最後のご奉公ですわ
「本日この時をもって、リーゼロッテ・ファルケンラートとの婚約を破棄する!」
大広間に響いた殿下の声を、私は祝杯の並ぶ卓のかたわらで聞いていた。
——あら。その祝杯、毒が入っておりますわね。
杯の縁から立つ、焦がした杏子に似た甘い香り。夜苦草の根を煮詰めた毒だ。舌に乗せれば数えるまでもなく分かるけれど、乗せるまでもなく、もう分かる。五年もやれば、嫌でも覚える。
「その女は五年間、婚約者の務めをひとつも果たさなかった! 挙げ句その荒れた肌——王太子妃に相応しくない無能だ!」
務め、と私は胸の内で繰り返した。
殿下のおっしゃる婚約者の務めとは、殿下が愛するミレーユ様の茶会に侍り、彼女の隣で出される茶と菓子を、ひと口ずつ先に頂くことだった。
五年間で、三十二回。
この舌が受け止めた毒の数を、殿下はご存じない。荒れた肌の理由も、ご存じない。
だから私は、裾をつまんで最上の礼をした。
「謹んで、お受けいたします」
*
私が王太子ユリウス・アルディス殿下と婚約したのは、十三の年だった。殿下は十七。伯爵家の娘としては望みうる最上の縁で、父は泣いて喜んだ。
その半年後には、殿下の隣に男爵令嬢のミレーユ・ブランシェ様がいた。
私の役目は、たぶんその日に決まったのだと思う。
婚約者として王宮に上がるたび、案内されるのは殿下の執務室ではなく、庭の東屋だった。ミレーユ様の茶会だ。
そこで私は、彼女の隣に座らされる。
運ばれてくる茶と菓子を、ひと口ずつ、先に頂く。
最初の一年は、それを本当に「婚約者の務め」だと信じていた。王族に供される飲食は検毒官が最終確認をする決まりだから、私がひと口先に頂くことに意味などないはずだったのに、なぜかその席にだけ検毒官が立たない。ミレーユ様が「堅苦しいのは嫌ですわ」と笑うから。
二年目の春、はじめて舌が痺れた。
銀器は変色しなかった。魔道具も鳴らなかった。当たり前だ。あれは即効性の鉱物毒にしか反応しない。遅効毒や植物毒は、飲んだ者が倒れてはじめて毒と分かる。
——けれど私には、分かった。
母方に伝わる百味の舌。何が溶けているかを、含んだ瞬間に舌が読む。読んだそばから吐き出して、懐に忍ばせた解毒の粉を舐める。薬草学は幼い頃から仕込まれていた。母がそうしろと言ったからだ。今なら分かる。母はきっと、この舌を持って生きるということがどういうことか、知っていた。
だから私は死ななかった。
ただ、痕は残る。
指先が荒れ、唇が割れ、爪の色が抜ける。化粧では隠しきれない。
三年目に、一度だけ訴えた。父を通じて、正式に。
返ってきたのは、「寵姫の男爵令嬢を陥れようとする、悪女の讒言」という裁定だった。
その日から、私の立場は目に見えて悪くなった。父は口をつぐみ、私は王宮でひとりになった。
だから、書くことにしたのだ。
日付。症状。毒の種類。同席した者。そのときの状況。
五年分の毒見日誌が、私の部屋の抽斗に眠っている。
いつか誰かに読ませるためではない。
誰にも信じてもらえなかった日々を、せめて自分だけは覚えていようと思ったからだ。
*
「聞いているのか、リーゼロッテ!」
殿下の声で、私は大広間へ引き戻された。
金髪碧眼の、絵に描いたような貴公子。二十二におなりの王太子殿下は、私を指さしたまま顔を紅潮させておられる。
その腕に、ミレーユ様が寄り添っていた。
二十歳。栗色の巻き毛。潤んだ大きな目。今日も庇護欲を誘う可憐さで、殿下の袖をそっとつまんでいらっしゃる。
「殿下、そんなに強くおっしゃっては……リーゼロッテ様が、お可哀想ですわ」
「庇うな、ミレーユ。お前はいつもそうやってこの女を庇う」
白々しい、と思うのは私だけらしい。
周りの貴族たちは痛ましげにミレーユ様を見て、それから汚いものでも見るように私を見た。
あの方はお優しい、健気だ、それに引き換え——という囁きが、扇の陰から漏れてくる。
「見ろ、この手を」
殿下が私の手首を掴んで、掲げた。
会場から、小さなどよめきが起きる。
荒れた指先。割れた爪。ひび割れた唇。十八の娘の手ではない、と誰かが言った。
「身なりひとつ整えられん女が、この国の王太子妃を名乗れるか! ミレーユの爪の垢でも煎じて飲め!」
——ああ。
私はそのとき、不思議なほど静かな気持ちで思った。
この方は、本当に、ご存じないのだ。
この手が誰の茶会で荒れたのかも。この唇が誰の菓子で割れたのかも。五年のあいだ、誰が誰の代わりに毒を呑んでいたのかも。
ご存じないまま、そのことを理由に私を捨てる。
それは、なんて——身軽なことだろう。
私は掴まれていた手を、そっと引いた。
そして裾をつまみ、腰を落とし、最上の礼をした。
「謹んで、お受けいたします」
大広間が、ざわりと鳴った。
泣くと思われていたのだろう。縋るか、取り乱すか、せめて弁明のひとつもすると。
殿下が虚をつかれた顔をなさったのが、可笑しかった。
「……なんだと」
「殿下のご決定に、異存はございません。長らくのご厚情、ありがとう存じました」
異存など、あろうはずがない。
五年前、この婚約が決まった日、私は嬉しかった。この方の隣に立つのだと思った。
その隣に、私が立ったことは一度もない。
立っていたのは、いつも別の令嬢の茶会の椅子の、隣だった。
顔を上げると、視界の端でミレーユ様が首を傾げていらした。
可憐な顔に、ほんの一瞬だけ、算盤を弾く音がした気がした。
*
「では——気を取り直して!」
殿下が声を張り上げた。
そう。この宴は、私の婚約破棄のためだけに開かれたものではない。
「本日はもうひとつ、皆に伝えねばならぬ慶事がある。私は、ミレーユ・ブランシェを新たな婚約者として迎える!」
わっと歓声が上がった。
破棄と、新しい婚約の披露。同じ夜に、同じ広間で。
だから卓には、祝杯がずらりと並んでいたのだ。
給仕たちが動きはじめた。銀の盆に載せられた杯が、順に貴族たちの手へ渡っていく。ミレーユ様の頬は紅潮し、殿下は彼女の腰を抱いて、誇らしげに胸を反らしていらした。
その流れの中で、給仕のひとりが私の前で足を止めた。
「……失礼いたします」
まだ若い給仕だった。目を伏せたまま、盆の端の杯を私に差し出す。
破棄されたばかりの女に、その男と後任の令嬢の門出を祝わせようというのだ。誰の指図かは知らない。もしかしたら誰の指図でもなく、ただ「全員に配る」という指示を律儀に守っただけかもしれない。
人は、悪意がなくても人を刺す。
私は杯を受け取った。
受け取ってしまってから——気づいた。
立ちのぼる香りが、違う。
焦がした杏子。奥にわずかな苦み。
夜苦草。それも、葉ではなく根を煮詰めたほうだ。茶に混ぜれば三日かけて衰弱させ、酒に落とせば半刻で心の臓を止める。
……私の杯に。
誰が、とは考えなかった。考えるまでもない。五年かけて答えの分かっている問いだ。
考えたのは、順番のほうだった。
破棄された女が、その夜のうちに屋敷で冷たくなっている。誰が調べるだろう。捨てられた娘が悲観して、と噂が回って、それで終わりだ。
王都を離れられる前に、今夜のうちに。——そういう算段。
私は目だけを上げて、給仕たちの動線を追った。
盆は厨房から二人がかりで運ばれ、途中、入口の柱のところで一度交錯していた。ひとりが右手の卓へ、もうひとりが上座へ。すれ違いざま、盆の傾きを直すために互いの手が伸びて——そこで、杯がひとつ、入れ替わったとしても、誰も気づかない程度のことだった。
なぜそう思ったか。
私の手にあるこの杯には、毒が入っていないからだ。
香っているのは、私の杯からではない。
私は視線を上げた。
上座で、殿下が杯を高く掲げていらした。
「では、諸君! 我が新たな婚約者、ミレーユに——」
その隣で、ミレーユ様が微笑んでいる。
微笑みが、ほんのわずかに、揺れた。
彼女の目が、私の手元を見た。それから、殿下の手元を見た。
可憐な顔から、すうっと血の気が引いていくのが、離れたここからでも分かった。
*
「乾杯——」
「お待ちくださいませ」
私の声は、思っていたよりも大きく響いた。
殿下の杯が、宙で止まる。
広間じゅうの視線が、一斉に私へ集まった。破棄されたばかりの令嬢が、新しい婚約の乾杯を止めた。醜態を見るための視線だ。往生際が悪い、と誰かが呟いたのが聞こえた。
構わない。
私は自分の杯を卓に置き、もう一度だけ裾をつまんだ。
「差し出がましいことを申し上げます。——これが、最後のご奉公ですわ」
「なにを」
「殿下。その祝杯、毒が入っております」
しん、と大広間が凍った。
次の瞬間、爆発したような笑い声が起きた。
「気がふれたか、リーゼロッテ!」
「見苦しいですわ、そんな……」
ミレーユ様が両手で口元を覆って、目を潤ませる。
「まあ、怖い……。わたくし、毒のことなんて、なにも存じませんのに」
誰も、そんなことは訊いていない。
私は殿下だけを見て、続けた。
「夜苦草の根でございます。乾かした葉ではなく、根を煮詰めたもの。焦がした杏子に似た甘い香りがいたします。水では香りませんが、酒に落とすと立ちますので、いま殿下のお手元から立っております」
「戯言を——」
「お飲みになれば、まず指先が冷えます。次に唇が痺れて、言葉が回らなくなります。そのころには立てません。半刻ほどで、心の臓が止まります」
広間の笑い声が、まばらになった。
言い方が具体的すぎたのだと思う。人は、細かい話には嘘の匂いを嗅ぎ取れない。
「……検毒は済んでおる!」
殿下が杯を握りしめたまま叫んだ。
「魔道具が鳴らなかった! 銀器も変色しておらん!」
「はい。鳴りません」
私は頷いた。
「あれは即効性の鉱物毒にしか反応いたしません。夜苦草は草の毒でございます。銀も、魔道具も、草には無反応でございます」
私は一拍置いて、殿下を見上げた。
「——ご存じ、ありませんでしたか」
殿下の顔から、笑いが落ちた。
この方は五年のあいだ、その仕組みの上でお食事をなさってきたのだ。ご存じないまま。ご存じないままでいられたのは、誰かが先に口をつけていたからだということも、ご存じないまま。
「厨房に、試毒の小鳥がおりましたでしょう」
私は言った。
「その杯を一滴、あの子に含ませてくださいませ。私の申し上げていることが偽りなら、小鳥はなんともございません。そのときは煮るなり焼くなり、どうぞご存分に」
*
小鳥は、六つ数えるあいだに止まり木から落ちた。
籠を持った侍従の手が震えていた。侍従は籠を取り落としそうになり、慌てて抱え直し、それから誰にともなく「……本当に、落ちました」と言った。
誰も、何も言わなかった。
殿下は自分の手の中の杯を見下ろしたまま、動かない。
その杯には、殿下の唇の届く一寸手前まで、酒が満ちている。
落としたのは、しばらく経ってからだった。
銀の杯が石の床で高く鳴って、酒が撒けて、貴族たちが一斉に後ずさった。誰かが自分の杯を卓へ戻す音がした。それが移った。かちゃん、かちゃん、かちゃん、と、広間じゅうの杯が卓へ戻っていく。
誰も飲まない。
誰も、飲めない。
その音を聞きながら、私は最後の礼をした。
「殿下」
顔を上げる。
殿下は、はじめて私をご覧になった気がした。捨てる女としてでもなく、無能な婚約者としてでもなく。
「五年間で、三十二回」
私は言った。
「この舌が受け止めた毒の数でございます」
ざわ、と何かが揺れた。
三十二、と誰かが繰り返した。五年で、と誰かが数えた。それはどこで、と誰かが言いかけて、口をつぐんだ。
言いかけた者の視線が、ミレーユ様のほうを向いていたからだ。
ひとつ向けば、あとは早い。扇の陰の目が、次々にそちらへ流れていく。ミレーユ様は微笑みの形のまま固まっていらした。
私はそちらを見なかった。
もう、見る必要がない。
「ですが私は、もう殿下の毒見役ではございませんので」
裾をつまむ。
膝を落とす。
五年間、この礼を何度したか分からない。これが最後だと思うと、不思議なほど身体が軽かった。
「以後はご自分で、お確かめくださいませ」
*
私が退がったあと、あの宴がどうなったかは、後から人づてに聞いた。
誰も、何も口にしなかったそうだ。
三十を超える皿が並び、湯気を立て、そのまま冷めていったという。給仕は運びかけた盆を持ったまま立ち尽くし、楽師は弓を置き、殿下は最後まで椅子に座っていらしたけれど、水の一杯もお召し上がりにならなかったと。
そして、その夜のうちに——王宮の検毒官が、三人まとめて辞表を出した。
当たり前だと思う。
彼らの仕事は、毒を見抜くことではない。毒を「受ける」ことだ。銀器も魔道具も草には反応しないのだから、彼らにできるのは、先に口をつけて、倒れてみせることだけ。過去に殉職した者もいる。
その仕事が今夜、目の前で「本当に起こること」になった。
辞めるに決まっている。
——でもそれは、明日からの王宮のお話。
私にはもう、関わりのないことだった。
*
馬車を降りると、屋敷の門前に人影があった。
黒い。
夜の色と見分けがつかないほど黒い外套で、背が高い。玄関のランタンの灯りがようやく届いて、それが人だと分かった。
黒髪。黒衣。無表情。
その顔を、私は宴の隅で見た覚えがあった。上座からいちばん遠い柱のそばで、料理にも酒にも手をつけず、ただ一部始終を見ていた方だ。
「……ノルデン大公閣下?」
北の大公。王位継承順位第二位。晩餐の招きをことごとく断り続け、社交界で「冷血」と呼ばれている方。
どうしてその方が、こんな時刻に、伯爵家の門前に。
アレクシス・ノルデン大公は、まっすぐに私を見た。
そして、およそ求婚らしくない声で、こう言った。
「五年で三十二の毒を凌いだ舌と聞いた」
夜風が、外套の裾を鳴らした。
「——その舌ごと、俺に娶らせろ」
※作者調べによると、この王宮には労災申請の窓口がありません。




