26.心に触れて
「とりあえず、食事の準備をしておいてくれ。荷物を置いてくる」
「わかりました」
先生は私に淡々と指示すると、仕事部屋に入っていった。
私はダイニングテーブルの上に袋を置いて、手にミトンをはめる。手が震えていることに気がついたので、入っていた器をいつも以上に気をつけて取り出す。
魔法がまだ効いていて、器の中からはかまどにかけられたままのようにぐつぐつと音がする。
たちのぼる匂いを胸いっぱいに吸い込んで、いつもなら心が踊る場面なのに、今日は緊張で気持ちが上がらない。二人分の食器やカトラリーを台所から運んできて、淡々とテーブルにセットしたところで、先生が入ってきた。
「座ってくれ」
「はい」
先生に促されるまま、何日かぶりに向かい合わせになった。けれど、ようやくまともに顔を合わせられた安心よりも、居心地の悪さの方が強い。風が出てきたのか、庭木がざわめく音がする。
ややあって、先生が口を開いた。
「マルタのところで魔法を使ってきたそうだな」
「す、すみません。許可もなく勝手に」
ぎくっとする。帰ってくる途中で、マルタさんの家に立ち寄ってきたんだろう。先生は規則違反を咎めることなく、静かな調子で続けた。
「構わない。私的な使用の範囲内だし、報酬は受け取ってないんだろう?」
「……はい」
含みを感じる言い回しに体が勝手に小さくなる。あくまでもお下がりをいただいた……ということになっているけど、要するに嘘をついているわけなのでちょっと後ろめたい。
「まあいい。成果物を見せてもらった感想だが」
「はい」
さらに講評までされるようだ。全身を久しぶりの緊張感が走り、背中に冷や汗が浮かぶ。先生はあの小さな魔法を見て、何を思っただろう。マルタさんは喜んでくれたけれど、魔法師から見れば取るに足らないものに違いない。
……別に褒めてくれなくてもいいから、嗤わないでほしい。
祈るような気持ちで奥歯を噛んだ私を、青い瞳がじっと見つめている。裁こうとしている雰囲気でもない。先生はいつも通りの平坦な表情を崩さない。
「あのような小物の修復は、ほとんどの魔法師にとって無理難題に近い。いくら蛇口を絞っても針の細さの水は出せない……というのが、魔法が繊細な作業を苦手とする理由だ。しかし君には、そのどうしようもない壁を破れる才能がある」
初めて受けた『才能』という言葉に心は一瞬上向いたけれど、すぐに今までの評価に塗りつぶされる。
「それは私の魔力があまりにも弱いからなので」
そう。本来ならもっと大きなものを修復するための魔法なのだ。しかし、私の魔力では手のひらに乗るほどの小物を修復するのがやっと。正しく魔法を理解し、使用できていることは証明できても、使い物にならないと学生時代の指導教官によく言われていた。
しかし、先生は首を横に振る。
「たとえそうだとしても、他の者にはできないことができる。それは強みと呼べるのでは?」
先生はジャケットのポケットからあるものを取り出し、テーブルに置いた。それは初めて会った日に見た、大きくキャップが歪んだペン。
「あっ……」
私はこれを見た時、小物を魔法で直そうとした人は珍しいと、自分以外にもそんなことをする人いたのかと、そう思った。
けれど、今ならわかる。先生はあの髪飾りを直すために試行錯誤していたのだと。
「不恰好だろう。私がやるとどうしてもこうなるが、君ならもっとうまくやれるはず。さて。この場合、優れているのは私と君のどちらになる?」
先生は自嘲めいた口調で言うと、長く息をついた。
「とにかく、小さくて取るに足らないなどと卑下する理由はどこにもない。あの髪飾りは私の思い出の品でもあるのに、自分ではどうしても手出しができなかった。このように崩してしまうのがわかっていたから」
先生は懐にペンをしまい、大きく息を吸った。何かを決意したように私をまっすぐに見つめる。凪いだ湖面を思わせる深い青の瞳に、月を映したように強い光が宿っている。
「君が来てくれて良かった。綺麗に直してくれてありがとう」
「先生……」
ずっと嗤われ続けた私の背中に、温かな手が添えられるようだった。涙の気配がしたので、私はつい俯いた。井戸に飲み込まれたあの日からずっとこらえていたけれど、もう我慢できなかった。
先生は私が泣き出したことに驚いたのか、声を上げた拍子にずり落ちた眼鏡を上げることもせず、私をまん丸な目で見ている。
胸の中に詰まっていた感情が溢れ出してくる。
「私、これからも先生のおそばにいてもいいのでしょうか」
「……もちろん」
「ずっと避けられていたので、怖かったのです。力不足だと思われているのかと」
「それは……君をひとりで調査に行かせた……判断を誤った自分に腹を立てていたからだ。危ない目に合わせてしまって、合わせる顔がなかった。よくよく考えれば、あの出来事は必然だったというのに」
先生の目は、その言葉を裏付けるように揺れている。
「必然、とは……?」
「君は湖畔の街に生まれ育ったから、水の魔力と特に相性が良いのだろう。あの場に誘われたのもそのせいだ」
「生まれ育った環境が、魂や魔力に影響を及ぼす……のでしたっけ。すみません、不勉強で」
授業でそんなような話を聞いた気がする。とはいえ普通の魔法を使う時には気にすることでもないので、頭の奥底に封印していた。
「ところで君、魔石ペンライトの起動の呪文は?」
「え、『起きて』にしていますが……って、もしかして……?」
「そう。それで眠っていた魔法を起こしてしまったというわけだ」
「いや、待ってください。私にそんな力はないのでは」
古式魔法を動かすには、精霊の領域に触れられるほどの魔力を必要とするという。並の魔法師では術者が務まらないほどだというのに、この野ねずみに何ができるというのか。
「いや。今回は水脈から汲み上げた魔力で動く魔法だったので、眠っているものを起こすだけなら大きな力は要らない。君の持つ魔力との相性が良いのならなおのこと、小石どころか砂粒を投げても波紋が起きてしまう」
「あんな小さなライトを使うだけのことでも……?」
「そう。なので、今後は水場に近寄った際は気をつけるように。今回のように水脈から魔力を汲むような魔法が仕込んであった場合、また似たようなことが起こるかもしれない……あの時も言ったが、昔は暮らしを支えるためにあちこちにこのような魔法が仕掛けられていた。規制がなかったので」
「きっ、肝に銘じます」
背筋を伸ばした私に向けられた目線は優しかった。
「とにかく。普通の人間なら、あんな風に巻き込まれたりはしない。つまり、君は間違いなく魔法使いだということ。先ほども言ったように、君は持てる力が小さいだけで別に劣っているわけではないのだから」
『君は間違いなく魔法使いだ』
先生の青い瞳に、幼い日に見た金色の光の幻を見る。あの魔法使いとは髪の色だって全く違うというのに、その声が私を導いた言葉と重なって、心の中から体の隅々にまで熱が広がっていく。
「これを君に」
私の涙が止まるのを見計らって先生が取り出したのは、私が井戸の事件の時になくした若草色のリボンだった。
「見つけてくださってありがとうございます!! 両親からもらった、大切なものだったのです」
私の歓声に、先生はなぜか難しい顔になった。綺麗に畳んである若草色のリボンを広げると、端から真ん中にかけて大きく裂けてしまっていた。井戸に引っ張られた時にどこかにひっかけてしまったのだろうか。
「見ての通り、破れてしまっている。弁償したくとも、同じ色のものが見つからなかった。申し訳ない」
「いえ。このくらい繕えばいいので……別に気にされなくても……」
残念だけど……形があるものはいつか壊れるものだ。さいわい縫い物は得意なので、この際、縫い目に合わせて模様を刺したりしてもいいだろう。しかし、先生は首を横に振る。
「……そういうわけには。代わりに、仕事の時に着ていた服と合いそうなものを買ってきた。どうか納めてほしい」
先生は恭しく目線を落とすと、どこからともなく小さな包みを取り出した。中には露草色のリボンが入っていた。色は違っても、長さやなめらかな質感は若草色のものとよく似ている。一生懸命に探してくれているのを想像すると、胸がほんのりと締め付けられる。
それは甘いような、くすぐったいような。今まで味わったことことのない不思議な感覚だった。
「そうだ、私からもお渡ししたいものが」
私は台所から器を持ってくる。
「マルタさんといっしょに作ったんです」
紅玉のように輝く木イチゴのタルトを見た先生の顔が、明らかに綻んだ。そして、まるで小さな子供のように、私を見上げてたどたどしく言った。
「……ありがとう。好物なんだ」
気持ちを明かしてくれたことが嬉しくて微笑みを返すと、やっぱりいつものように顔を逸らされた。だけど、その態度にもう心細くなったりしない。
先生の白い頬と耳には少しだけ朱が差していることに気がついたからだ。




