成人の儀
ヒロの前へ。
アンネローゼが静かに立つ。
細身の背中が、ヒロを庇うように前へ出た。
「下がって。」
短い一言だった。
その背中から放たれる闘気は、一歩たりとも引かない。
魔王はその姿を見つめる。
そして、ほんの少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……戦鬼。」
「分身のその体で。」
「我を止められるとでも思っておるのか。」
アンネローゼは答えない。
ただ真っ直ぐ魔王を見据える。
魔王は小さく息を吐いた。
そして。
指を一度だけ弾く。
パチン。
乾いた音が響く。
次の瞬間。
アンネローゼの身体が淡い光へ変わっていく。
「……っ!」
光の粒となって、静かに消えていく。
最後までヒロを庇うように立ったまま。
消え際。
アンネローゼは必死に叫んだ。
「ヒロ!」
「逃げなさい!」
その声だけを残して。
分身は完全に消滅した。
誰も動けない。
ヒロだけが、その場に立ち尽くしていた。
不思議だった。
最初は。
血だらけのガレスを見た瞬間。
怒りしかなかった。
でも。
魔王の立ち振る舞いを見て。
ガレスを横たえた手。
仲間を巻き込むなと叱った言葉。
アンネローゼの分身を壊すのではなく、静かに還した魔法。
そのすべてを見て。
ヒロの中で、一つの疑問が生まれていた。
(……この人は。)
(本当に悪い人なの?)
魔王はゆっくりとヒロの前まで歩く。
誰も止められない。
ヒロも逃げない。
魔王は静かに手を伸ばす。
そっと。
ヒロの頭へ手を置いた。
その瞳は、どこまでも穏やかだった。
二人の足元へ。
巨大な魔法陣が静かに広がる。
「……来い。」
柔らかな声だった。
眩い光が二人を包み込む。
次の瞬間。
光は消え。
そこにはもう。
ヒロと魔王の姿はなかった。
魔法陣の光が消える。
そこにはもう。
ヒロも。
魔王も。
誰もいなかった。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「ヒロ!」
「どこだ!」
「追え!」
城門は一気に大混乱となる。
衛兵たちは慌ただしく走り出し、それぞれの持ち場へ伝令を飛ばしていく。
「魔王侵入!」
「厳戒態勢!」
「城門封鎖!」
怒号が飛び交う。
一方。
セバスはその場に立ち尽くしていた。
握り締めた拳は、小さく震えている。
「……。」
剣聖でありながら。
止められなかった。
守れなかった。
静かに目を閉じる。
その隣では、アルヴィンも唇を噛み締めていた。
「……くそ。」
王都結界も。
魔法も。
何一つ通じなかった。
自分の無力さだけが胸へ突き刺さる。
衛兵たちはガレスを担ぎ上げる。
「急げ!」
「医務室だ!」
傷だらけのガレスは、そのままギルドの医務室へ運ばれていった。
王都中へ警鐘が鳴り響く。
城門。
王宮。
ギルド。
すべてが一瞬で戦時体制へ切り替わっていく。
その頃。
ギルド。
駆け込んできた衛兵から事情を聞いたリリアは。
「……え。」
それ以上、言葉が出なかった。
頭の中が真っ白になる。
「ヒロくんが……。」
膝から力が抜ける。
その場へ崩れ落ちた。
受付嬢たちが慌てて支える。
リリアは何度も首を横へ振る。
「そんな……。」
「そんな……。」
信じられなかった。
朝まで。
さっきまで。
いつものように笑っていた。
そのヒロが。
魔王に連れ去られた。
その事実だけが。
何度聞いても受け入れられなかった。
◇
◇
◇
その頃。
魔王城。
巨大な城門の前へ、眩い光が降り立つ。
光が消える。
そこには、魔王とヒロの姿があった。
ヒロは辺りを見回す。
その目は恐怖ではなく、好奇心で輝いていた。
「転移魔法ですよね!」
魔王は足を止める。
ヒロは興奮したまま続ける。
「しかも、あれほど複雑な魔法陣を無詠唱で!」
「すごい!」
「どうやったんですか?」
「魔力座標はどう固定したんです?」
「魔法陣は省略してるんですか?」
「それとも頭の中で全部構築して――」
魔王は少し呆れたようにヒロを見つめた。
「……。」
「まさか。」
「先ほどまでのやり取りがあったというのに。」
「最初に聞くことが、それか。」
思わず苦笑する。
そして、そっとヒロの頭を撫でた。
「後で。」
「しっかり教えてやる。」
ヒロはぱっと笑顔になる。
「本当ですか!」
「ありがとうございます!」
魔王は肩をすくめながら歩き出す。
「来い。」
二人は並んで城門へ向かう。
重厚な扉がゆっくりと開く。
その先では。
無数の魔族たちが、ひざまずいたまま魔王の帰還を待っていた。
「魔王様。」
「お帰りなさいませ。」
一斉に頭を下げる。
しかし。
顔を上げた瞬間。
全員の視線がヒロへ集まった。
「……人間?」
城内の空気が一変する。
敵意。
警戒。
殺気。
誰もが立ち上がり、今にも武器へ手を掛けそうになる。
その時だった。
一人の老魔族が静かに前へ出る。
誰よりもゆっくりと。
ヒロの前まで歩いてくる。
魔王は何も言わない。
老魔族は震える手を伸ばし。
そっとヒロの頬へ触れた。
そして。
その瞳を、じっと覗き込む。
長い沈黙。
やがて。
老魔族の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……魔王様じゃ。」
城内が静まり返る。
老魔族は震える声で続ける。
「微かじゃが。」
「間違いない。」
「魔王様の魔力が……流れておる。」
魔王は振り返ることなく歩き続ける。
広間の最奥。
玉座へ腰を下ろした。
静まり返る玉座の間。
やがて静かに口を開く。
「爺。」
「皆に。」
「そして、その子にも説明せよ。」
「はっ。」
老魔族は一歩前へ出る。
ヒロの方を向き、静かに語り始めた。
「もともと。」
「わしら魔族は、この辺境の地でひっそりと暮らしておりました。」
「人間と争う気など。」
「誰一人として持ってはおりませんでした。」
玉座の間は静まり返る。
「しかし。」
「魔族は人間より魔力が高く。」
「生まれながらに特殊な能力を持つ者も多かった。」
「それゆえ。」
「迫害されました。」
「捕らえられ。」
「売られ。」
「研究材料として連れ去られ。」
「人間の手によって、多くの同胞が命を落としました。」
老魔族は静かに目を閉じる。
「一人ひとりは強い。」
「ですが。」
「数には勝てなかった。」
「集落は焼かれ。」
「家族は散り散りになり。」
「明日を生きることすら難しい時代でした。」
少し間を置く。
「その時です。」
老魔族は玉座へ視線を向ける。
「魔王様が立ち上がられた。」
「誰よりも先頭に立ち。」
「一人。」
「また一人と。」
「捕らわれた同胞を助け出していかれました。」
「その背中を追うように。」
「自然と魔族は集まり始めました。」
「それが。」
「この国の始まりです。」
誰も口を挟まない。
「この地は。」
「人間へ攻め込むための国ではありません。」
「人間から。」
「魔族を守るための国です。」
老魔族の声は最後まで穏やかだった。
「守る。」
「そのための戦争でした。」
「だから。」
「戦鬼アンネローゼ殿が消息を絶たれてからは。」
「こちらから戦を仕掛ける理由もなくなりました。」
「守るべき同胞は。」
「この国にいる。」
「それだけで十分だったのです。」
老魔族はゆっくりと魔王を見る。
「ですが。」
「先日。」
「王国より。」
「戦鬼アンネローゼ殿の魔力が立ち上りました。」
「魔王様は、お一人で様子を見に行かれました。」
「そして。」
老魔族はヒロへ歩み寄る。
その目を静かに見つめる。
「連れ帰られたのが。」
「あなたです。」
震える手を胸へ当てる。
「あなたの中には。」
「微かではありますが。」
「確かに。」
「魔王様の魔力が流れております。」
玉座の間は、再び静寂に包まれた。
玉座の間が騒然となる。
「馬鹿な!」
「魔王様の血が!」
「よりにもよって人間と!?」
「あり得ぬ!」
怒号が飛び交う。
誰も信じられなかった。
魔王の力を受け継ぐ者。
それが人間だという事実を。
しかし。
一人の魔族が静かに呟く。
「……いや。」
「千年だ。」
その一言で、広間は少しだけ静かになる。
「戦が終わり。」
「千年もの時が流れた。」
「わだかまりは消えておらぬ。」
「それでも。」
「人間と魔族の血が。」
「混じり合う時代になったということか。」
怒りは少しずつ消えていく。
殺気も薄れていく。
残ったのは。
驚き。
戸惑い。
そして。
千年という時の流れへの複雑な思いだった。
老魔族は静かにヒロの前へ歩み出る。
ゆっくりと。
片膝をつく。
深く頭を垂れる。
「ヴァルグレイ家。」
「グラドールの子。」
「ゼルハルト。」
「この命。」
「ヒロ様と共に。」
ヒロは目を丸くする。
「え……?」
何が起きているのか分からない。
しかし。
玉座の間にいる全員が理解していた。
それは。
魔族が絶対の忠誠を誓う口上だった。
魔王は玉座へ腰掛けたまま、その光景を静かに見つめる。
苦笑しながら。
どこか優しい目をしていた。
やがて。
二人目の魔族が前へ出る。
片膝をつく。
「ルクシア家。」
「ヴォルゼンの子。」
「レイガ。」
「この命。」
「ヒロ様と共に。」
三人目。
「ベルディア家。」
「ガルムの子。」
「イシュト。」
「この命。」
「ヒロ様と共に。」
四人目。
「アスラド家。」
「ゼノールの子。」
「カイゼル。」
「この命。」
「ヒロ様と共に。」
一人。
また一人と。
玉座の間にいた魔族全員が。
ヒロの前へひざまずき。
静かに忠誠を誓い始めた。
ヒロだけが。
最後まで。
何が起きているのか理解できずに立ち尽くしていた。
最後の一人が口上を終える。
玉座の間は静まり返った。
ヒロだけが取り残されている。
「……えっと。」
「何が起きたんですか?」
魔王はしばらくその顔を見つめていた。
そして。
堪えきれなくなった。
「ぶははははは!」
玉座の間へ豪快な笑い声が響く。
「我もやられた!」
腹を抱えて笑う。
「こそばゆいであろう!」
「な?」
「な?」
そう言いながら玉座を降りる。
ヒロの前まで歩いていくと。
大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「まあ、そのうち慣れる。」
ヒロは困ったように髪を押さえる。
魔王は満足そうに頷いた。
そして振り返る。
「宴だ!」
「用意せよ!」
「はっ!」
魔族たちは一斉に立ち上がる。
玉座の間は一瞬で慌ただしくなった。
大きな机が運ばれ。
料理が並び。
酒樽が次々と転がされる。
楽器を抱えた魔族が集まり。
笑い声が広間へ広がっていく。
「飲め!」
「歌え!」
「今日は祝いの日だ!」
あっという間に宴が始まった。
酒を酌み交わし。
肩を組み。
歌い。
笑う。
千年間、守り続けてきた魔族の国は。
驚くほど温かかった。
ヒロは少し離れた場所から、その光景を静かに眺める。
誰も戦っていない。
誰も憎しみを口にしない。
笑い声だけが響いている。
その光景を見ながら。
ふと、思った。
(……戦争なんて。)
(馬鹿馬鹿しい。)
(こうして。)
(一緒に食事をして。)
(酒を飲んで。)
(笑い合えば。)
(分かり合えるんじゃないだろうか。)
普段のヒロなら。
そんな考えは思い浮かばない。
魔法工学を研究し。
インフラを整備し。
物事を論理的に考える。
それがヒロだった。
だからこそ。
今、この場所で自然に浮かんだその考えは。
どこか新鮮だった。
ヒロは小さく笑う。
(……でも。)
(悪くない。)
(この考えは。)
(きっと、間違っていない。)
翌朝。
ヒロは魔王城の広間に立っていた。
目の前には魔王。
その後ろには、多くの魔族たち。
ヒロは静かに頭を下げる。
「やっぱり。」
「帰ります。」
「みんな、心配してると思うので。」
魔王は静かに頷いた。
「……そうか。」
少しだけ笑う。
「戦鬼に。」
「よろしく伝えよ。」
ヒロも苦笑した。
「はい。」
「たぶん。」
「ものすごく怒ってると思いますけど。」
その一言で。
広間中に笑い声が響いた。
「ははは!」
「間違いない!」
「魔王様!」
「また何も言わず連れて帰ってきたんでしょう!」
「魔王様の優しさは伝わりづらいからな!」
魔王は苦笑するしかなかった。
「……否定はせぬ。」
再び笑いが起こる。
その時。
昨日、最初にヒロへ忠誠を誓った老魔族が前へ進み出る。
魔王の前で片膝をついた。
「魔王様。」
「お願いがございます。」
「申せ。」
「ヒロ様へ。」
「成人の儀を受けていただきたく存じます。」
ヒロは首を傾げた。
「成人の儀?」
老魔族は静かに説明する。
「魔族は成人になると。」
「秘めた魔力を解放する儀式を行います。」
「それによって。」
「一族固有の力へ目覚める者もおります。」
ヒロは黙って聞いている。
老魔族は続けた。
「ヒロ様にも。」
「微かではありますが。」
「魔王様の魔力が流れております。」
「ですが。」
「その量は、あまりにも少ない。」
「おそらく。」
「何も起こらないでしょう。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「それでも。」
「儀式だけは。」
「受けていただきたいのです。」
「せめて。」
「わしらからの餞別として。」
広間は静まり返る。
魔王は老魔族を見つめ。
静かに頷いた。
「……よかろう。」
「成人の儀を執り行え。」
老魔族はゆっくりと杖を掲げた。
ヒロの足元へ、大きな魔法陣が展開される。
「成人の儀。」
静かな声が玉座の間へ響く。
魔法陣が淡く輝き始める。
やがて。
ヒロの身体は優しい光に包まれた。
その瞬間だった。
「……っ。」
ヒロの脳裏へ、膨大な記憶が流れ込む。
辺境の村。
焼かれた家。
泣き叫ぶ子ども。
助けを求める声。
そして。
一人の男。
魔王。
剣を振るい。
傷付きながら。
一人。
また一人と。
魔族を救い続ける姿。
誰よりも先頭に立ち。
誰よりも多く傷付き。
誰よりも多くの命を背負ってきた。
それは。
魔族が二千年間、語り継いできた歴史だった。
ヒロの頬を、一筋の涙が伝う。
光は静かに消えていく。
玉座の間は静まり返る。
ヒロはゆっくりと目を開けた。
誰も息を呑む。
魔力は変わらない。
特別な力へ目覚めた様子もない。
何も起きなかった。
……はずだった。
老魔族が震える声を漏らす。
「……あ。」
ヒロは首を傾げる。
「え?」
肩へ垂れた髪が視界へ入る。
いつの間にか。
短かった黒髪は。
腰まで届くほど長く伸びていた。
魔王と。
瓜二つだった。
誰かが涙を零す。
一人。
また一人。
玉座の間にいた魔族たちが、静かに涙を流していく。
「……そっくりじゃ。」
老魔族は震える手で口元を押さえた。
「若い頃の。」
「魔王様、そのものじゃ。」
魔王は玉座から静かにその姿を見つめる。
少しだけ困ったように笑った。
「……まったく。」
「こんなところまで似るとはな。」
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