十
アイリータが堪りかねたように、理恵太に話し掛けた。
「ねえ、何を探しているのよ?」
理恵太は答えず、指先を装置のあちこちに指差しながら、計器を覗き込む作業をやめない。
やがて、指先がぴたりと止まった。
晴々とした顔つきになる。
「あった! この制御盤で、中央指揮室を攻撃できるわ」
億十郎とアイリータに振り返り、にやりと自信たっぷりな笑顔を見せた。
「ちょっと汚い手だけど、他にいい作戦はないしね!」
理恵太は猛然と制御盤に向かい、無数の釦や、取っ手を動かし始めた。理恵太の手許を覗き込んだアイリータは、急に得心が行ったのか「けけけけけ!」と聞こえる笑い声を上げた。
すっかり置いてきぼりにされた億十郎は、むっつりと黙り込んだ。億十郎の気配に、アイリータが顔を向け、説明しようと口を開く。
その時、中央指揮室の方向から、恐ろしい悲鳴が聞こえていた。悲鳴は、ひどく慌てているようであった。
「やめろっ! すぐ、やめろっ! た、頼む……。こんな汚い手、卑怯だぞ……!」
二十六号司令官の声だった。声は、なぜか啜り泣いているようであった。
億十郎の鼻に、ぷーんと異臭が漂った。何だか、ひどく懐かしい匂いである。
アイリータに、億十郎はおずおずと尋ね掛ける。
「さっぱり何が起きているのか、見当もつかぬが、説明してくれぬか?」
うずうずと笑いを浮かべながら、アイリータは口を開いた。
「あのね、司令官って、とっても、綺麗好きなのよ。潔癖症といっても良いわ。あの白い制服は見たでしょ? とにかく、汚れるのが大嫌いで、他人の触ったものに手を触れるのさえ、嫌がるの」
「はあ?」
億十郎は理解できず、相槌を打つだけだった。アイリータは億十郎の耳に口を寄せ、理恵太の作戦を細かく説明してくれた。
「ね? 良い作戦でしょ?」
悪戯っぽく頷くアイリータに、億十郎は思わず吹き出していた。
「な、なるほど……確かに、汚い手で御座るな!」
理恵太は顔を挙げ、叫んだ。
「行きましょう! 今なら、司令官は完全に戦意喪失してる頃だわ!」
ぞろぞろと一同は鎧戸に向かう。
鎧戸に近づくと、異臭は、さらにひどくなった。億十郎にとっては、嗅ぎ慣れた匂いである。
下肥の匂いだ。
江戸では当然のことながら、汲み取り式の便所が使われている。江戸近在の百姓と契約した汲み取り業者が定期的に下肥を汲み取ってくれるから、実際には、そう大量に溜まるという不都合はない。
下肥は百姓にとって、貴重な肥料となるので、年末にいくばくかの礼が寄せられる。と言っても、野菜や、果物、味噌、醤油などの現物であるが。江戸においては、下肥は、決して垂れ流しするようなものではなかった。
指揮所では、水洗式の便所が使われている。
理恵太の仕出かした作戦は、それらの下水を、中央指揮室に直結して、防火噴水器から撒き散らしたのであった。
「これは、堪らぬな!」
目を突き刺すような、濃い阿摩尼亞異臭に、億十郎は顔を顰めた。なるほど、これでは綺麗好きの司令官にとって、死ぬより辛い攻撃であろう。
理恵太は、閉まっている鎧戸に向かって叫ぶ。
「開けなさい! 今すぐ開けないと、もっと酷い攻撃を仕掛けるわよ!」
微かな唸り声とともに、鎧戸がゆっくりと開いて行く。もわっとした異臭が漂い、指揮室の全景が広がった。
中央指揮室とは、最初に見た司令室とよく似た造りになっているが、あれほど大勢いた部下たちは、一人も見かけなかった。アイリータの放送で、全員が逃げ出してしまったのだ。
残されているのは、二十六号司令官ほか、数人の司令官の姿である。
真っ白な制服だけが、広々とした指揮室に点在し、呆然とこちらを見ている。制服には無数の汚れが付着していた。全員、すっかり参っているようであった。
機関銃に取り付いているのは、二十六号司令官だ。胸に「26」と番号があり、右手には白い包帯が巻かれている。がっくりと項垂れ、ひくひくと肩が震えていた。
億十郎らの足音に、二十六号司令官は顔を上げた。
二十六号司令官は、泣きそうな顔になっていた。蒼白な顔に、べっとりと汚物が張り付き、制服が茶色と黄色のだんだら縞になっている。
億十郎の姿を見て、司令官はびくりと身動きする。億十郎は司令官を真っ直ぐ睨みつけ、のしのしと歩み寄った。
全身全霊を込め、睨みつける。
司令官の顔が蒼白になった。
「娘たちは、どこにおる!」
億十郎の叫びに、司令官は仰け反っていた。億十郎は、圧し掛かるように司令官に顔を近寄せた。司令官は、圧倒されるように、益々上体を仰け反らせた。
司令官からは、顔を背けたいほど、酷い匂いが漂っていたが、今は無視する。
「どこだっ!」
司令官は何度も首を振った。苦痛に耐えているかのように、歯を食い縛る。
「い、厭だ……。言うものか……」
消え入るような声を上げた。億十郎は、さらに声に力を込めた。
「言うのだっ!」
司令官の両目が、ぽかりと見開かれた。真っ白な制服の、下袴が黄色く変色した。億十郎の鼻腔に、新たな異臭が漂う。
失禁している。
「い……言う……。だ、だから、そんなに苛めないで……下さい……!」
億十郎は、ぐい、と司令官の奥襟を掴むと引き寄せた。よたよたと、司令官が立ち上がる。触りたくはなかったが、我慢する。
「さあ、案内せよ!」
「は、はい……こちらです……」
どういうわけか、司令官はすっかり従順になっている。逆らう気力すら、喪失しているようだった。
振り向くと、アイリータと理恵太が、呆然と億十郎を見詰めている。
「あんた……」
アイリータが小声で呟いた。
「まるで【遊客】が、NPCに気迫を使うときみたいだよ……」
言われて、億十郎はやっと自分の仕出かした顛末に気付いた。
そうだ、自分は【遊客】の気迫を使ったのだ。しかも【遊客】に対して。
【遊客】の気迫に対抗できるのは【遊客】のみである。しかし億十郎の気迫は、【遊客】である司令官を打ちのめした。
自分は、どうなっている?
勝利感はまるでなく、ただ戸惑いだけが億十郎を支配していた。




