国交
ヒロは、ゆっくりと目を覚ました。
見慣れない天井。
視線を巡らせる。
天蓋付きの大きなベッド。
精巧な彫刻が施された家具。
窓辺には季節の花が飾られ、部屋全体が落ち着いた気品に包まれていた。
どうやら、どこかの屋敷らしい。
ぼんやりと意識が戻る中、自分の右手に温もりを感じる。
そっと視線を落とした。
ベッドへ身を預けるようにして、一人の女性が眠っている。
金色の髪が朝日に照らされ、柔らかく輝いていた。
エルザだった。
眠ったまま、ヒロの手を両手で優しく握っている。
その表情は戦場で見せていた凛々しさとは違い、どこか幼く、安心しきっていた。
カーテンの隙間から、朝日が静かに差し込む。
窓の外では、小鳥たちが楽しそうにさえずっていた。
穏やかな朝だった。
ヒロは久しぶりに王都へ足を踏み入れた。
懐かしい石畳。
行き交う人々。
ふと立ち止まる。
「酒場へ行くか。」
「それとも、ギルドへ行くか。」
少しだけ考えて、小さく笑う。
「……やっぱり。」
「リリアさんに会いたいな。」
自然と足はギルドへ向かっていた。
重い扉を押し開ける。
見慣れた喧騒。
冒険者たちの笑い声。
依頼書をめくる音。
「三か月ぶりか。」
ヒロは静かに呟き、受付へ向かって歩き出した。
最初に気付いたのは、他の受付嬢たちだった。
「あっ……!」
「ヒロくん!」
思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
その様子を見た冒険者たちも振り返った。
「おい。」
「帰ってきたぞ。」
「あいつだ。」
誰からともなく、小さくガッツポーズが生まれる。
「よし……!」
「ようやくだ。」
一方。
当のリリアは気付かない。
受付で淡々と書類を整理している。
表情一つ変えず。
今日もまた、“氷の女王”そのものだった。
周囲がざわついても、一切顔を上げない。
ヒロは受付の前まで歩み寄る。
そして。
優しく微笑んだ。
「リリアさん。」
「ただいま。」
その声を聞いた瞬間。
リリアの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
数秒。
時が止まった。
「……ヒロくん?」
次の瞬間。
リリアは受付を飛び出していた。
「ヒロくん!」
勢いのまま、ヒロへ抱きつく。
「おかえりなさい……!」
「おかえりなさい……!」
嬉しさを隠しきれない声だった。
その瞬間。
「うおおおお!!」
ギルド中が歓声に包まれる。
受付嬢たちは思わず手を取り合った。
「戻ってきた!」
「やっと!」
「リリアさんが笑った!」
冒険者たちも拳を突き上げる。
「ありがとう!」
「ようやくだ!」
「氷の女王、終わったぁぁ!」
ギルド中が笑顔に包まれる。
その光景を見たヒロは、困ったように笑いながらリリアの頭を優しく撫でた。
「ただいま。」
その一言だけで。
ギルドには、三か月ぶりにいつもの日常が帰ってきた。
数日後。
帝国からの使節団が、完成した街道を通って王都へ到着した。
先頭を歩くのは、辺境伯家の令嬢エルザ。
その隣には、帝国皇帝。
その後方には、辺境伯騎士団が続いている。
さらに、その後ろ。
巨大な荷車に積まれていたものを見た瞬間、王都中が息を呑んだ。
討伐されたドラゴン。
頭から尻尾まで。
まるで一本の線を引いたかのように、綺麗に真っ二つだった。
その知らせは瞬く間に王宮へ届く。
王宮。
謁見の間。
玉座には国王アルバス。
その傍らには、剣聖セバスが静かに控えている。
皇帝はアルバスを真っ直ぐ見据えた。
「礼を言いに来た。」
アルバスは静かに頷く。
「話せ。」
エルザが一歩前へ出る。
「はっ。」
静まり返る謁見の間に、凛とした声が響く。
「今回のドラゴン討伐。」
「私たちは、一人の青年に救われました。」
「黒髪。」
「腰まで伸びた長い髪。」
「空間から見たこともない剣を取り出し。」
「たった一人でドラゴンを討伐しました。」
セバスの眉が、わずかに動く。
エルザは続ける。
「ドラゴン討伐後、その方は辺境伯家の屋敷で治療を受けられました。」
「傷が癒えると。」
「礼も。」
「褒賞も。」
「何一つ受け取ることなく、そのまま王国へ帰ってしまわれました。」
謁見の間は静まり返る。
アルバスとセバスは互いに顔を見合わせた。
その特徴だけで。
二人には、その青年が誰なのか分かっていた。
皇帝は静かに口を開いた。
「ドラゴンは。」
「討伐したという事実だけでは終わらぬ。」
謁見の間は静まり返る。
「牙。」
「爪。」
「鱗。」
「骨。」
「血。」
「内臓。」
「魔石。」
「その全てが、一級品の素材じゃ。」
「一頭で国の財政を動かすほどの価値がある。」
アルバスは黙って聞いていた。
皇帝は続ける。
「今回の遠征隊は、全員が帝国の人間で構成されておった。」
「……たった一人を除いてな。」
謁見の間の空気が変わる。
「ドラゴンを討伐したのは。」
「王国の者じゃ。」
「それにもかかわらず。」
「このドラゴンを帝国の戦果として持ち帰るなど。」
「帝国の恥じゃ。」
皇帝は真っ直ぐアルバスを見る。
「だから届けに来た。」
「これは。」
「王国の物じゃ。」
誰も口を開かない。
皇帝は一度エルザへ視線を向け、再びアルバスを見据えた。
「そして。」
「あの青年は。」
「この辺境伯家の令嬢の命を救ってくれた。」
「帝国を代表して礼を言う。」
深く頭を下げる。
帝国皇帝が、かつての敵国の王へ頭を下げた。
その光景に、謁見の間は息を呑む。
皇帝はゆっくりと顔を上げる。
「約束しよう。」
「今後。」
「王国が窮地に陥ったなら。」
「帝国は必ず駆け付ける。」
その声には、一切の迷いがなかった。
皇帝は満足そうに頷いた。
「……そして。」
「もう一つ。」
アルバスが静かに視線を向ける。
「何じゃ。」
皇帝は豪快に笑った。
「その青年を。」
「辺境伯家の令嬢の夫として迎え入れよう!」
謁見の間が静まり返る。
一拍の沈黙。
次の瞬間。
「断る。」
アルバスが即答した。
間髪入れず。
「断固として、お断りいたします。」
セバスも一歩前へ出る。
その声に迷いはない。
皇帝は目を丸くした。
「な、何故じゃ!」
「辺境伯家じゃぞ!」
「名誉も地位も財産も約束される!」
アルバスは腕を組む。
「だから断る。」
セバスも静かに続けた。
「王国の人材を、帝国へ渡すわけにはまいりません。」
皇帝は頭を抱えた。
「うぬぅ……。」
「惜しい人材よのぅ……。」
その隣で。
エルザは頬を赤く染め、小さく俯いていた。
謁見が終わり。
人払いされた部屋には、皇帝、アルバス、セバスの三人だけが残っていた。
皇帝は腕を組み、ふぅと息を吐く。
「……これは、あくまで推測じゃ。」
アルバスが頷く。
「申してみよ。」
皇帝はゆっくりと口を開いた。
「南門を守っておった職人。」
「……あやつではないか?」
その言葉に。
アルバスとセバスは顔を見合わせ、苦笑した。
「おそらく。」
アルバスが答える。
セバスも静かに頷いた。
「私も、そう思います。」
皇帝は天を仰ぐ。
「職人とは、何なのじゃ……。」
深いため息だけが、静かな部屋に響いた。
夕暮れ。
木漏れ日の酒場。
今日も店内は多くの客で賑わっていた。
その一角。
セバスとアルヴィンは、静かに酒を酌み交わしていた。
ジョッキを置いたセバスが、小さく息を吐く。
「今日、帝国皇帝がお見えになりました。」
アルヴィンはグラスを傾けながら頷く。
「ドラゴン討伐の件?」
「はい。」
セバスは静かに語り始めた。
「討伐されたドラゴンが王都へ運び込まれました。」
「帝国の戦果ではなく、王国へ返還すると。」
「討伐したのは王国の者だから、と。」
アルヴィンは思わず笑う。
「律儀な皇帝だね。」
「ええ。」
セバスも微笑んだ。
「そして、その青年が辺境伯家の令嬢を救ったことへの感謝まで述べられました。」
アルヴィンは酒を飲み干す。
「それで?」
セバスは苦笑した。
「その青年を、辺境伯家へ婿入りさせたいと。」
アルヴィンが吹き出した。
「はははっ!」
「で、何て返したの?」
セバスは肩をすくめる。
「陛下が即座に『断る』と。」
「私も『断固としてお断りいたします』と申し上げました。」
酒場の片隅で。
二人の笑い声が静かに響いた。
アルヴィンは静かに酒を口へ運ぶ。
「僕もドラゴンの死体を見たよ。」
「懐かしい魔力の残穢だった。」
セバスは小さく笑う。
「お気付きになりましたか。」
アルヴィンは頷いた。
「うん。」
「帝国が話していた青年の特徴も一致しているしね。」
セバスはグラスを置く。
「黒髪。」
「腰まで伸びた長い髪。」
「空間から剣を取り出す。」
「そして、ドラゴンを一人で討伐。」
「……間違いありません。」
アルヴィンは肩をすくめた。
「また、とんでもないことをやったね。」
セバスは苦笑する。
「本人は、何事もなかったかのように職人へ戻るのでしょう。」
アルヴィンも笑った。
「実に、あの子らしいよ。」




