祝賀(前編)
第8章「祝賀」(前編)
話は少し前に戻ります。
ーーー天正3年(1575年) 四国ーーー
この頃,四国の“土佐(高知県)”を統一した“長曽我部元親”という武将がおり,彼は次々と国々を治めようとしていた“信長公”に「この御方に従う事が得策である。」と考え,長男“弥三郎”の烏帽子親を務めてもらうおうと使者を派遣します。
[*烏帽子親・・・武家社会において男子が“元服“を行う際,特定の人物に依頼し“仮親”となってもらい,当人の頭に烏帽子を被せる役を務める人。当時それが通例とされたそうです。]
交渉は成功,“信長公”は“弥三郎”に一字与え“長曽我部信親”と名乗るよう返書を送り,“長曽我部元親”に“阿波”での在陣を認め,「四国は切り取り次第,所領とすべし」という“朱引状”を出しとされます。
天正8年(1580年)6月,“元親”は“信長公”のもとへ使者を派遣,“阿波岩倉城の三好康俊”を服属させた事を報告,“阿波平定”の為,康俊の父“三好康長”が長曽我部家と敵対せぬよう働きかけてもらう旨を依頼し,“信長公”より了解を得ます。
“明智光秀”が“長曽我部元親”と“信長公“の交渉窓口を任されていたとされ,“信長公”は初めこそ四国平定を認めつつも,いずれ“元親”とその勢力が脅威になると判断,四国征伐を決定し方面軍を組織。
“長曽我部元親”も四国は自らの力で平定した事であり,幾度かの強制的な領地没収に不満を抱くも“明智光秀”の懸命な交渉と説得で我慢していましたが,四国征伐を聞き“信長公”と対峙します。
両者(“信長公”と“元親”)の関係は悪化,“明智光秀”はかなり苦しい立場に立たされる事となります。
ーーー時は流れ,天正10年(1582年)3月ーーー
織田軍は甲州の“武田勝頼”を討つべく進軍,十兵衛様もこれに従い甲州へと向かいますが,織田家重臣の1人,関東方面軍を任されていたいた“滝川一益”様が“天目山の戦い”にて武田軍を破った一報を聞き,途中で“信長公”一向と安土城へ帰陣。
“武田”を“織田“が倒した事で“信長公”の名はさらに知られる事になります。
安土城にて織田家重臣の“柴田勝家”様,“丹羽長秀”様,“滝川一益”様,そして“十兵衛”様らが集められ,武田を討伐した祝いに盛大な祝賀を催す事を“信長公”より告げられます。
この時,“信長公”は皆で食す祝いの御膳と祝賀の席を任せる旨を十兵衛様に命じられていましたーーー。




