第二章 学園生活の開始と金と銀の出会い
王立魔術学園――それは王都の中心にそびえ立つ白銀の塔と、広大な緑の庭園に囲まれた、王国屈指の教育機関であった。
この場所に足を踏み入れることが許されるのは、王族や高位貴族の子弟、あるいは選ばれた魔術の才能を持つ者のみ。
平民では到底近づけぬ、雲上の学び舎。
その学び舎の一角、初等上級課程の教室へと、ユーリは静かに歩を進めていた。
入学式を終えたばかり。制服の襟を軽く直し、深呼吸を一つ。
緊張と期待が入り混じる胸の高鳴りを押さえながら、重厚な木扉の前に立つ。
(……よし、落ち着け。ここからが、本当の始まりだ)
意を決して扉を押し開けた、その瞬間――
「――きゃあっ!? な、何してるのよ、この変態っ!!」
耳をつんざく叫び声と同時に、視界がぐらりと揺れる。
「うわっ……!」
思わず体が傾き、支えを求めて手を伸ばした。
次の瞬間、掌に伝わるのは、信じがたいほど柔らかで弾力のある感触。
(……え、まさかこれって――)
視線を向けた先、そこにいたのは――
黄金の髪が陽光のように揺れ、琥珀色の瞳が烈火の如く怒りに燃えていた。
端正な顔立ちに宿るその怒気は、教室の空気を一瞬で凍りつかせるほどだった。
「……あなた、何者?」
静かに、それでいて刺すように鋭い声が飛ぶ。
「リディア=アーデルレイン。王国第八公爵家の令嬢よ。まさかとは思うけど……平民じゃないでしょうね? 平民なら、今すぐひざまずきなさい」
教室中が水を打ったように静まり返る。
視線が一斉に集中し、ざわめきさえも凍りついた。
ユーリは内心、頭を抱えた。
(よりにもよって、公爵令嬢に胸から突撃するなんて……初日から最悪すぎる)
「あ、あの……ユーリ。ユーリ=アルシェリア。えっと、伯爵家の三男で……」
「ふん……まあ、多少は身分があるのね。なら覚えておくわ、ユーリ。――あなたのこと、絶対に忘れないから」
皮肉な笑みとともに、リディアは優雅に髪をかき上げた。
その日一日、リディアの視線は冷たかった。
授業中も、ユーリが発言するたびにため息をつき、視線を逸らす。
にもかかわらず、その態度とは裏腹に、彼女の魔術の腕前はまさに圧巻だった。
小さな詠唱で展開される精密な術式。
指先から生まれる魔力は、まるで宝石細工のように美しく洗練されており、講師陣さえも一目置くほどだった。
(すごい……魔力の流れが、まるで淀みがない。まるで、生まれた時から魔術に愛されているみたいだ)
だが、そんな完璧な仮面の裏側に――ユーリはふと、隙を感じた。
休み時間、隣の席でユーリが何気なく言った一言。
「その髪……光が差すとすごく綺麗に見えるな」
「っ……!」
ほんの一瞬、リディアの瞳が揺れた。
怒りでも、軽蔑でもない――戸惑い。
すぐに表情を取り繕うが、微かな赤みが耳朶を染めていた。
(……この子、本当は、ただ真面目なだけなんじゃないか?)
そう思った時、ユーリは少しだけ、彼女の怒りの裏にあるものを知った気がした。
厳しく、気高く、他人に弱みを見せない少女。
けれどその瞳の奥には、どこか不器用な優しさと寂しさが宿っていた。
放課後。
初日の授業を終え、ユーリはようやく一息ついていた。
机の上に筆記具をまとめていると、隣の席の男子が小声で話しかけてきた。
「なあ、お前……朝のアレ、すげー音だったけど、大丈夫だったのか?」
「え、ああ……うん、まぁなんとか」
ユーリは苦笑しながら頷いた。あの衝突は派手だった。しかも相手が公爵令嬢となれば、記憶に残らないわけがない。
「ってかさ、あの時……お前、リディア様の、こう……胸に――」
後半は声をひそめて、顔を近づけてくる男子。
後ろの女子たちまでが、興味ありげにこちらを見ている。
「ど、どうだった? やっぱ、すげぇ柔らかいとか……?」
さすがに質問の内容が内容だけに、ユーリは一瞬ためらった。
けれど、気が抜けていたのもあって、つい、ぽろりと口をすべらせてしまう。
「……うん、すごく……柔らかかった」
その瞬間――
「――は、はぁっ!? なにをヘンタイなこと言ってるのよ、あんたはっ!!」
雷が落ちた。
背後から響いた怒声に、全員が一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、他でもないリディアだった。
琥珀色の瞳を見開き、頬を真っ赤に染めて怒りに震えている。
「変態!最低!下劣!信じられないっ!」
「ち、違っ……いまのは、ちょっとその、言葉の綾というかっ!」
「綾じゃない!事実よ! ……ばかっ!」
ぴしゃりと言い放ち、リディアはそのまま足音も高く教室を出ていった。
後に残されたのは、しん……と静まり返った教室と、沈黙するクラスメイトたち。
「……わ、悪い。まさか聞かれてるとは思わなかった」
「いや、俺たちも悪かった。あんな話ふったせいだし……」
男子たちは気まずそうに頭をかき、女子たちもちらちらとユーリを見ている。
ある女子がぽつりとつぶやいた。
「リディア様ってさ、すごい魔術の才能あるし、美人だし、家柄も完璧だけど……」
「ツンツンしてるよな。誰にも心開かないっていうか」
「話しかけても、ほとんど目も合わせてくれないし……でも、あんな怒るとは思わなかったな」
「……もしかして、ちょっと気にしてたのかな?」
ざわざわと、クラスの中に交錯する声。
ユーリは椅子にもたれながら、天井を見上げた。
(……怒るほど嫌だったってことか。それとも――)
彼の胸に、ほんの少しの後悔と、拭えない違和感が残ったまま、学園初日の放課後は静かに過ぎていった。
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リディアとは、あれから顔を合わせるたびに衝突している。
軽口すらまともに交わせない。冷たい視線、尖った言葉。なのに、どこか心の奥では、また彼女と同じ場に立つのではないかと予感していた。
そして、その予感は裏切られることなく現実となる。
王立魔術学園の広々とした演習場には、午後の陽光が差し込み、柔らかな光が床の魔法陣を浮かび上がらせていた。ざわめく生徒たちの間には、興奮と期待が交錯している。今日は実技の時間。魔力の基礎訓練として、ペアで行う簡易魔法投射練習の日だった。
「本日の練習は、攻撃魔法の基礎動作『ライト・スパーク』です。ペアを組み、互いに向けて魔力制御の精度を高めるのが目的。過剰出力は厳禁、分かりましたね?」
教師の静かながら芯のある声が響き、全体の喧騒が収束していく。
指示が終わるや否や、生徒たちは自然と仲の良い者同士でペアを作り始めた。無邪気な笑顔、緊張した表情、遠慮がちな声が交差する中で、ユーリは静かに周囲を見渡した。
だが、次第に人の輪が完成していき――気づけば、場に取り残されていたのは、ユーリともう一人。
「……まさか、あなたとペアを組む羽目になるなんて」
冷ややかな声が降ってきた。見ると、金色の髪を揺らす少女――リディア・アルシェリアが、腕を組んだままこちらを睨んでいた。
その目はまるで氷の刃。拒絶と嫌悪が隠されることなくにじみ出ている。
とはいえ、その端正な顔立ちには凛とした気高さが宿り、否応なく目を引かれてしまう。冷たさすらも美しさとして昇華してしまう彼女の存在に、ユーリは心の奥が軽く疼くのを感じた。
「俺も……なるべく失礼のないようにするよ。迷惑はかけないように気をつけるから」
できる限り丁寧な口調を選んだつもりだったが、リディアは明らかに苛立ちを募らせ、ふんっと鼻を鳴らした。
「ふん。前回の“事故”がまだ忘れられないの? ……胸を掴まれた女の気持ちなんて、あなたに理解できるはずもないでしょうけど」
小声ながら、棘のあるその言葉は鋭く胸を抉るように刺さった。
リディアの頬に微かに朱がさしたのを、ユーリは見逃さなかった。しかしそれも、羞恥よりも怒りの紅潮のように思えて、何も言えなかった。
(……そんな事言われたら、余計に思い出しちゃうじゃないか……いや、今は集中だ)
ユーリは内心を振り払うように小さく頭を振った。今は演習に集中しなくては。
互いに距離を取り、魔力の波長を合わせるために呼吸を整える。演習場の空気は、ピンと張り詰め、緊張感が場全体を支配していた。
「じゃあ、始めるわよ。……無様な姿を晒さないでちょうだい」
先に動いたのはリディアだった。
細い指先がすっと前に出され、詠唱と同時に空気が微かに振動する。彼女の掌から生まれた光の球体は、まるで星の欠片のように美しく、安定して輝いていた。
その動作には、淀みも迷いもなかった。魔力の精度、詠唱の流れ、出力の制御――全てが高次元で調和している。
(……やっぱり、すごいな)
ユーリは素直にそう思った。
リディアはただの貴族の令嬢ではない。真剣に魔術と向き合ってきた者の動きだった。
「次はあなたの番よ。さあ、見せてちょうだい」
挑発めいた笑みを浮かべながら、リディアは一歩下がった。その目にはどこか期待と嘲りが入り混じっている。
(大丈夫。魔法は練習した。今度こそ、胸の件のような失敗はしない……)
ユーリは深く息を吸い、意識を魔力の源へと沈めていく。
だが――彼はまだ知らなかった。
自分が持つ魔力が、常人のそれとは桁違いであることを。
女神から授かったその力は、あまりにも強大で、あまりにも繊細だった。
「――っ!?」
詠唱の最終節を唱え終える瞬間。魔力の流れが突然、脈打つように膨れ上がり、ユーリの手元から放たれた光球が――
軌道を逸れ、リディアのスカートの裾をかすめた。
火花が散り、白い布地がかすかに焦げる。立ち上る煙と、嫌な焦げ臭さ。
次の瞬間、演習場の空気が凍りついた。
沈黙――
「……っ、ちょっと、何してるのよ!?」
リディアが跳ねるように一歩退き、焦げた布を両手で抑えながら怒声を上げた。
「ご、ごめんっ! 本当に、狙ったわけじゃなくて……!」
ユーリは慌てて頭を深く下げた。声は震え、心臓が嫌な音を立てている。
けれど、リディアの怒りはすぐには収まらなかった。
彼女は怒りに震える肩をぎゅっと抱きしめ、睨みつける瞳に悲しみすら浮かべて――
「……最低。あなた、本当に……どうして学園に入れたの?」
その一言は、冷たい氷刃のようにユーリの胸を切り裂いた。
弁解する言葉は、喉まで出かかったが、口から出すことができなかった。
彼女の言葉は、ただの怒りではない。羞恥と、期待の裏返し。もしかしたら、ほんの僅かでも彼を認めかけたことへの裏切りのような、そんな複雑な感情が滲んでいた。
リディアはくるりと背を向けると、言葉もなく演習場の出口へと足早に去っていった。
残されたユーリの手の中には、まだ暴走した魔力の残滓が、じんわりと痺れるように残っていた。
(……また、やってしまった)
ただ、それだけが、胸の奥で繰り返し鳴り響いていた。
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<リディア視点>
焦げたスカートの裾を手で払うと、焦げた布の臭いが微かに鼻をついた。リディアは眉をひそめ、すぐさま顔を上げる。
目に映るのは、慌てふためき、頭を下げるユーリの姿。
「……最低。あなた、本当に……どうして学園に入れたの?」
口にした瞬間、自分でも思った以上に強い語気に気づいた。だけど、すぐには引き下がれなかった。
(また……また私、あの時と同じ。あんな、みっともない……!)
心の奥底で、あの日の記憶がよみがえる。偶然とはいえ、胸元を掴まれたあの事故。あの時、周囲の視線を浴びた恥ずかしさと混乱。そして、何よりも、動揺した自分の弱さ。
それを忘れようとしていたのに――また彼に、同じような羞恥を味わわされた。
(……あれはわざとじゃない。そんなこと、分かってる……。でも、どうしてあなたは、いつも私の――)
思考を断ち切るように、踵を返して歩き出す。怒りに任せていたが、歩を進めるごとに、胸に渦巻いていた感情が形を変えていく。
(……ほんの一瞬、魔力の軌道が乱れた。それだけ。そう、ただの失敗。でも、それでも……私の中で、あんなに動揺するなんて)
演習場を出て、校舎の影に入ったところで立ち止まる。誰もいないのを確認し、背を壁に預けるようにして息を吐いた。
(あの時も、今日も、私が過剰に反応してるだけかもしれない……でも、嫌だった。本当に怖かったの。ふざけてるわけじゃない。――でも、言いすぎた……)
リディアは自分の手を見つめる。美しく整えられた白い指先。それがわずかに震えていた。
(……もう二度と、同じことを繰り返させない。それに、私のプライドだってある。あんな……ふにゃふにゃした謝罪で、許せるはずないじゃない)
だけど。
心のどこかで、ユーリのあの慌てた表情が焼き付いて離れない。悪気がなかったのは、あの眼差しを見ればわかった。
(ほんの少しだけ、ほんの少しだけ……可哀想だった、かもしれない……けど、だからって――)
リディアはぶんぶんと首を振ってその考えを振り払った。
「な、何考えてるのよ、私!」
そう叫んでから、もう一度だけ、焦げた裾に視線を落とした。
(……次は、私のほうが一矢報いてやる。あんな中途半端な謝罪じゃ足りない。私の気が済むまで、償わせてやるんだから……)
プライド、羞恥、そしてほんの微かに芽吹いた、自分でもまだ気づかない感情――リディアの心は、静かに波立っていた。