第70話 月白の魔法使い
はじめよう。
僕を、殺して。
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曇天を引き裂いて、メイランが鋭く踏み込んだ。
ザフィルの防御結界も、破壊の魔法も、メイランの体には届かない。すべての魔法が、彼に触れる直前で消滅した。
一歩分、瞬間転移で後退する。
わずかに空いた空間に、無数の防御結界と破壊魔法が現れた。しかし、あらゆる魔法がメイランによって無効化されてしまう。
メイランのごく近くで、岩が破裂した。鋭い爆発音が響き渡る。
爆風に煽られて飛んだ小石が、彼に薄い傷を作る。
「なるほど……」
ザフィルが小さく呟いた。
「じゃあ次だ」
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シルリネアは爆発音に驚き、反射的に立ち止まってしまった。メイランとの距離が開く。
いけない。シルリネアは慌ててメイランの背を追った。
彼のごく近く、手の届く範囲にいないと、ザフィルの魔法を防げない。
防げないと怪我をする。怪我をすると、メイランの動きを鈍らせてしまうかもしれない。
それに、彼に触れられる距離を維持すれば、癒しの魔法が使える。シルリネアは、メイランの動きだけに集中することにした。
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メイランの剣がザフィルをかすめる。ぱっと血が飛び散り、ザフィルの右上腕に赤く太い線が生まれた。だが、ザフィルが負傷を気にする様子はない。眉ひとつ動かさず、動きが乱れることさえない。
そのまま二閃、三閃と続ける。左前腕と右脇腹に浅からぬ傷がついたが、ザフィルは動じない。血はとめどなく流れ、彼の上等な服を赤く濡らしているというのに。
つい先程のように、血が止まる気配もない。
痛みを感じていないのか? メイランの肌がゾクリと粟立つ。
痛みのない相手は厄介だ、腕を断ち、足を折り、胴を潰し、動けない「モノ」にならないと止まらない。
指の一本さえ動かさず、視線も使わずに魔法を操れるザフィルの場合、どこまで破壊しなければならないのか、見当もつかなかった。
想像するだけでゾッとする。そんなことはしたくない。
——いやだめだ。
メイランは心を引き起こし、剣を握り直した。
こんな気持ちで何とかなる相手じゃないのは、最初からわかっていたはずだ。
今はとにかく、やるしかない。
少なくとも、シルリネアは守らないといけない。彼女を殺されるのは、とても耐えられない。
己の命がなくなった方が、まだマシだ。
手足を叱咤し、もう一度踏み込む。
魔法は効かない。攻撃は当たる。
ザフィルのわずかな体の動き、視線の位置で、瞬間転移先さえ読み切れる。
避けられることは、なくなったと言っていい。
ザフィル自身は体の使い方が下手だ。身体能力では負けようがない。
そこを攻めていくしかない。
どうにかして——止めなければ。
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メイランに魔法が効かない。
わかっていたつもりだが、ここまで効かないとは。
すごい。
称賛に値する。
体が勝手に発動する魔法も、意図して使う魔法も、メイランには一切届かない。触れる直前、彼の手の届く範囲に入ると霧散する。
礫や矢の魔法も、炎や吹雪、大岩を作ってぶつける魔法も、数を増やしても、質を上げても、メイランの前ではすべて意味をなさない。
魔法であれば、メイランは形状を問わず無効化できる。
睡眠や混乱、弱体化、認識阻害といった魔法さえ効かない。
あまりにも常軌を逸した能力だ。魔法しか使えない自分との相性は、最悪だと思えた。
メイランは剣の達人だ、近寄らせれば勝てない。なのに接近を防ぐ手立てがない。
多少の時間稼ぎや妨害はできるが、たいした効果は期待できない。
——ああ、負けた。
すごく愉快だ。僕を力尽くで止めてくれる人が、まだいたんだ。
これだけ楽しいのは、いつ振りのことだろう。もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。
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ザフィルがうっすら笑うのを、シルリネアは見た。
気味が悪い。
次の瞬間、爆発音が響いた。
メイランの左脇腹から腕にかけて、複数の枝が突き刺さる。ザフィルが爆発の魔法で灌木を弾き飛ばし、飛び道具として使ったようだ。
シルリネアはメイランの影に入っていて、怪我をしていない。メイランが庇ってくれたのかもしれないが、考える暇なんてない。
爆発は続く。
2発、3発、4発。
角度を変えて、多角的に攻めたてられる。
メイランは当初ひとつずつ捌いていたが、埒があかないと思ったのか、特に危険な部位以外を守らなくなった。
その分だけ彼の傷が増える。だがまったく意に介さない。
シルリネアはメイランの負った傷をまとめて癒すべく、彼の背中に手を押し付けた。
メイランを癒す時は、膨大な反動を受ける。それでもシルリネアは、躊躇わない。
たとえ普段は1割程度の反動が、10割になるとしても。
あるいは、それを上回るのだとしても。
メイランの体に、強引に癒しの魔法を押し込んだ。黄金色の光がメイランの体内を隅々まで巡り、傷を癒す。
あっという間にメイランの傷が塞がり、肉が盛り上がった。
続いて、反動。シルリネアは自身の臓器を絞られ、握って擦られるような感覚に襲われる。メイランが傷を負った部位に近い場所から、じわりと血がにじんできた。
あまりの痛みに膝をつきそうになったが、歯を食いしばり、なんとか踏みとどまる。
メイランの心が流れ込んできた。
戦いたくないという感情が、まずシルリネアに突き刺さる。次いで、それでもやれるのは自分しかいない、せめて自分が戦い、殺してやらねばならないと、自身を鼓舞する声が聞こえた。
メイランは今でも、ザフィルを憎めていない。千々に乱れる気持ちを必死に束ね合わせ、なんとかザフィルと対峙している。
悔しさと悲しさが、シルリネアの心を支配した。
私が彼ぐらい、戦えたら良かったのに。
頑張ったつもりだ。それでも、彼に追いつくなんて夢のまた夢だった。
私は剣をまともに握ってから所詮半年で、彼は10年以上——。
それでも、もし追いつけたなら。そうでなくとも、彼が守らずに済むぐらいになれていれば。
メイランを戦わせないで済んだかもしれない。
そうであったなら……。
心身の痛みに耐えて前を向くと、ザフィルが外套の内側から短刀を出すのが見えた。
「メイラン!」
シルリネアが思わず叫んだ。
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シルリネアに言われるまでもなく、メイランはザフィルの動きに気付いていた。
なにをするつもりなのか。シルリネアを背中にかばったまま、半歩下がる。
優美な弧を描く短刀が、銀色に冷たく光った。
ザフィルは口元に薄く平板な笑みを張り付け、迷うことなく自身の首に短刀を向けて……一息に掻き切った。
そこは間違いなく、首の大血管だった。
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「うわああああああああ!!」
メイランが悲鳴をあげた。あまりのことに、動きが一瞬遅れてしまった。ザフィルを止められない。
噴水のような血の雨。メイランは剣を投げ捨て、ザフィルを掻き抱いた。
腕の中、ザフィルの血を止めようとする。血管を繋ぎ合わせようとするかのように、ザフィルの首を押さえ続けている。その指の間からは、虚しく血があふれていた。止められない。
「シルリネア!」
蒼白な顔で、メイランが振り返った。
シルリネアは呆然と立ちすくんでいたが、びくりと震えて我に返る。彼女の口の端が、うっすらと笑みの形を取っていた。
「頼む、助けてくれ! お前に酷なことを頼んでる! でも助けてくれ! お願いだ、お前しか、頼れない……!」
最後は泣き声に近かった。シルリネアはぎりりと奥歯を噛み締める。
両手の拳を握りしめた。拳は震えている。
怒ればいいのか泣けばいいのか、それとも笑い飛ばせばいいのか、さっぱりわからない。
私はザフィルを殺すために、ここまで来たんだ。なのに生かせと言うのか。
痛みに耐えてきたのは、ザフィルを殺すため。
あなたと行動を共にしたのは、あなたの優しさが嬉しかったから。
あの日、あなたがザフィルを殺すと言い切ったことが、私とあなたを繋いでいると信じていた。
なのに、ここであなたは裏切るのか。
ザフィルのために、あなたは泣くのか。
いや、違う。
違う。
もともとあなたは、弟を愛していた。
だからその行動は、当然のことなんだ。
カルブのように、死を願う不気味な愛情なんかじゃない。
普通の、ごく健全な愛だ。
だからあなたは、素晴らしい。
だからあなたは、美しい。
私は、あなたの悲しい顔を見たくない。
私なら、あなたの笑顔を取り戻せる。
そうでしょう、メイラン。
シルリネアは決心した。
イライラと大股でメイランの正面に回り込み、今まさに命が絶えようとしているザフィルに手を差し伸べる。
黄金色に輝く光が、シルリネアからザフィルに流れ込んだ。
ザフィルの傷はあっという間に塞がり、血の気を失っていた顔色に赤みが差す。
一方のシルリネアからは、頬と唇の赤みが急速に消えていった。
止血を拒む何かを剥がし取って出血を止め、さらに傷を塞ぎ、血を、生命力を分け与える。
迷うことなく体の深いところまで分け入って、感じ取れる傷を片っ端から塞いでいった。
だめだ、まだ傷ついている。もっと癒さないと。
もっと、もっと…………まだ、足りない——!
自分でも止められない癒しの意志に導かれるまま、シルリネアの意識は途絶える。
遠ざかる意識の中で、シルリネアはザフィルの内面に手を伸ばし、引き寄せた。
「……シルリネア?」
メイランが呆然と声をかける。
彼の腕の中には、血の気が戻って穏やかに眠るザフィルと、急速に血の気を失い、青白く昏倒するシルリネアがいる。
「嘘、だろ……」
メイランは、ふたりを抱きしめて嗚咽した。
ありとあらゆる後悔が、彼の身を責め苛む。混乱と悔恨の渦に叩き込まれ、どうすれば良かったのか、まったくわからない。
天が崩れ落ちるかのように、雨が降り始めた。




