今年中には終わるといいな 二十三章
二十三章 堕ちた魂
体の重要な部分が抜けているかのような、奇妙な希釈感と浮遊感。
意識は冬の夜の様に、はっきりしているかのようで、その実、限りなく微睡みの中にいるような不安定な状態。
四肢は、ほとんどの時間を燃えるような暑さと激しく痛みを訴えることに費やしているが、時折、ふと全てをリセットしたかのようにパッと感覚がなくなる。
「ほんで?ここへは誰と来たの?」
「……黙秘します」
「…ふ~ん」
「あぐっ!!?」
もう何度目かもわからない四肢を幾万本もの針で串刺しにしたかのような鋭い痛み。しかし、何度目でもこの痛みに慣れることはなく、ミヤは桜色から紫に変色した唇からかすかに悲鳴を漏らす。
ミヤはその痛みと共に鮮血が噴き出す感覚を覚えるが、夏だというのに妙に寒々しいこの灰色の空間にそれが流れ落ちることはない。彼女は力なく顔を上げ、磔にされた自身の左腕を見ると、そこには丸太ほどの太さのある黒い龍がミヤの柔肌に鋭い顎を突き立てていた。きっと残りの四肢も同じような状況だろう。喉が何かを飲むようにしきりに動いていることから、ミヤの血がその異形よってほとんどを飲まれていることが分かり、得体の知れないモノに自身の体液を貪られるという事実にミヤは五臓六腑をやすりで撫でられてるかのような嫌悪感を抱く。
十分ほど前のことだろうか。この黒い龍を従える、オロチと名乗る黒褐色の肌と蒼々とした鱗を持つ青年のような妖と接触し、連れ去られたのは。その時、ミヤは一人の瀕死の少女を助けたのだが、それをオロチに見つかり、口を塞がれたと思った刹那、ミヤの視界は夜空を映し出していた。そして、その情報からオロチがとんでもない高さを跳躍したのだと理解したころには、ミヤは諸々の衝撃で妖力不足でただでさえ限界だった意識は黒に染まっていった。
そして、手足を龍に食わせて磔にする際の激しい痛みによって再び目を覚まし、その時には最早ミヤがそれまでいた旅館は影も形もなく、四方八方が岩の壁で囲まれている洞窟の中にいた。
妖力不足と未だ理解の追い付かない現実とで霞む意識を、痛みだけで半覚醒にしたまま、すぐに暗闇から湧き出たかのように登場するオロチによる拷問は始まった。
「じゃあ、まずはここに来た目的を聞こうか嬢ちゃん。……まあ、十中八九わしらだとは思うんやけど」
気持ちの悪い中途半端な訛り。すでに体に限界が訪れているミヤに、オロチの言はその印象を与えるだけで言葉の意味を理解することはできなかった。
「………?………っ!!?あああああああああああ!!」
そして、突如訪れた幾本もの剣が肌を串刺しにするかのような痛みがミヤの四肢に突き刺さり、彼女の朧気だった意識を完全に現実に引き戻す。そして、その痛みから逃げるようにミヤが手足を思いっきり引っ張るが、鋭い牙が食い込み、手足が燃えるようで、さらに喉奥から痛み喘ぐ。
「はよ答えてくれん?わし、待つことがぎょうさん嫌いなんよ」
脳内に痛みと共に記憶も沸き上がり、ようやく今の状況を思い出したミヤは、気味の悪い白けた笑みを剥がしてやや嫌悪感をのぞかせるオロチを鋭く睨んだ。
「……絶対に……言わない………」
「あっそ、その威勢がどこまで続くか楽しみや、なあ?」
「うっ!!?」
こうして、オロチの拷問は始まりを迎えたのだった。
「………なあ、そろそろ何か言ってもいいんちゃう?ていうか、嬢ちゃんがゲロるより先に嬢ちゃんの手足がちぎれそうやけど」
自身の手足がちぎれる。
ミヤがこの地に生を受けてから初めて聞くような台詞、そもそも真っ当に生きていたら一生聞かないような台詞。しかし、ミヤはその言葉を聞き、なんならそれが何の誇張もなしに近い未来にそれが起こりうるという直感に、簪を外し幻術が消えたことで見えるようになった猫の耳と尻尾の毛が総じて逆立つ。
ミヤがオロチによる拷問に答えることはなかった。一時の苦痛から解放されたいという自分勝手な気持ちで仲間を売る気には到底なれなかったし、そもそも、正式な鏖妖組の組員となってほんの少ししか経っていないミヤが、鏖妖組について聞いてくるオロチの質問に答えられることはないに等しかった。
しかし、体を蝕み続ける痛み、流れる血の量、ミヤの絶望的な戦闘力とオロチのおそらく圧倒的な戦闘力など状況は最悪に近かった。せめてもの救いはおそらく相当数の血液と妖力を失っているであろうミヤが朧気ながらも意識があることだろうか。まだ脳が動くということは、まだ起死回生の一手を投じることができるかもしれないということだ。ミヤは何かこの状況を少しでも変化させるような考えを必死に考える。極限状態の熟考にミヤは簡易的なトリップ状態に入る。
そして、ミヤの苦悶の表情を暇つぶしの材料としていたオロチが、いきなりうんともすんとも言わなくなった彼女のその行動に少しのフラストレーションを貯めるのに充分であり、オロチは玩具を治すような先程とは異なるアクションを取るのであった。
「……はぁ、しゃあないわ。向こうさんには嬢ちゃんを殺すなって言われてるし……次は嬢ちゃんが喋れるような質問するわ」
じゃあ、今までの質問は答えられないってわかってたのか。今までとは少し毛色の違うオロチの言葉にミヤは意識を傾け、そして今まで自分がただただオロチの愉悦のためだけに傷つけられていたことに薄くなっていた脈が怒りのまま確かに脈動する。自身の四肢が磔にされていなかったら今すぐにでもそのむかつくことに若干男前な顔を殴って醜く歪めてやりたい、そんな衝動が血液と供に巡る。
「おぉこわ……。嬢ちゃん、そんな顔してたら嫁に行けんくなるよ?ほら、笑って笑って。次は絶対答えられる問題やから」
そんなミヤの殺気が顔に出ていたのかオロチは、死にかけの犬が遠吠えをあげているのを嘲りを込めて見るような、そんな濁りきった瞳でおどけながら、自身が圧倒的強者であることを噛み締める。
「………っ!!?」
ミヤのありとあらゆる体毛が重力に反し、屹立する。今までの針地獄のような痛みがまるで子供だましのような常軌を逸した嫌悪感。
「なあ、ここって握られたらどんな気持ちなん?」
吐き気すら覚える、夏の蒸気に満ちた夜のような、ねっとりとした気持ちの悪い声音。それが、ミヤの耳のすぐ近くで囁かれる。オロチの発した空気の壁にミヤの耳、黒曜石のような毛並みがやや揺れ動き、それが彼女の触覚を激しく刺激する事実にさらに、嫌悪感を覚える。
そして、オロチの言うこことは、ミヤの身体における最大の弱点であり、最大級の信頼を置く高や吹雪にさえ不可侵の領域。とどのつまり、耳と同様、オブシディアンのような艶やかな黒色の毛並みを誇る、猫のような尻尾であった。
不可抗力で高や斑に一度触られたこともあったが、その時とは似ても似つかない感触。体の主導権をがりがりと侵食されているかのような得も言われぬ不快感と恐怖。
「……で、どうなん?教えてくれや」
オロチの言の葉が再び響く。それと同調して、ミヤの生理的嫌悪が増長し、ミヤは自身が段々と汚されているような、そんな気味の悪さが芽生える。
「……ね………」
体内を駆け巡る気持ちの悪さが、脳にたどり着き自身を支配する前に、震える声でミヤは何かを絞り出す。
「ん?なんて?よお、聞こえんかったわ。もう一回言うてみぃ?」
その言葉は、それこそ、今までオロチの暇つぶしに必死に耐えてきたミヤが初めて発した黙秘以外の言葉であり、それはオロチの質問に答える、オロチに屈するという紛れもない敗北宣言であった。しかし、嫌悪感とともに体を巡るこの激情を心に留めておくことなど、普段ならまだしも散々弄ばれたミヤにできるはずもなかった。
「死ね」
今度は、この洞窟にやや反響するほどの、確実にオロチの鼓膜を震わす声で吠え立てた。今現在、ミヤが抱える最も大きい感情、オロチへの純然たる殺意。一度目にした時から、心中に燻っていた思いが、この憎き怨敵に自身の絶対の領域を汚されたことで濁流のように湧き出た。
誰しもが一度は使ったであろう言葉。そして、そのほとんどが冗談として吐き捨てる言葉。しかし、ミヤの放ったそれは、ただ黒い感情の奔流が言の葉として生まれたもので、冗談などとは程遠い得も言われぬプレッシャーがあった。
「………なあ、すまん。ワシ、ちょっと耳が悪くてなあ。ちょっと、もう一回言ってくれる?」
今までのミヤとは毛色の違う威圧感のある言葉。それ故に、オロチの反応もこれまでとは違った。
今まで纏っていた、ミヤの苦悶を嘲笑うような気が失せ、そこにあるのはどこまでも澄んでいるようで、どこまでも濁っているような虚無感のみである。ミヤの尻尾を痛いくらいに握りしめて、反対の手も血が滲むんじゃないかというほど握られている。口元の笑みも消え、眼のハイライトも無くなって、今のオロチの様子を端的に表すのなら、気味が悪いだろう。それも、生理的な嫌悪を表すものでなく、自身の生殺与奪の権を完全に握られているかのような、寒々とした恐怖が同居した気味の悪さだ。
自身の一挙手一投足に命がかかっている。ミヤがこれほどまでにそんな感覚を覚えたことは恐らく後にも先にもないだろう。しかし、ミヤは先程からけたたましくアラートを鳴らす本能よりも、自身の猛き魂を優先するくらいには、どうしようもなく鏖妖組の組員であった。
「さっさとくたばれって言ってるんですよ。二度と私に触れないでくだっ!!がっ!!!」
言い切る前に、尻尾を掴んでいたオロチの手が外れ、そして、少し浮かんだ安堵の気持ちをボロボロに打ち負かすかのように、ミヤの腹に先程から握りしめられていた拳が突き刺さった。
後方に吹っ飛ぼうにも、四肢を固定する黒龍共がストッパーとなり、何度もゴムのように前後に揺さぶられるミヤ。脳がシェイクされ完全に思考が停止する中に唯一はっきりとしている意識は、圧倒的な痛覚のみ。視界がチカチカと点滅し、喉元を逆流する胃酸と血液、それらを湧き上がる吐き気のままに吐き出す。そんな中でも、やはり生きているのも普通なくらいの常軌を逸した痛覚だけが脳内の全てを占有して、でも、意識のひもが途切れることは決してない。全身が発火するように熱く、嫌な汗が滝のように流れる。明確に浮かぶ死の実感に、どうしようもなく震えが出る。
「小娘がなんて口聞いとんねん………もうええわ、向こうさんなんて知らん。今、ここで殺したる」
その言葉と共に、ミヤを拘束していた四体の黒龍がその顎を緩め、ミヤは重力のままに自信が吐いた血と胃酸が混ざった液体の中に落ちる。そこそこ高い場所で拘束されていたのか、力なく硬く冷たい岩の床に自由落下した際、ただでさえミヤの華奢な体のありとあらゆる場所が訴えていた痛みが一際強まり、それだけで失神しそうになる。
頭では、今すぐこの場を離れないといけないことは分かっているというのに体がそこに根を張ったかのように動くことができない。次第には呼吸すら怪しくなり、でも、やっぱり痛いという感覚だけはぐしゃぐしゃの魂の中に堂々と鎮座している。
そうして、久遠にも刹那にも感じられる時間が過ぎ去った後、おもむろに、否、必然的にオロチの足は上がっていき、
「死ね」
奇しくも、ミヤが放ったものと全く同じ言葉で、ミヤとは違い有言実行甚だしく。
その静かな殺害宣言と共にオロチの足が振り下ろされた。
一瞬の浮遊感。そして、こんな死地に立っていても完全に安心できるような、心が休まるような感覚。
これが、死、か。
ミヤは恐らく死の寸前、どこまでも引き伸ばされた知覚の中でそんなことを朧気に思う。
なるほどなんと、死とはこんなにも不本意な死に様だったというのに、いざその時が訪れると、こうも穏やかで安心感のあるものなのか。
なかなかに幸の多い人生だったと思う。じんのうちに拾ってもらって、本当にたくさんもらったものだ。これ以上求めたら罰が当たってしまうんじゃないかというくらいに。
いや、でも、ひとつだけ心残りがあるとすれば……
「……じん、のうち」
「おう、俺だぞ」
嗚呼、もう一度彼の顔を見たかった………ん?
ミヤは傷だらけの体に鞭を打って、その黒曜石のような瞳に光を灯す。寒々とした黒洞洞の岩壁、洞窟の天井、そして、子を慈しむ母のような優しい眼差しで彼女を見る神野内高………。
私は、死に際に何か幻でも見ているのだろうか?
いや、でも、これは幻よりも鮮明で、そして何よりも高がミヤをやさしく包み込む、そんなオロチの魂が凍えるような手先とは対に、弱りきった心身を段々と癒していくような温かい感触がそれが夢幻の類ではないと雄弁に物語っていた。
「……じんの、うち?」
今度の言葉は生に対する心残りではなく、確認の言葉。
声帯を震わすことで、自身が本当に生きているのか、最愛が私を助けにきてくれたのか、それを確かめるために鉄の味が広がる口腔内から最愛の名前を捻り出すように呼ぶ。
「?だから、そうだって」
そして、返ってきた、返ってきてくれた言葉は、やはり聞き間違えのしようがない、最愛が発した凛と澄み切った声であり、彼はまるでこの場所にミヤと高の二人しかいないような、緊張感の欠片もない声音でミヤに返答した。
その声音をどこまでも欲していた。体を包み込むその温かさを狂おしいほどに渇望していた。
今生の悲願が達せられたかのように、ミヤは、傷だらけで体のそこかしこが痛むということも、安心のせいかどんどん遠のいていく意識が遠のいていくことも忘れて、安堵、そして魂に染みわたるような喜びを込めて、高に仄かな笑みを返した。
嗚呼、ずっとこのままじんのうちの近くにいたい。心の中に確かに存在しているその非現実的な想いをミヤは果たして自覚しているだろうか、それとも無自覚のものなのか。
しかし、高はその笑顔にミヤの万感の思いを寸分の違いもなく感じ取り、でも、否、だからこそ、ミヤをゆっくりと蝶や花のように丁重に地面に下ろし、懐から一枚の紙片を取り出した。
様々な文言、陣、印の描かれた一辺20センチメートルほどのそれは、最上級の回復異能が込められた札である。身体・魂・妖力、そのどれもが摩耗しきったミヤの治療は十数分を有すであろうし、札を使っている間はミヤは動くことはできないが、この状態のままミヤを置いておくことはできない。
高は、再び微笑みを浮かべるとミヤに札をつけ、その札が鈍く光り、妖力の流れがミヤの体に出来た幾つもの傷を、緩やかな春風が肌をなでるかのように癒していく。妖力もすっからかんから徐々に枯渇気味にまで戻っていく。
ようやっとミヤは自身の生を再確認できる状況になった今、しかし、彼女の胸を満たしたのは安堵でも喜びでもなく、高が離れてしまったことによる死神の鎌が喉元を捉えている様な不安感と恐怖であった。
「主が死してもなお 外界と内界を隔て続けよ 玄武」
ありとあらゆる結解術の行使、その権能をつかさどる玄武を使い、高が現在構成可能な結解の中でも最も固いもの、その帳をミヤの周りに下ろす。瞬く間に妖力の奔流がミヤの周りを満たし、ミヤは高とオロチから完全に引き離され、ミヤの嫌な予感が加速する。
高は三度の笑みをミヤに投げると、いよいよ、彼女に背を向け、猛烈な殺気を今なお送り続けていた化け物と対当する。
違和感。
いかないで
言おうとした。紡ごうとした。惨めったらしく、重い女を気取って、高に、最愛に縋り付こうとした。
でも、できなかった。
それは、体を巡る痛みがなくなったことで、キャパを超えた心身を守るためにシャットダウンする行為が可能になり、意識がだんだんと黒く塗りつぶされていたからか。それとも、高に依存し、優しい彼を縛ってしまうことの愚かさに気が付いたからか。はたまた、彼の出す、先程までの五月のポカポカとした陽気のような安心感とは対義の、どこまでも凍てついた虚ろなる、ただそれ故に限りなく恐ろしいオーラに気圧されたからか。あるいは、そのどれもか。
兎にも角にも、ミヤは高に何一つアクションを起こせないまま、一つのことに気付き、それと同時に自らの意識を漆黒に染めていった。
嗚呼、彼の笑みから感じた違和感。それはまるで今生に別れを告げたかのようなであった。
高は激怒した。怒髪天を衝くほどの、言いようのない憤怒の奔流はほんの一瞬のスキが高の魂に生じた瞬間、万物の存在を、それこそ己さえも許さない、一片の塵すら残さず、存在を抹消しようと千意思が体の支配権を奪い去り、自身の現在対峙している化け物よりも一層哀れな存在になり下がる。そんなビジョンがありありと浮かんでしまう。
その怒りは、無論、己の大切にここまで傷をつけたこの痴れ者に対する、腸が体内を動き回るヘドロのような灼熱の殺意が沸き上がるほどの怒り。そして、それと同等、いやそれ以上にミヤがこんなになるまで助けに来れなかった自分に、あまりにも無能な自分にどうしようもないほどに、嫌気が、吐き気が、激高の波動が、巨大な津波のように押し寄せていた。
兎にも角にも、今はその怒りを何かにぶつけないと、本当に飲み込まれてしまいそうだった。どうしようもなく八つ当たりがしたかった。
だから、ちょうどいい、八つ当たりしても文句のひとかけらも言われない、オロチが近くにいることに、高は一抹の歓喜を覚えた。細胞の一つ一つが血と暴力に飢え、されど憎き怨敵に喜びを覚えたことで加速する自己嫌悪が高の魂をどこまでも虚に堕とす。
今、自分はどんな顔をしているだろうか。どこまでも湧き上がる激情をあらわにした般若の顔か。八つ当たりの道具になってくれる敵の存在に愉悦する修羅の顔か。はたまた、怒りや喜びすら忘れ、心からドロドロと吹き出すヘドロの如き虚ろを纏った、人であることすらも忘れた化け物の顔か。
まあいい。いずれにしろ、目の前にいるあれの存在を否定しない限り自分の虚無は際限なく増え続ける。
「……なあ、君、何なん?いきなり出てきてわしの獲物搔っ攫って。……今すぐ消えてくれたら殺しはしないから、はよどっか行って、がっ!!?」
高と対するオロチは、高と違い純然たる怒りのみを言の葉に乗せ、苛立ちを露わにする。
だが、そんなことは高にとって大した問題ではない。オロチがその怒気を全て言い切る前に、疾風の如く一瞬でオロチに近づき、最速で掌底をその無駄に男前な顔面に叩き込む。
限界なく広がる蒼穹のような、蒼々とした揚力の奔流と共に、爆撃のようなけたたましい音が鳴り響き、オロチの体をボロ雑巾の如く吹っ飛ばすよりも早く、その顔面が四散し、大量の血と肉を撒き散らしながらオロチは首から上が丸々ない、まるでデュラハンのようになった。
高の個別異能『四神』。太古に存在していた、四体の神獣の権能を身に纏い戦うという芸のない異能。そして、『四神』のなかでも最大の攻撃力を備える『青龍』。司る権能は妖力を帯びたモノに特攻を持った蒼の波を打撃と共に放つというシンプル極まりないもの。
しかし、芸がないからこそ、シンプル極まりないからこそ、その異能を何年も突き詰め、鍛錬に鍛錬を重ね、修羅をその身に宿してきた高が放つその一撃は妖の最上の一角であるオロチをたったの一撃で粉砕するくらいの威力を得、さらに虚ろの影響か本来必要な「青龍」という短い詠唱すらも必要ない、正に鬼がかった破魔の異能へと昇華していた。
「………ぁっそ。あんたも敵なのね」
それがまともな生物ならば今の一撃で確実に命を奪えていただろう。だが、相手は断りの埒外に位置する異形、本来有限である妖力を無限に持った正真正銘の災害。それが、人の子の放った一撃ごときで敗れるはずもなく、オロチは瞬きのうちに自身の頭部を再生させ、剣呑な面持ちのまま心底残念そうにそう言った。
(やっぱり、早いな)
高は、はなから理解していたものの、改めて自身と対峙している相手の反則じみた力に敵ながら感嘆を覚える。
相手は間違いなく百鬼の上位、それも序列10番内に入る本当の猛者だろう。肌がちり付き、明確な殺意を感じ取る。ほんの一瞬の思考が、あっさりと命を持っていく。明らかな格上。
いや、それでいい。
なぜなら、それぐらいじゃないとすぐに壊れてしまうから。すぐに虚ろのぶつけ先を見失ってしまうから。相手が格上であるくらいが、今の自分には都合がいい。
高は絶命の不安など一片も抱えていなかった。ただ、オロチを殺したいから殺す。大義も名分も、今の高には存在しない。己の世界にいるのは自分とオロチ、自分と敵だけだ。
故に高は、再び拳を放つ。『青龍』を纏った、最高の威力を帯びた、されど何のひねりもない愚直な攻撃だ。
一撃目の完全なる不意打ちならまだしも、しっかりと待ち構えたオロチにとってその拳を避けることは、飲み屋街の酔っぱらいを避けることより造作もなかった。そして、さらには豪速のまま飛んでくる高の拳を軽々と掴み、そのまま引きちぎろうと、龍の如く鋭く尖った爪をその筋肉で隆起した腕に突き立てる。この時点で、オロチはまだ気づいていなかった。高がただのキレ散らかした小僧ではないことに。高が、鏖妖組の頭取を務めるほどに強く、理性に満ちた青年であったことに。
高の理性は、戦いの記憶は虚ろに吞まれても消えることはなかった。今の『青龍』を込めた拳は敵の攻撃を誘うためのブラフ、妖力も最低限しか込めていない。そして、それに喰いついたオロチは、高を掴んだ腕を掴み返されて、彼の人間離れした膂力で、その大男といっても差支えがないほどのガタイの良さを誇るオロチの体を軽々と持ち上げられ、冷たい岩の床に叩きつけられた。
『青龍』こそ込められてはいないものの、オロチの重さと高の力、そして重力によりかなりの威力がオロチを襲い、さらにその衝撃とオロチの質量に地面が悲鳴を上げ、岩はひび割れ幾片もの石の欠片が四方八方に飛び散る。
その石片すらも高は攻撃の手段とした。オロチは投げられた衝撃で高の腕を離したというのに、高は未だにガッチリとオロチを捕獲したまま、反対の腕で片っ端から飛んでいる石片を鷲掴み、タガが外れて常人のそれをゆうに越えた握力でそれを握りつぶす。そして、無数の小石となったそれをオロチの顔に爆発的な膂力で投げつける。
当然、オロチは散弾銃の如きその小石に目を潰され、頑丈なその顔をも再びぐちゃぐちゃにされる。
しかし、高の勢いは劣えることを知らない。一時的ではあるものの完全に視界を失ったオロチには、多分な隙が生じ、それを見過ごすほど高は無能でも優しくもなかった。
彼は、人型の生物を殴るのに最も適した体勢、マウントポジションを取ると、そこから続けざまに顔、首、両肩、胸、鳩尾の全てに『青龍』を込めた最大攻撃力の一撃を沈める。
オロチの上半身はもはや原型を留めておらず、無数に咲く赤い華と肉片が転がるのみであった。
そんなあまりにも猟奇じみた光景を見ても高は、なんの感慨も浮かぶことはなく、その心にあるのは虚ろと、一抹の違和感であった。
(核が消えても再生する?)
そう、高は先程のラッシュで確実にオロチの再生の核を通した感触があった。しかし、『青龍』によって上半身をミンチにされ核がない妖ならば確実に絶命するという段になっても、オロチが死に絶えることはなく、さらには今も何処かから妖力のパスを受け取って散らばった肉肉が再生のために揺れ動いている。そして、その事態の原因を見極めることができないままオロチが腹、胸、首と段々とその形を定めていき、いよいよ頭部が復元され……
「去ねや、小僧」
ここまで好き勝手やってくれた無法者に、鉄槌を喰らわすが如く灼熱を超えて逆に凍えるくらいの怒りの眼差しと、声音に潜む若干の快楽をぐちゃまぜにした末に完成した純然たる殺意。それが大量に込められた一刃の水の刃が高の全くの死角から迫る。
常人の反射速度では反応するよりも早く胴と首が泣き別れすであろう一撃。そして例え、熟練した異能者が気付けたとしても、並大抵の防御では常人と同じ最期を迎えるであろう、正しく死の刃。
しかし、現在ゾーンの真っ只中であり、自身の異能の影響で知覚能力が大幅に向上していた高にとっては、その攻撃を受け止めるのは難しいことではなかった。高は、水の刃に一切視線を向けることなく『玄武』を行使。彼の周りの岩を瞬く間に変成させて、高と刃の間に大きな隔たりを作る。
直後、刃と岩の壁が接触し爆音と大量の石片をまき散らす。が、刃の威力は段々と衰えていき、岩の壁を削り切る前にただの水として床を濡らすだけだった。
そして、その役目を終えた岩の壁を生き物のように操り再びただの床とした高が見る先は、水の刃が飛んできた方向、そこに万物の存在を否定するような鋭い目つきを向け、そして、ようやっとオロチの核の存在場所について一つの仮説が立った。そこにいたのは、一匹の黒い龍。高の身長を優に超え、太さは丸太ほどにもあるその蛇のような見た目は、人の根源的な恐怖を掻き毟るようだった。
さらには、高の常軌を逸した知覚能力がオロチとその黒龍との間に妖力のつながりがあり、黒龍にも再生の核らしき妖力の溜まり場が存在するという、知ることすら恐れる事実をどんどん明かしていく。
正直信じたくないが、オロチは再生の核が複数存在しており、それを全て同時に破壊しないとオロチはその肉体も、破壊された核でさえ再生してしまうようだ。その証拠に、自身の下にいる先程まで妖力をもらうだけだったオロチの体から、新たな妖力の流れを感じる。これが、恐らく復活した核だろう。
何をどう考えても、一人で対処できる問題ではない。
高は、百鬼の最上級、それらの生物の圧倒的な格の違いを知り、愕然し、戦慄し、そして、歓喜した。
やはり、この化け物は高が見込んだ通りの生物の理を大きく超越した存在だと、自分に気の済むまで暴虐の限りを尽くさせてくれる存在だと。死神がすぐそこで刃を構えているという究極のスリリング。修羅の巷を己が拳のみで切り開く爽快感。生物の体に最大限の暴力を施すという人としての禁忌を犯すときの背徳感。
高は、初めて己の本能を解放し、戦闘を心の底から楽しんだ。
「いつまで、乗ってんの?下賤な餓鬼が」
高が、人間に近い姿したオロチに向き直ったところで、どうしようもなく眼前の高を消去したいという望みが含まれた声と共に、オロチの人間のそれよりも断然鋭い犬歯をむき出しにした口から、衝撃波のような極大の威圧感を帯びた、空気の暴力が高の肉体を襲う。
異能により人間の限界を容易に超えるほどの強化を施した彼の肉体の前では、その攻撃は少し痛いだけの風のようなものであったが、その風が一瞬の隙を作り、その隙が今まで高の一方的な暴力でなんとか成立していたこの戦いの流れを完全に乱した。
「ぐっ!」
その隙を縫って、高の目の前から突然先程の個体とは少しの差異が見られる黒い龍が彼の喉元に食らいつきその首をねじ切らんとするように、その強大な顎を開き急速に迫る。
咄嗟に『玄武』を使用して空気の障壁を作り、直撃は下げられたものの、その雷の如き超速を帯びた長大な飛行物体が空気ごときで止まるはずもなく、高の体は障壁ごと後方へ吹っ飛んでしまう。
岩壁に体を強かに打ち付け、接触の瞬間体内の空気が余すことなく体外に放出され、脳が反射的に呼吸を求める。
「ヒュウッ!!」という、力強い呼吸の後、決して万全とは言い難い体を無理矢理動かして、空気の障壁を打ち破っていよいよ高の命に鎌をかける黒龍を、最大に近い威力を込めた『青龍』で一撃のもと核もろとも粉砕した頃には、圧倒的な絶望の嵐の準備が整ってしまっていた。
段々と溜まってきた肉体の疲労がプレッシャーが、高の息を肩を上下させるほどに上げ心の臓を高く打ち付ける。されど、オロチの攻撃の流れは止まることを知らなかった。
高の眼前には三体の黒龍。その全てがオロチの一部であり、究極の化け物であった。その三体の顎が一斉に開かれ、一体は大量の質量と速度によりあらゆるものを貫き通す槍となった水の光線を射出し、一体は鉄すらも瞬きの間に液体にするほどの地の獄の煉獄を吐き出し、そして最後の一体は反撃の余暇すら与えないほど圧倒的な威力と量を誇る木枯らしのように生命を段々と削る風の刃を放った。
「っがあああああああぁぁぁぁ!!?」
気味が悪いほどの、桁違いに濃密な暴力の嵐。
量も質も兼ねたその完璧を体現したような攻撃に、高は数えるのもおこがましいほどの障壁を一瞬で展開し、それでも間髪を入れずに破壊されていくそれを片っ端から修復し、どうにか絶命を避ける。しかし、その無数にも思われる障壁を抜けてきた水の槍が、地獄の業火が、大量の風刃が高の命をガリガリと容赦なく削り、三匹の龍が攻撃を止めた頃には、高の体の至る所に裂傷が広がり、血は豪雨の末にできた水溜りのような大きな血だまりを作っていた。
たった、一瞬の出来事。それでこの惨劇。そしておそらく、オロチは未だ本気のほの字も出していない、耳元に湧いてきた五月蠅い羽虫を払うかのような感覚で先程の攻撃を行ったはずだ。
格の違いどころか比べるのも烏滸がましいくらいの決して超えることのできない壁があった。高は今ここに至って、ようやく自分が喧嘩を売った相手の実力を知る。
絶望。通常の人ならば、その感情が心身を支配して行動ができないままに四散させられるか、逃げを試みている間に捻りつぶされるであろう。だがやはり、高は違った。彼は鏖妖組の頭取として誰よりも気高い魂を持ち、現在は虚ろに飲まれて八つ当たりのことしか考えていない。
勇気と狂気、そして、鍛え抜かれた肉体と異能が彼に活力を漲らせ、鼓動を上げ、血の巡りを速め、その地に濡れた拳を強く握らせた。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!」
防戦、そんなものは臆病者のことがやるものだ。そんな脳筋じみた考えを体現するかのように高は、死を凝縮した末にできた存在とすらも思える黒龍を従える化け物に猛スピードで突貫していった。
「もう諦めたん?……まあええか、じゃあ死ね」
血だらけで愚直に特攻してくる高の姿に、オロチは一抹の違和感を覚えるが些末なことと投げ捨てて単なる自殺行為と考えた。そして、死にかけに何の慈悲もなく最大限の致死のこもった水、炎、風の三属性の破壊の息吹が高にもたらせる。
圧倒的な質量、そして、考えられる対処方法がバラバラの属性の攻撃。これを対処することなど無謀に等しい。故にオロチは少しの驕りを持ってしまった。そして二つの間違いを犯した。一つは、高は別に死にたがっているわけではないということ。二つは、高に二度全く同じ攻撃をしたこと。
高は、水の光線を『玄武』によって作った岩の壁、その形を精密な妖力操作で変化させることで水を受け止めるのではなく、受け流し石の壁が崩壊するのを防ぐ。さらに、灼熱の煉獄を『玄武』で最高級の固さを誇る障壁で止め、それでも、人智を超える煉獄の威力によって結界が破壊されるまでに洞窟内に転がる手頃な石を拾い、最高速でそれを打ち出す。『青龍』を込めたそれは吸い込まれるように煉獄を吐いていた黒龍を破壊し大量の肉片を撒き散らす。最後に、高の命に手をかけた風の刃を片っ端から『白虎』で撃ち落としていく。
四神がうち武を司る一柱『白虎』。その権能は使用者の知覚能力の大幅な向上、そして、現存する全武術の行使、即ち訓練もせずに周囲のことをすべて感じ取れて、この世のありとあらゆる武術の達人になれる、そんなチートじみた能力である。
これにより高は、視覚は暗い洞窟内でも昼間のように見えて、さらに時間が引き伸ばされたように全体がゆっくりとした動きとなり、聴覚は自分のそして他人の鼓動や筋肉の弛緩または緊張の音を聞くことも容易となり、そして研ぎ澄まされた触覚が、この洞窟内の気配を、妖力の流れを寸分の違いもなく鮮明に読み取ることができるようになった。
そして、手に取るように分かる風刃の動きを流れる川のように緩やかな拳法で捌いていく。その様は、まるで一つの舞のようなそんな美しさを帯びており、それと同時に、何をしても高には効かないのではないか、そんな人外の強さを持った人に対する薄ら寒い恐怖も含まれていた。
事実、高の動きは最早挑むことが自殺と同義であるオロチと同等、否それ以上の魔性の強さを誇っており、一歩また一歩と風の刃を捌きながらオロチに近づいて行った。
いよいよ、おおよそ二メートル、剣道でいうところの一足一刀の間合いにまで高が接近し、オロチに何千年ぶりの緊張がほんの僅かにでも走った直後、それは起こった。
今まで、高の横にあった水の光線を受け流す岩の壁が、素早い妖力の起こりと共にその形を歪ませ、曲がりに曲がった水の光線が、それを放った黒龍に衝突し、その丸太のように太い体躯が半ばから断たれる。そして、その一瞬の出来事に意識を奪われた風刃を放つ黒龍が、その隙を突かれ三メートルほどあった距離を縮地で刹那で詰め、その化け物じみた速度を味方につけた爆発的威力のまま核を『青龍』で穿つ。あまりの破壊力に周りの部位がはじけ飛ぶこともなく、ただ蛇のような肢体のおおよそ中心のところだけが超電磁砲で射抜かれたように穴が開くのみであった。
ガッ!!!と遅れて黒龍を穿った音が洞窟内に響く。そして、その音の原因にオロチが目を向けたとほぼ同刻に、再び縮地で尋常じゃない速度でオロチの背後に移動した高の己とオロチの血で真っ赤に染まった拳に彼の史上最強の威力の会心の『青龍』を纏わせて、オロチの胸を、再生の核を破壊した。




