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第10話 ただいまを、待っている

 母竜が来る日、空が暗くなった。

 雨ではなかった。

 黒い翼が、屋敷の上を覆っていた。


 大きい。

 砦ほどになる、と聞いていた。

 本当に、砦ほどあった。


 庭へ入れないので、会う場所は、外の草原にした。

 ソフィア先生が先に話し、カイル様とトビさんが道を確かめる。

 私はノクスと歩いた。


 彼は途中で、止まった。

 鼻を上げた。


「におい」


 翼が、ゆっくり閉じられた。

 大きな竜が、頭を地面へ下ろす。


「ノクス」


 人の言葉だった。

 低く、震えていた。


 ノクスは、私の袖をくわえた。

 すぐには、走らなかった。

 母竜も、近づかなかった。


 私の胸に、寂しさが生まれた。

 ここにいてくれたら、と思った。

 私を見て、来た、と言う朝が、なくなる。


 ノクスが、母を見ている。

 私は袖を引かなかった。


「行きたかったら、行っておいで」


 竜は、私を見た。


「リゼ、ここ?」

「ここにいます」


 袖が、離れた。

 ノクスは一歩、進んだ。

 次の一歩は、大きかった。


 母竜の前へ走り、首の下へ、頭を押しつけた。


「かあさん」


 大きな翼が、彼を囲んだ。

 黒竜の涙は、水だった。

 母の涙も、同じだった。


 私は頬を拭いた。

 隣に、カイル様の手が来た。

 握ると、彼も握り返した。


 *


 ノクスは、すぐに旅立つことにはならなかった。

 母竜にも、拘束具の傷が残っていた。長い旅をする前に、この地で体を戻す必要があった。

 近くの谷で母は休み、ノクスは、谷と屋敷を行き来した。


 母から聞いた本当の名前は、長かった。

 家では、ノクスと呼んでいたそうだ。

 捕獲業者の帳簿に残った短い呼び名が、ここでも使われていた。


 母竜の名は、メイラ。

 保護隊と、この地で子どもを預かる人たちへ、何度も礼を言った。


「生きていてくれるだけで、と思っていた」


 大きな目が、ノクスを見た。

 彼は、フィオと遊んでいた。

 小さな狐に、革の輪を貸している。


「こんな顔を、また見られるとは」


 私は、うなずいた。

 生きていることと、安心して暮らせること。

 その間に、まだ、たくさんできることがある。


 メイラは、谷に戻る前に、私の靴の前へ鼻先を置いた。

 ありがとう、ともう一度言った。

 私は、その言葉を忘れないと思った。


 *


 秋、ノクスは母と、北の氏族の里へ帰ることになった。

 荷物は少なかった。

 丈夫な革の輪。お気に入りの本。犬みたいな竜の絵。


 絵は、私が描いたものを持っていくと言った。

 カイル様の描いた私も、同じ紙にいた。


「二人とも、連れていくんですね」


 私が言うと、ノクスは紙を大事にくわえた。


「あそび、くる」

「待っています」

「リゼ、いる?」


 私はしゃがんだ。

 少し、顔が高くなっていた。


「ずっとお部屋にいるわけではありません。町に行く日も、お休みもあります。でも、ここで、お仕事を続けます」


 ノクスは考えた。

 私の手を、鼻先で押した。


「かえって、くる?」

「帰ってきます」


 彼はうなずいた。


「ノクスも」


 出発のとき、泣いたのは私の方だった。

 ノクスは一度振り返り、翼を動かした。

 母と歩く、足どりは軽かった。


 *


 冬の初め、屋敷の隣に、新しい保育棟ができた。

 魔獣の託児所。

 保護された子と、親から預かる子。そのどちらも暮らせる場所。


 お父さんやお母さんが、協定に従って人の町で働くこともある。

 森の警戒や、山道の荷物運び。

 その間に、安心して預けられる場所がほしいと、メイラから氏族へ話が伝わった。


 私は、新しい世話係二人と働くことになった。

 トビさんは管理を続け、ソフィア先生も来る。

 休みの絵が壁に並び、誰がいるか、毎朝確かめる。


 私とカイル様の結婚式は、春だった。

 申し込まれたのは、その前の冬の日。

 彼は私の仕事の話を聞き終え、それから、小さな箱を出した。


「仕事の続きとは別に、暮らしの続きを、一緒に考えてくれないか」


 私は、返事を急ぐ必要もないのに、すぐにうなずいた。

 この人が帰ってきたら話したいことは、いつも、あった。


 式の日、フィオは花びらを焦がし、ミミはリボンを一本、天井へ持っていった。

 ノクスは、母と来た。

 まだ、泣き虫だった。

 私のドレスを見て、綺麗だと言い、自分で泣いた。


 私も、少し泣いた。


 *


 翌朝、私は髪を結び、保育棟へ出かけようとした。

 玄関で、カイル様に呼ばれた。


「リゼ」


 振り向くと、彼が近づき、手を取った。


「今日の本は?」

「小さな竜が、海へ行く話です」

「夜、私にも聞かせてほしい」


 彼は、私の指へ口づけた。

 もう一度、と思っている顔だった。


「遅れます」

「わかっている」


 わかっているのに、手は離れない。

 私は少し笑って、彼の頬へ口づけた。


「帰ってきたら、続きです」


 今度こそ、手が離れた。

 行ってきます、と言って、扉を開ける。


 庭の向こうから、子どもたちの声がした。

 リゼ、きた。

 おはよう。

 きょう、なに?


 私は、手を振った。

 前世で覚えた歌を、この世界の朝に、小さく口ずさむ。


 冷酷な辺境伯は、もう、眠るのが少し上手になった。

 泣き虫の黒竜は、離れても帰ってこられると知った。


 私は、無能と呼ばれなくなったから、ここにいるのではない。

 今日、会いたい子がいて。

 帰ったら、話したい人がいる。


 だから、ここへ帰ってくる。


 完

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― 新着の感想 ―
良かった〜みじかめなのも、少しイライラしながら読む時にはほっこりでした✨ちょっぴり続きが読みたくなる読後感もいいね〜
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