の方へ顔を向け、頭を上下に動かした。
慌ててフィンは手を離す。
しかし亀は、フィンが手を離しても先ほどとまったく同じ動きを繰りかえしていた。
(僕に何か伝えたいのか……?)
しばらく亀の動きを眺めて、フィンは察した。
(もしかして……)
フィンが甲羅の端を掴むと、亀は顔を前へと向けゆっくりと泳ぎだした。
フィンは、徐々に速度を上げていく亀から振りおとされないように、両手で甲羅の端を掴み、甲羅に体をくっつけた。
フィンが顔を横へと向けると、たくさんの光が次々に後方へと去っていき、まるで星空の中を泳いでいるかのようであった。
ゴツンッ
「うっ……」
頭部へ痛みを感じゆっくりと目を開く。すると、視界は一面岩壁であった。いつの間にか気を失っていたようだが、先ほどまでなにか夢を見ていたような気がしてならない。
(湖に落ちた後……僕は亀の甲羅に掴まって……いや、そんな事が起きるはずない)
意識が戻り数秒もしないうちに全身に激痛が走り、思わず身をよじる。すると両肩が硬い壁に当たったため、手探りで壁の輪郭を確認した。
どうやら水路を流されているようであった。
「奇跡的に湖の中にある水路に入って、空気のある所まで運ばれてきたのか……」
フィンは、全身に悶えるような痛みを感じながらも力を振りしぼり、水路の溝から這いだした。彼は仰向けになり、呟いた。
「疲れたな……」
そのまま彼の意識は遠のいていった。
フィンは凍えるような寒さで目が覚めた。そして、ゆっくりと体を起こしながら弱々しい声で呟く。
「まずい……早く……出血の措置をしなくては……」
脇腹に激痛が走り咄嗟に手で押さえる。患部へ目を向けると、服は血で滲んでいた。
「まだ少しは大丈夫そうだ……それにしても、ここは地下なのに意外と明るいな」
そういいながらフィンが周囲を見わたすと、岩壁の通路の端にうっすらと、光りを放ちながら青々と育つ植物が見えた。よく見るとそれは一種類ではなく、さまざまな種類の植物たちが、水路を挟んだ両脇に密着して生えていた。
「植物が光っているなんて……とても綺麗だ。でもそんな植物がいる訳ないし……僕は死んだのか……?」
フィンは立ちあがると、壁に体を預けながら、水路の水が流れる方向へと歩いていった。
意識が朦朧としながらも彼は、水路の端へと辿りついた。水はそのまま、柵の奥の暗い穴の中へと流れていく。
「ここで行き止まりか……」
激痛と寒さに、フィンは気絶しそうになっていた。
「ん? ……これは……」
意識を朦朧とさせながらも、彼が目を凝らして見ると正面の岩壁には、木製の扉がついていた。
彼は祈るような思いで扉の取手に手を掛けた。
中に入るとそこは三畳ほどの狭い部屋で、凸凹とした岩壁に、木製の棚や家具が据えつけられていた。また、部屋中は柔らかな光に包まれており、天井には巨大な光石が鎖で繋がれ吊るされていた。
「あれは……光石だ。なんでこんなところに……それより、ここは一体どこなんだ?」
彼は、机の上に散らばった紙に目を奪われた。それは手記であった。紙には端から端まで文字が書きつづられ、読みにくいものであった。
「紙が貴重だと言わんばかりの文字量だな。アンカラならまだしも、ここは裕福なリエール王国だろ……う……に……」
ガタンッ
彼は目眩がして、机の上に倒れこんだ。腹部に目を向けると、先ほどよりも流血が酷くなっているようであった。
彼は止血したいという一心で、机の横の棚に重ねられ置かれていた草の葉に手を伸ばした。
藁にもすがるような思いで、草の葉を患部に押し当てていると、どういう訳か、みるみるうちに傷が癒えていった。
「な、なんだよこの草……! 万能の薬草なのか……? いいやそんな医術なんて聞いたことがない……!」
摩訶不思議な出来事に驚きを隠せず、彼はその奇妙な草の葉に釘づけになった。
患部に当てられた草の葉は、大量に微細な光の粒を放出し、枯れていった。また、手の隙間から漏れ、散っていった光の粒も、数秒間空気中を漂ったあと見えなくなった。
気がつくと傷は完全に治っていた。
「貴重なものだろうから、必要最小限で使わせてもらおう」
フィンは、とくに酷かった残りの患部に草の葉を当て、傷を治した。
傷を治し終えた彼は、周囲を見まわし、棚に置かれていた手帳を手に取った。
それはあまりにも古くところどころくすんでいたため、読解くのが難しい状態であった。しかし、なかには幸運にも読むことのできる内容もあった。
そこには靈石についての詳細が記されていた。
「……なるほど、要約すれば感情の高まりによってこの石は……持つ者の意志に従い身体能力を向上させる。そして意識を集中し感情を流し込めば、この石自体の消耗と共に、発火や落雷等の超常現象を起こすと……。信じられない……」
子供騙しで幻想的な記述の数々。普段ならば、それを夢物語だと一蹴できるであろう。しかし、彼は先ほど非現実的現象を身をもって体験していたため、なんとなく受けいれていた。
「きっと、靈石も貴重なものだろう……。この部屋の何処かにあるのだろうか……」
フィンは部屋中を見まわした。すると、棚の上にひっそりと置かれていた小さな壺に目がとまった。
「……ん! ? あれは……」
彼は棚へ近づくと、椅子を脚立代わりに使い、壺へと手を伸ばした。
「厳重に保管されているなら見つけようがないが……」
椅子から降りて壺の蓋を開けると、中には大小さまざまな色の丸い形をした石が入っていた。
彼は壺を傾け、その中から数個の石を手の平に出した。
「手帳に描かれている絵とそっくりだ……これが靈石か……。どう作用するか分からないが、念のためこの石をいくつか貰っておこう。……それより一体ここは何処なんだ? こんな知識は父さんにも教わったことないし、僕は知らない世界に迷い込んでしまったのか……。他にもここに記されていることが真実なのか、外へ出て確かめてみなくては……」
彼が部屋の扉を開けると、その先には遠く上の方まで、長く暗い階段が続いていた。




