軍事と政略結婚
軍議の間は、昼を越えて開かれた。
重厚な黒木の円卓。その周囲には魔族の将軍たちが肩を並べていた。皆、一様に険しい表情。開口一番から、声を張り上げる者がいる。
「我らが姫を殺した王国に、慈悲は不要! 今すぐ進軍の命を!」
「待て、我らの軍も限界はある。消耗は既に大きく、補給も滞りがちだ。このままでは共倒れになる」
「だが、このまま退けば、姫の名誉はどうなる! 死者に顔向けできぬぞ!」
将軍たちの声が飛び交い、議場は喧々囂々とした雰囲気に包まれる。誰一人として、決定的な一手を持っていなかった。
やがて、重く閉ざされていた扉が音を立てて開いた。
場が静まり返る。
その静寂を引き連れて現れたのは、魔王。そして彼に寄り添うように歩む一人の少女と、その背に控える青年——スゥとユーリである。
「……!」
ざわり、と場が揺れた。将たちの目が、少女に集中する。誰もが、一瞬にして悟った。死んだはずの魔族の姫——スゥが、そこにいる。
「あれが……」
「まさか、本当に……」
多くの視線がスゥに集まり、そして、その隣に立つユーリを睨みつけた。彼の存在は、あまりにも異質だった。魔族ではない。敵であるはずの王国の人間。しかも姫と並び立つなど、到底受け入れ難い。
「なぜ、敵がここにいる」
誰かの低い声が漏れる。だが、それに応じるように一歩前に出たのは、スゥだった。
「……彼は、敵じゃ……ない」
その声は小さく、けれどはっきりと響いた。
「わたし……記憶をなくしてた。でも……この人に……助けられて……守ってもらって……ずっと、そばにいてくれた」
少女の瞳は、誰よりも真っすぐだった。
「……ユーリがいたから……わたし……ここまで来れた。……だから、お願い……敵とかじゃ、見ないで……」
言い終えると、スゥは魔王の方を見た。その視線を、魔王はしばし静かに受け止めていた。
「……ふぅむ……」
わざとらしく咳払いを一つ。だが、その端正な顔に、ほんの一瞬だけ困ったような笑みが浮かぶ。軍議の場では考えられぬほど、柔らかな表情。
(儂の……すぅちゃんが……人前でこんなに話して……! やっぱりあの男の影響か……いや、待て、それってやっぱり、あの男を消せば……)
ちら、とユーリを見やる。途端に、表情が僅かに険しくなる。
(だめじゃ、それは……スゥちゃんに嫌われてしまう……)
視線を外し、ため息をついた。軍議の間を埋める静けさの中、魔王はゆっくりと立ち上がる。
「——我が娘・スゥは、生きていた」
その言葉が全てを変えた。
「戦の発端は、王国による“誤解”にあった。だが、それはスゥ自身の記憶の喪失に起因する。つまり、意図して姫を害したわけではない」
将たちの顔に驚きと動揺が浮かぶ。
さきほどまで喧々囂々としていた軍議の空気が、まるで水を打ったように静まり返る。誰もが、魔王の次の言葉を待っていた。
「……戦争をこのまま続けることに、私は乗り気ではない」
魔王は低く静かな声で切り出した。威圧ではなく、苦悩を含んだ口調。スゥが、その隣でわずかに目を伏せる。彼女は父の声の調子から、その胸中を察していた。
「だが、我々が手を引けば、王国が付け上がると考える者がいるのもわかっている。簡単に答えを出せる状況ではない」
魔王はゆっくりと立ち上がり、議場を見渡した。集まった将官たちが黙ってその言葉に耳を傾ける。
「……それでも、私は一つの方法を考えている」
その声にざわめきが広がる前に、魔王は続けた。
「戦争を終わらせるために、王国との血の交わりを提案したい」
場が静まり返った。
「つまり、政略結婚を、ということか……」将官の一人が小さく呟いたのが、静寂の中でくっきりと響いた。
魔王はその言葉に頷き、少し言い淀んでから、静かに語った。
「我が娘、スゥを……王国の貴族の家に嫁がせる」
スゥの肩がピクリと震えた。その手が無意識に拳を握る。隣に座っていたユーリは、その変化を敏感に察し、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
魔王は言葉を続けたが、娘をそうして「使う」ことに対する葛藤が、声の端々に滲んでいた。
「スゥの婚姻が、もし王国と我々の架け橋となり、血を流す未来を防げるのなら……父としての私ではなく、王としての私が、それを選ばねばならぬ」
視線をスゥに向けた魔王は、一瞬だけ言葉を詰まらせる。そして、深く息を吸い込んでから告げた。
「だが――これは命令ではない。スゥ、お前が受け入れられないなら、私はこの案を取り下げる。そして、王国との戦争を……続ける」
提案を口にした直後の魔王は、誰の声も許さぬようにじっと口を閉ざし、瞳だけが娘と――スゥと向き合っていた。
その視線を正面から受け止めるには、スゥの心はあまりに繊細で、揺れていた。彼女は何も言わず、ただ目を伏せたまま立ち尽くしている。彼女の小さな手を、ユーリはそっと包み込んだ。
静かに、魔王が口を開いた。
「……スゥ。お前が望まぬのなら、儂は無理にそうしろとは言わん。だが……それでも儂は……」
言い淀みながら、魔王は一瞬だけ、視線を宙に漂わせる。思考の海の底で、言葉をすくいあげようとするかのように。
「儂は……お前を再び失いたくはないのだ。国のためなどと言えば、それまでだ。だが、本当は、父として……お前のために何ができるか、そればかりを考えてきた」
スゥはゆっくりと顔を上げた。揺れる瞳で父を見つめ、そして一歩、ユーリの隣から前に出る。
「……戦争を、終わらせたい。……でも、それで……誰とも知らない人のもとに……行くのは、いや」
言葉を選ぶように、スゥはぽつぽつと、しかし確かな意思で続ける。
「……わたし……お父様の娘で……でも、いまのわたしは……ユーリと一緒にいて……すこしずつ、変わった」
小さな沈黙。スゥの呼吸がわずかに乱れる。ユーリの方を見やって、そしてまた父をまっすぐに見た。
「……誰かと結婚しなきゃいけないなら……わたし……ユーリが、いい」
その言葉に、魔王の顔がわずかに動く。
娘の口から出た名前が、自分の提案に応じてではなく、心からの選択として語られたことに、魔王は一瞬言葉を失った。
「……スゥ」
ユーリはスゥの隣に歩み寄り、彼女の横に立つ。そして、魔王に対してはっきりと告げた。
「スゥを誰かのための駒にはしません。ですが、スゥ自身が俺を選んでくれるのなら、俺は……彼女をこの先も、守り抜きます」
その声に、魔王は瞼を閉じたまま、しばし沈黙した。
やがて、静かに息を吐き、再び目を開いた時、その表情には、重みの中に柔らかさが滲んでいた。
「……スゥ。お前の選んだ道なら、儂はそれを否定せん。……それがどんな困難であろうとも、信じて見届ける」
スゥは目を見開き、そして頷いた。
「……ありがとう。お父様」
「……ふっ」
魔王は肩の力を抜くと、背もたれに深く体を預け、長く息を吐いた。
「……和平のための道が、こうして開かれるとは……皮肉なものだな」
その言葉に、誰も応じることはなかった。ただ、静けさだけが部屋を満たしていた。
だが、その沈黙の中には確かなものがあった。
断ち切られるべきではなかった縁が、ふたたび結ばれた。たとえそれが戦争の只中であっても、心と心の絆が新たな希望となる――その始まりだった。




