第一話 逃亡する者
〜~リエール王国 国境にて~〜
薄暗い茂みのなか、息を切らしながら走る男がいた。男は少し肌寒いこの時期にしては軽装で、露出した部分からはパンパンに膨れあがった筋肉が見え隠れしていた。すでに長時間走り続けてきた男の体は熱を帯び、大気との温度差から生じる白い水蒸気を身にまとうその姿は、まるで化身のようであった。
水辺に出ると男の背丈ほどの葦が生いしげっていたが、男はかまわず走りつづけた。擦り傷だらけになった顔からは血が滲みでている。
ガッガッガッガッ
男の背後には、物々しい雰囲気の兵士たちが馬を駆けさせ迫っていた。
「居たぞ! あの男だ!」
騎兵隊が男を取り囲み、握られた松明が男の顔を照らす。ここまで全力で走りつづけてきた男の顔は青白く、唇はひび割れ血の気のない青みがかった色をしていた。
年配の兵士が口を開き男に向かって言った。
「貴様、年に一度の祭事の最中に、よりにもよって人類の宝を盗みだすとは……大胆不敵なやつめ」
男は兵士の言葉を無視したまま、両手を膝につき、浅い呼吸を何度も繰りかえしていた。
板金の兜から金色の髪を覗かせている、若い兵士が怒鳴る。
「言え! 鏡はどこにある!」
男は煩わしそうにゆっくりと身を起こしながら答えた。
「さあなぁ。途中で放り投げてしまったからのぉ」
年配の男が罵る。
「抜かすな! この下賤な輩め!」
澄んだ声の兵士が年配の兵士に駆けより耳打ちをする。
「隊長! 念のためこやつの通った道を捜索いたしますか?」
隊長と呼ばれたその男は答える。
「そうだな。どこかに隠してあるやもしれぬ。二手に別れよう。お前たちは捜索へ向かってくれ!」
澄んだ声の兵士は答えた。
「ハッ」
「ルース! お前は私と一緒にこやつを城に連れ帰るぞ」
金髪のルースと呼ばれた男が答える。
「ハッ」
兵士たちは二手に分かれ、捜索隊を任された騎馬兵三騎が男の通ってきた道へ馬を走らせ去っていった。
両手を繋がれ騎兵隊のうしろを歩く男は、なんとも言えない表情をしていた。まるで絶望しているようにも、安堵しているようにも見えた。
ルースは馬上から男の姿をただ眺めていた。
(『繁栄ノ鏡』を盗むなんて、この男はどんな目的や大義を持っていたのだろう。そこらの罪人とは異なるこの優しい顔は……なぜなんだ。まるで罪を罪と思っていないかのような……そんな顔だ)
ルースは心の中で呟き進行方向へ馬を進めた。
茂みを抜け川沿いの馬車道を進み、巨大な壁で囲われた街へ入る。男たちの心境とは裏腹に町は活気に満ちていた。これは、一ヶ月ほどかけておこなわれる祭事の初日の出来事であった。
連行された男は地下深くの牢に繋がれ拷問されたのち、翌日処刑されることとなった。
処刑の直前に男は一言だけ言葉を発したが、その場にいた誰もが、その言葉を正確に聴きとることはできなかったという。
★★★~ルーダン王国 城内~★★★
ステラはベッドの上で目を覚ました。肌を撫でるような優しい光が風に揺られ、ほんのり甘いシナモンの香りがほのかに空気中を漂っている。彼女は、体の半分を包み込むふかふかのベッドから起きあがり、カーテンを開けた。
「眩しい……」
さきほどの優しい光とはうってかわって少し強めの陽光が射していた。
ルーダン王国の王族であるステラは、今年一二歳をむかえる、小柄でブロンドの髪の毛が特徴的な少女だ。
また、ステラは毎日キングサイズのふかふかベッドで寝る。そして、朝起きると決まって、城内にあるお気に入りの場所へと向かう。
「王女様、今日も高台広場へ行かれるのですか?」
少しして入ってきた召し使いが優しく尋ねる。
「もちろん! 今日も庭園へ行くに決まってるわ! ついてきてバーバラ!」
ステラは城内中央の高台広場に自分だけの庭園を作っていた。薔薇やチューリップのような美しい花は、いつも彼女の心のなかを色彩豊かにしてくれる。
そのなかでもとくに外国産の珍しい花は、彼女の好奇心を刺激した。
「こちらは、山脈を越えた先の国より国王陛下に献上された花にございます。名をイッペーと言い、ご覧の通りに黄色い花びらが特徴的な……」
召し使いが言葉を言いきるよりも前に、ステラはハニカミながら叫んだ。
「まるであのお花を黄色くしたかのような見た目ね! あれはなんという名前だったかしら……」
「確か隣国のお花でしたね。名前は……」
「そう、サクラ! サクラよ!」
ステラの喜び具合に召し使いたちは微笑んだ。
「王女様ったら枝に生えた数枚の花びらだけで、他のお花を思い出しになられるのね」
「あたりまえじゃない!」
喜んだのも束の間、ステラは急に静かになり肩を落とした。その理由には誰もが気づいた。
彼女は王族であるため、国外に出ることができない。献上された花を見ることはできても、異国の地で直接その花を愛でることはできないのだ。
彼女は、いつかこの国の外へ出られる日がくることを夢見ていた。世界中を旅して、異国の地でたくさんの花を愛でたい。その思いは日に日に強まっていた。
「初めはどこの国が良いかしら。おとなり? それとも港町が美しいあの国? いいえどれも違うわ」
彼女の眼差しは高台からヴァール湖を挟んでポツンと浮かぶ緑で覆われた森へ向けられていた。そこは世界の中心であり、今となっては誰も足を踏みいれることはできないと言われている場所。美しい自然が果てしなく続くと言われるその森へ行くことが、彼女の憧れであった。
「わたしが求めるものはきっと、あの森のなかにあるんだわ」
ステラはその日の夜、寝室でバーバラにいつもの絵本を読んでもらった。
「バーバラ、またあの絵本を読んで聞かせて」
「王女様は本当にあの絵本がお好きなのね」
本の題名は『森ノ精霊』。ステラはこの絵本の朗読を聞きながら目を瞑ることで、憧れのあの森を想像した。そして、その想像で胸中を満たすことによって彼女はこの上ない幸福を感じていたのである。
そして、そのまま夢の世界へと入りこむ。それが日常であった。しかし、この日は違った。
「絵本を読み終えてもまだお眠りにならないなんて、珍しいですわね。まだ眠たくありませんか?」
「眠たいよバーバラ。でも眠りたくないの」
「それはどうして?」
ステラは胸に手を当てて答えた。
「いつもならここが幸せでいっぱいになって眠れるのに、今日はなぜだか、ずっと森について想像しちゃうの。目を閉じたら、ずっとここがドキドキしちゃって、じっとしているのだってイヤになっちゃう」
バーバラは優しく微笑みながらステラの胸に手を当てた。そして激しい動悸をなだめるように、穏やかなテンポで、優しく胸を打った。
そのテンポにあわせてステラの動悸も落ちついていき、やがて眠気を催した。
「王女様は森に恋をしているのね。まだ一一歳なのに。おませさんなんだから」
優しく囁くバーバラの声は、彼女を夢の世界へと誘った。バーバラは彼女が眠ると、頭を優しく撫でた。
「この絵本を読み始めてから、王女様は自然を愛するようになり花を愛でだした。純粋なお方だわ。このまま、まっすぐな大人に成長してね」
バーバラはそう言うと、足音を立てずに部屋を立ちさった。
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