第1話 前世の記憶を思い出した日(前編)
「あ」
ピシャゴーン、と。
まるで雷にでも打たれたように、身体中を電気が駆け巡った。
頭の中には前世の記憶が濁流のごとく流れ込み、ポカンと開けた口からは呆けた声が漏れていた。
「何をボサっとしているのですか」
神経質そうな修道女──Sr.ヒスリックの硬い声が、冷えた廊下に響く。
それだけで、近くにいた子供達がビクリと身体を強張らせるのがわかった。
(……ここはどこ? 僕は誰?)
記憶喪失者のような感想を抱きながら、現状を把握しようと軽く周囲に目を配る。
開け放たれた鎧戸と、その奥に見える鼠色の空。
日焼けした板壁と、微かに漂う陳臭い香り。
見慣れた景色。
いつもと変わらない日常。
どれもこれも知っているはずなのに、どれもこれもしっくりこないような……そんな妙な感覚に眉を顰めた。
「聞いているのですか、ナナ」
木靴をカツカツと鳴らしながら、Sr.ヒスリックが歩調を早めて近づいて来る。
呼び掛けられた気もしたけど、すぐに返答する事は出来なかった。
(ナナ? ……そうだ、ナナは僕だ)
段々と違和感が薄れ、思考が一致してくる。
僕の名前はナナシ。
これはSr.ヒスリックが付けてくれた名前だ。
と言っても、Sr.ヒスリックは僕の本当の母親というわけではない。
僕は捨て子だった。
礼拝堂にある【創世の女神アモレーヌ様】を模した彫像の下、臍の緒がついたまま置き去りにされていた僕をSr.ヒスリックが発見、保護し、そのまま名付け親になってくれたのだ。
その節はありがとう、Sr.ヒスリック。
ただ、名無しなんて名前を付ける感性はだいぶ皮肉が効き過ぎていると思うよ、Sr.ヒスリック。
だから皆、気を遣って僕の事をナナと呼ぶ。
いわゆる、愛称ってヤツだね。
──ヒュンと、何かが風を切る音。
直後、バチンッという乾いた破裂音。
「ゔ……っ!」
身体に痛みが走り、苦悶の声が口から漏れた。
「返事をしなさい、ナナシ」
Sr.ヒスリックの手には懲罰用の短鞭。
子供達が何か粗相をした時に、Sr.ヒスリックはソレを振るって教育を行っていた。
そう、今のように。
「ごめんなさい。Sr.ヒスリック」
ジンジンと痛みを訴える右手をさすりながら、謝罪の言葉を口にする。
返事が遅れてまた叩かれてはたまらない。
正直「体罰は時代錯誤だ!」と声を大にして糾弾したいところだけど、ここは中世ヨーロッパのような世界である。
コンプライアンスなどあるわけもなく、口答えなんてしようものなら更なる懲罰を頂戴する羽目になる。
つまり、反論するだけ無駄、というわけだ。
(……そういえば、今は清掃の時間だったっけ?)
氷のように冷えた眼差しで僕を見下ろしていたSr.ヒスリックは「次は気をつけるように」とだけ告げると、そのまま僕に背を向けて離れて行った。
(助かった……)
厳重注意で済んだ事に、ホッと息を吐く。
Sr.ヒスリックは、とりわけ僕に厳しかった。
保護して名付け親にまでなったのだから、教育ママよろしく僕に厳しく接するのは当然と言えば当然なのかもしれない。
もっとも、Sr.ヒスリックは飴と鞭の鞭担当だから、基本的には誰に対しても厳しいんですけどね。
もちろん、自分自身にも。
「どっこいしょういち」
子供らしからぬ掛け声を口にして、冷たい井戸水の入った木桶に手を入れる。
薄汚れたボロボロの雑巾を手に取り、軽く絞ってから飴色の床を丹念に磨く……フリをする。
(さてと、このまま情報整理でもしますかね)
ここはデザートアマイン王国の最北端にある、フィッシという港町の小さな孤児院だ。
歴史のある修道院に付属しており、ここでヨボヨボの修道士長と訳アリの修道女達と共に、身寄りのいない子供達が慎ましく共同生活を送っている。
もちろん僕も、その中の一人だ。
(捨て子ねぇ……)
流浪の旅人か、流離の吟遊詩人か、漂泊の冒険者か、はたまた寄港の商人か、それはわからない。
それはわからないが、炊き出しに頻繁に顔を出す呑んだくれのオッサンが「どこぞの誰かが身重のままフィッシに行き着いて、ブリッとウンコのようにお前を産んで、結局そのまま捨てていったんだろうよ、ガハハッ!」なんて話を、ノンデリ全開で語ってくれた事はある。
(シスター達にしばらく出禁を言い渡されて、オッサン泣いてたなぁ)
今にして思えば、オッサンの憶測はあながち間違ってはいないと思う。
なぜなら町民の誰かが身重であれば周囲に知られていただろうし、産んで捨てたとなれば身元の特定だって容易だったはずだからだ。
つまり、答えは自ずと余所者、という事になる。
現に僕の容姿は『あ、こいつ外の血だ』と一目でわかる、黒髪黒目をしていた。
(前世も外の血と言えば外の血だしね、うん)
黒髪黒目なんてこの国ではだいぶ浮いてるけど、目鼻立ちのボヤっとした平たい顔族の僕にはカラフルな色彩なんて似合わないし、これはこれで良かったのかもしれない。
(ま、両親とか出生とか容姿とか今更どうでも良いけどね! そんな事より今大事なのは、僕が前世の記憶を思い出したという事実……っ!)
なぜ今頃になって思い出したのか、わからない。
わからないが、早急に感謝は伝えるべきだ。
気まぐれの女神アモレーヌ様に。
(アモレーヌ様、ありがとうございましたッ!)
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