死兵
《死兵》
相府城下に乱入した古河軍は、市街で略奪を行いつつ、本丸へ殺到した。
本丸に籠もった今川兵たちは、ここを死に場所と定めたらしく、降伏する気配もなく矢を放ち続けた。
「怯むな、怯むな!甲山武士の名を惜しめ。今川氏元はこの武田信龍が討ち取ってくれる」
信龍はもはや戦功を得る事だけを考えていた。彼は最前線に立ち、直接兵たちを指揮していた。
「御屋形様、危険でござる」
「お下がりくだされ」
家臣たちが止める中、数本の矢が信龍めがけ放たれた。見ただけで身分の高い武将と分かる緋糸縅胴丸に立派な鍬形の星兜を着けた信龍は格好の的であった。
しかし、矢は左右の楯や信龍の足元に突き立ち、命中することはなかった。
「勇士に矢などは当たらぬ!討ち取りたくば鑓薙刀を以て儂に挑め!」
信龍は大笑して言った。
「御屋形様はいつもあんな様子だが、ありゃあいつかは討たれるぞ。我らはあのような危なっかしい主君に仕えておるのだ」
「有信殿、真実とはいえ口が過ぎませぬか」
有信と昌信はそう言い合った。信成は内心冷や冷やしている。
「若、行きまするか」
「行くわけがないだろう。これ以上犠牲を増やすわけにはいかぬ」
「……賢明な判断かと思いまする。春日様はいかがなされるおつもりで」
「それはもう。傍観を決め込みます」
この間にも信龍は「臆病者どもめ!城を出て最期の戦をする気概もないか!さもなくば城ごと焼き払うまでじゃ!」と挑発をやめない。
そうこうしているうちに、城の大櫓から火の手が上がった。
「まずいな」
有信が舌打ちした。今川氏元は自ら城に火を放ったのだ。そしてこの後とる行動は……
「自殺する気ですか?」
足元の鈴木達也が訊ねた。
「自害ではない。誇り高い駿相守氏元ならば、もっと迷惑な死に方を選ぶだろうな」
「降伏すればいいのに……」
「無駄だ。降伏しても上様が許すわけがない。どうせ切腹だ。もはや生きる望みなどない。どうせなら死に花を咲かせようとするのが、名門今川氏の惣領の意地だろうよ」
やがて城門が開き、大勢の武士たちが飛び出してきた。
「我こそは今川駿相守氏元なり!古河の武士どもに最期の戦を所望致す!」
一際豪華な大鎧の武将が名乗りを上げると、今川勢は死兵と化して目の前の古河勢に襲い掛かった。
「いるのは武士ばかりか。雑兵どもは落ちたな」
有信はつぶやくと、今川勢の最期を見届けることにした。
(どうあっても戦は嫌だ、死にたくないという奴もいれば、誇りの為に死ぬまで戦おうとする奴もいる。戦に辟易しつつも戦で功名と利益を得て、さりとて御屋形様や上様のいう武士の生き様に興味はなく、生きるために戦う……俺ら土豪は中途半端にしか生きられぬな)
今川勢の勢いに、古河勢は押され気味だ。元々士気が低下しつつあった古河勢にとって、ここで猛烈な抵抗に遭うことは想定していなかった。
「押せ!押せ!一人でも多く討ち取れ!」
鬼気迫る今川勢の武者たちの表情を見て恐怖に駆られた古河勢の足軽たちは武器を捨てて逃げ出し始めた。
「なっ……貴様ら!何を逃げ出しておる!」
城門の前にいた佐野頼綱の前を足軽たちが逃げ散り、代わって敵の死兵が襲い掛かってきた。完全に油断していた頼綱は先頭の騎馬武者の鑓に貫かれた。
「佐野頼綱殿、討死!」
頼綱の死を目の当たりにした古河勢はどっと崩れた。左右の武田、小笠原の将兵にも動揺が広がる。
「敵は馬廻衆を中心とした総勢六百。ほぼ全員が武士であると思われます」
危険を冒して物見に出た大月小三郎が報告する。彼は不思議とこういう時は冷静であった。
「普段からこうであればよいのだが……」
「?」
「いや、こっちの話だ。敵はこちらにも押し寄せるであろう。春日勢、甘利勢と連携し、敵を防ぐ」
凄惨な殺し合いが始まった。向こうは一人でも多く冥土の道連れにすべく鑓を突き出してくる。
「良いか、敵一人に対し二人で当たれ!一対一で戦うな。死ぬぞ」
有信は叫ぶと、自らも信成と小三郎、そして鈴木達也と共に鑓を構えた。
「鑓を打ち下ろせ!」
有信に怒鳴られた達也が手にした鑓を相手に向かって振り下ろすと、頭へまともに鑓を受けた敵がよろめく。そこを有信が鑓で突き斃した。
「よくやった。お前は後ろへ下がれ」
有信は達也にそう言った。彼はこれ以上の死に耐えられそうになかった。
「名のある将とお見受けした。共に地獄へ参るがよいぞ」
そういって太刀を振りかぶる武士の喉笛を馬上から貫き、引き抜くと左に迫る騎馬武者を叩き落とす。それでも敵の数はなかなか減らない。主に敵の戦っているのは甘利勢であったが、勇猛な武者たちが敵の鑓の餌食となり、馬から引きずり落とされるのを何度も目にした。
(これが死兵か)
有信は背筋が凍る思いがした。
「若、大丈夫でござるか」
信成が馬を寄せてきた。
「主を気にするくらいの余裕があるのならまだ問題ないな」
「あれをご覧くだされ」
信成が鑓で指した先に、赤地に黒い『武田菱』の旗印が何本も屹立しているのが確認できた。武田信龍の本隊だ。鬨の声を上げ、敵勢に猛然と襲い掛かって行く。
「お元気なことで」
有信の言うように、武田信龍は血に飢えて猛っていた。
「しゃああああああ」
信龍は大薙刀を振り回し、騎馬武者を一刀両断し、足元に迫る武士の首を撥ね飛ばした。その姿はまるで殺戮を楽しんでいるかのようであった。
しかし敵も死を覚悟している。どうせ死ぬと分かっているとき、人はいつも以上の力を発揮するという。討たれた朋輩の屍を乗り越え、死兵は地獄への突撃をやめない。彼らの鑓が地獄へいざなう魔手のように武田の武者たちに襲い掛かる。
しかし、寄せ手は一万人を超えていた。いくら死兵といえども、疲れには勝てない。鎮守府将軍古河成氏に近づくには、肉の壁はあまりに厚すぎた。体力を消耗しきった者から次々と何本もの槍に貫かれ倒れていく。
「それ、押し返せ!皆殺しにせい!」
信龍の号令により、三千の武田勢が一斉に前進を開始する。古河勢、小笠原勢でもほぼ同時に反攻が始まった。
「武山郡浪人高城礼二郎、今川氏元を討ち取ったり!」
敵総大将の死が伝えられても尚、死兵たちの抵抗は続いたが、勢いはほぼ無くなった。あとは殲滅するだけである。
「これが駿相今川の最期か……」
有信は死屍累々の惨状を見ながら呟いた。
「分家が熊襲(難波の隣国)の三江郡に力を持っております。生き残りが再起を図るやもしれませぬ」
「いや、連中は自分の事だけで手いっぱいだろうよ。今川の旗が難波に翻ることはもうあるまい。朝廷は難波西部の重要拠点を失った。これで上様の勢いはさらに増す。無論御屋形様の武名も轟くことになる」
それでも、と有信は続けた。
「武門の習いとはいえ、此度は敵も味方もいささか死に過ぎたな」
遂に最後の一兵まで屠った寄せ手は、我先にと本丸へ乱入していった。有信は行かなかった。行って何か得になることもないと踏んだためである。そのため、彼は主君信龍よりも先に、驚くべき知らせを聞くこととなった。
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