六
億十郎は思い出した。
「そう言えば、雑賀党の旗印は、八咫鴉ではなかったかな? やはり、お主は雑賀党の一味であったか!」
鴉と名乗った相手は、舌打ちをしたようであった。忍者にとって、出自を暴かれるのは屈辱なのだろう。それとも、わざと舌打ちをして見せて、億十郎を迷わすつもりなのか?
「記録箱を渡したについては、お主に頼みごとがある」
来た! と億十郎は身構えた。いよいよ相手は、億十郎を利用するつもりだ!
「何だ。何でも言うが良い。ただし、拙者ができる範囲でだぞ」
「お主、明日には懇意の【遊客】に、『虚ろ舟』の記録を渡すつもりであろう?」
億十郎は唾を呑み込んだ。奴は何でも知っている!
「ああ。そのつもりだ」と億十郎は見えぬ鴉に、簡潔に答えた。鴉は続けた。
「ついては、お主の懇意の【遊客】から、あるものを手に入れてもらいたい」
「何を、だ?」
「『大日本史』だ!」
鴉の答えに、億十郎は混乱した。
「し、しかし『大日本史』は……!」
「そうだ。今、水戸家中において、編纂作業が続いておる! まだ未完成ではあるがな」
「それをなぜ?」
「未完成だからだ!〝もう一つの江戸〟には、完成した『大日本史』が存在する! お主も知っておるだろうが、水戸家において『大日本史』の編纂作業は、きつーい、重石となって圧し掛かっておる! 多数を恃んだ編纂によって、膨大な費用が掛かっているのだ。しかも、これから幾ら掛かるのか、誰にも判らん。それが、〝もう一つの江戸〟から、完成している『大日本史』を手に入れることにより、一気に片付く!」
「ははあ……」
億十郎は感嘆の声を上げていた。やはり鴉は、水戸家中の雑賀党に連なる者であろう。
億十郎は反論した。
「お主、知らなんだか? 拙者が【遊客】から聞かされた話では〝もう一つの江戸〟はすでに亡び、別の政府が取って代わったそうだぞ。滅んだ後、『大日本史』なる書物が〝もう一つの江戸〟において、完成しているかどうか、拙者にも判らぬ」
鴉は皮肉そうな笑い声を洩らした。
「それは知っておる。〝もう一つの江戸〟においても、幕府が滅んだ後、水戸家中に縁のある者によって、編纂作業が続いていたらしい。必ずや『大日本史』の完本はある!」
億十郎は唸った。
「それは、ついぞ知らなんだ……!」
「頼んだぞ!」
鴉は言い残し、気配が消えた。
億十郎は自分が、金縛りに遭ったかのように、身動き一つ叶わなかった事実に、たった今、はたと気付いた。これも鴉の術であろうか?
厨に廻ると、竃の前で、源三がぺたりと尻餅をついたように両足を投げ出している。背中を壁に凭れかけ、目を閉じていた。
竃では、釜がすっかり煮え滾り、ぐらぐらと湯が沸いていた。側では、いつでも調理できるよう、昼食の材料が揃えられている。
源三の、天を仰いだ顔はすっかり弛緩し、あんぐりと大口を開け、轟々と鼾を掻いていた。完全に眠りこけている!
「源三!」
声を上げると、源三はびくっと身を震わし、目を開けた。ごしごしと目を擦り、不思議そうな顔つきになる。
「あ、あれ? どうして、あっしは、眠り込んじまったんで? あっ! 億十郎様! 申し訳御座いません! なぜか、あっし、こんなざまで……!」
億十郎は、無言で頷いた。
きっと鴉の仕業だ。恐らく、眠り薬を源三に仕掛けたのだろう。鴉が話し掛けたとき、源三が何も反応しないので、妙だと思っていたのだ。
腕を組み、億十郎は窓越しの空を見上げる。
まだ鴉は、総てを明かしてはいない。【遊客】から〝もう一つの江戸〟の『大日本史』を手に入れたとしても、億十郎の役目は終わらないだろう。そんな予感がする。
まずは明日だ!




