第103話 鎮魂
嫌だ。
行きたくない。
名を呼ばれるのさえ不快だ。
あいつを見るだけで吐き気がする。
あの口を塞ぐためなら、何をしたっていい。
それなのに。
足が止められない。
意識さえ奪われかけている。
動かない体をどうにか動かし、兄に訴えた。
メイランの様子を見て、彼も動けないことを理解する。
では魔法ではないのか。この激烈な強制力は。
もっと根源的な、たとえば魂に刻まれているような、何か。
何が起きているのかを理解するため、ザフィルは薄れる意識を総動員して、自分自身を探査する。
探査の糸を伸ばした瞬間、シルリネアの魔力を知覚した。
こちらの状況に気付くのが早い。
渡した魔法生物を使いこなしている。
それならば。
ザフィルは、自分自身のことをシルリネアに委ねることにした。
彼女なら、きっと解決してくれるだろう。それまで、ただ耐えて待てばいい。
次にやるべきことは、決まっている。
「メイ、ラン……」
シルリネアのことを伝えたい。
まともに声が出ない。それでも、どうにか。
「彼女が、いる……」
メイランの苦渋に満ちた表情が薄れ、空気が軽くなる。
「マジか……! はは、すげぇ」
苦しそうに、それでも嬉しそうに、メイランが笑う。
その時、ザフィルを苛む力が少し弱まった。まだ動けないが、脅迫感にも似た恐怖が薄れる。
「おや」
アザルファが意外そうな声を出した。
「さっき逃げた小鼠だね。どうやって潜り込んだのかな。ナザ、追い出しなさい」
途端に、凄まじい強制力がザフィルを襲う。
シルリネアを排除しなければならない。魔力を内側に伸ばそうとし——。
急激に、圧力が緩和された。
強制力はある。だが、抵抗できない程ではない。
シルリネアの叫びが、内側から聞こえてきた。
そうだ。メイランにシルリネアの力を渡さないと。
ザフィルは足を一歩、踏み出した。メイランに向けて。
いける。
ほんの数歩の距離だ。さっきまでは到底たどり着けないと思えたが、今ならば。
魔法は使えない。この状態では、制御しきれそうにない。
だからザフィルは膝を曲げ、跳んだ。一挙動で辿り着ける方法を、それしか思いつけなかった。
飛び込むように手を伸ばし、どうにか兄の腕を掴んだ。メイランはザフィルを引き上げ、受け止めた。
ザフィルに気を取られ、メイランの足が大きくアザルファの方へ向かう。
それでもメイランは、ザフィルを受け止めることを優先した。
「受け入れて」
メイランに抱えられながら、ザフィルはシルリネアの魔法を兄の体に押し込んだ。
******
地底湖の上に、ぼんやりとした人影が浮いている。
複数人。全員が若い、あるいは幼い姿をしている。
「幽霊、か?」
影嵐が呟く。
湖上の人影は、全員半透明の姿をしていた。
「どうでしょう、少し違うような」
ヴェンツェルの見立てる限り、敵意は感じない。だからと言って味方とも限らないが。
人影のうちのひとりが、進み出た。少女だ。まだ10代に見える。
「私たちはかつて、アザルファに『飼われて』いました……」
影嵐とヴェンツェルの全身に、ぞわりと鳥肌が立つ。
ザフィルだけではなかった。アザルファは、過去に何人もの子供を「飼って」いた——。
「私たちは死に、あるいは殺され。この湖に捨てられ——縛られたままここにいます」
影嵐が舌打ちをした。アザルファの所業に対する、怒りの表出として。
ヴェンツェルもまた、どうしようもない怒りを感じていた。だが、ここで怒りに飲み込まれる訳にはいかない。
心を整えてから、少女に話しかける。
「あなた方は、幽霊ですか?」
少女が首を横に振る。
「私たちは、死んだ子供たちの思念の集合体です。全員が意識と意思を共有しています。個々で完結している幽霊とは、少し違う」
「なるほど」
ヴェンツェルは納得し、頷いた。
「では、我々に何のご用ですか?」
「謝りたくて。あと、お願いも」
謝罪とは何だろう。ヴェンツェルは心の中で首をひねる。影嵐も似たような気持ちらしく、怪訝そうに眉をひそめていた。
「わかりました。まずは用件を伺いましょう」
ヴェンツェルに促されて、少女は話しはじめた。
「まず、皆さんのお連れの……彼女を驚かせてしまいました。ごめんなさい。生きている人を見るのが久しぶりで、つい……」
少女はシルリネアを示しながら詫びた。
なるほど。湖面に幼いシルリネアが映っていたのは、彼らの仕業だったということだ。
嬉しさと悪戯心が行き過ぎた結果、シルリネアの姿を借りて挨拶をした、というあたりだろうか。
物悲しさと微笑ましさを同居させて、ヴェンツェルは微笑んだ。
「構いませんよ。きっと彼女も、そう言うでしょう。それで、お願いというのは?」
「アザルファを殺してください。これ以上、私たちのような存在を出さないように」
ヴェンツェルは影嵐と視線を交わし、頷く。
「ええもちろん、そのつもりです」
少女の表情がほころんだ。
「ありがとうございます……! 私たちはここから動けませんが、アザルファについて知っている限りのことをお伝えします」
彼女の声と共に、他の思念体たち——かつての子供たちが、集まってきた。
話を聞き終わった後。
「おい」
沈黙を守っていた影嵐が、口を開いた。
「お前ら、ここにいるので全員か?」
「はい、そうですが……」
思念体の少女は、意図が読みきれていないようだ。戸惑っている。
影嵐が頷いた。
「わかった。終わったら、ここにいる人数分、少なくとも頭蓋骨だけは湖底から探し出す。できるだけ意向を聞いてやるから、眠りたい場所を考えておきな」
驚く思念体たちの様子を見て、ヴェンツェルがそっと微笑んだ。
青嵐の人たちは、総じて義侠心が強い。それは影嵐も同様のようだ。
それにしても、とヴェンツェルは考える。
かなり重要なことを聞けた。
シルリネアが目覚めたら、彼女とも話し合わなければならないだろう。
******
シルリネアは背中を押されるように、メイランの中に飛び込んだ。
やっぱりザフィルはすごい。
シルリネアの癒しの魔法の特徴を掴み、合わせてきた。
ザフィルの魔力と魔法ではメイランに届かないはずなのに、シルリネアの方法を模倣して、メイランの中に入る手助けをしてくれた。
ほんの僅かな助けだったが、それでも十分だ。
メイランもまた、ザフィルのものと似た強制力に絡め取られていた。
急がないと。
シルリネアは、メイランの記憶の奥深くを探した。途中、左腕の傷が目に入った。傷を優しく撫で、癒してから先へ。
進むたび、メイランの記憶が流れ込んでくる。
シルリネアとの日々、ひとりで旅をしていた年月、青嵐での幸福、そして——。
メイランの奥底に眠る、つらい記憶。
シルリネアはそれらの記憶を、足早に通り過ぎた。
守りたい人の過去を掘り起こしに来たのではない。もっと先、強制力の絡まりの根本を探さないと。
あった。
ザフィルのものとよく似た印が刻まれている。
メイランもまた、彼自身の意思を問われることなく、神に捧げられていた。
悲しい気持ちを抑え、絡みついた強制力をほどく。
強制力を解いた後、ザフィルの時と同様に生命の根源を切り離し、メイランに分け与えた。
「ちゃんとメイランを守ってね」
切り離した自分に、念を込めるように声をかけた。もう二度と、彼の自由が脅かされないように。
だってメイランは、自由に振る舞っている時が一番素敵だから。
シルリネアは微笑み、最後に念のため、メイランの印について確認しようと手を触れた。
「欠けてる」
メイランの印は、歪に一部が剥ぎ取られていた。
神の象徴は予想通りだった。循環、永劫、完成、そして昼。
それなのに。
ああ、そうか。
唐突にシルリネアは理解した。
メイランに魔法が届かないのは、この歪な印のせいだ。
魔法に関わるすべての才能が——使う才能も、受け取る才能も——剥ぎ取られた印と共に消えてしまったんだ。
そして、剥ぎ取られた先は。
「ザフィル」
剥ぎ取る機会は、たったの1度。ルハサーン寺院で、ふたりが生き別れた日。
ザフィルが初めて魔力を目覚めさせ、暴走させた日。
彼らの道は、ここで別れた。だから、あの瞬間しかあり得ない。
無意識にやってしまったのだろう。何と言っても5歳程の年齢だ。良し悪しの区別さえつかない。
そしてザフィルは、ふたり分の才能を手に入れて「しまった」。
メイランがこの事実を知ったら、どう思うだろう。
少し考えて……シルリネアは微笑んだ。
「気にするはずない」
だって彼は、魔法が使えなくて困ったことなんてないから。
魔法が効かないことを、当然のこととして受け入れているから。
戻ろう。
やるべきことはやったはずだ。
「ヴェンツェルさんと影嵐さん、待たせちゃってるかな」
シルリネアは、ザフィルの魔法生物に戻る旨を告げた。
******
「おかえりなさい」
ヴェンツェルの声が聞こえた。
魔法生物が優しくシルリネアを支えている。
「ありがとうございます。戻りました」
シルリネアが微笑んだ。
左上腕に痛みを感じた。メイランを癒した時の反動だ。
止血しようと腕を見ると——既に包帯が巻かれていた。
「影嵐さんが気付いて、やってくれました」
ヴェンツェルに言われ、シルリネアは影嵐を見た。影嵐の表情に変化はない。
「どうせ青嵐の不肖の弟が、迷惑をかけたんだろ」
シルリネアは驚き、目を見開く。
「メイランの傷だって、どうしてわかるんですか」
「魔法使いはそんなところに怪我しねぇよ」
ぶっきらぼうな影嵐の言葉と、驚きすぎて言葉を失っているシルリネアを見て、ヴェンツェルは笑った。
「まあいいじゃないですか。シルリネアは顔色があまり良くないから、少し休みましょう。休みがてら、情報交換と作戦会議です」
シルリネアを座らせ、ヴェンツェルも腰を下ろす。影嵐だけは座らず、いつでも動ける姿勢を崩さない。
「こちらは、いい話が聞けましたよ。そこの湖に素晴らしい味方がいましてね」
ヴェンツェルは楽しそうに話しはじめた。




