アメリカ分断
枢軸艦隊による東海岸強襲から昭和19年8月6日に米国が枢軸同盟に無条件降伏を受諾するまでの2か月間、北米大陸の戦況はめまぐるしく変転を続けた。
カナダ領ニューブランズウィック州に上陸した独仏伊西連合軍は、セントローレンス水路の確保のためカナダ領に侵攻した米軍の後背を襲い侵攻部隊と米本土との連絡を絶つ。
優勢な敵軍に広域包囲され補給を断たれた米軍30万は6月末に枢軸軍に降伏し、枢軸同盟はセントローレンス水路を確保する。
水路の閘門は米加両軍とも占領後の使用を考えて破壊されていなかったため、枢軸軍は五大湖方面に向け戦力と補給物資を送り込むことが可能となった。
五大湖地方のカナダ領に攻め込んでいた米軍部隊は、日本軍との間で停戦が成立したことにより西部方面の戦力を転進させたカナダ軍の反撃によりトロントやモントリオールなどの攻略に失敗しカナダ領から撤退する。
米軍はカナダ領東海岸に上陸した枢軸軍による米領への侵攻を恐れ、各戦線から戦力を抽出しニューヨーク州からメイン州に至る一帯の守備兵力を増強した。
モンタナ州ビリングスに展開していた日本海軍の戦略爆撃機部隊は、カナダとの講和条約が締結されカナダ領内の軍事施設の使用が全面的に可能となったため、シェルダンなどに展開していた戦闘機部隊とともにトロントやロンドンのカナダ軍航空基地に移動する。
米国東海岸から五大湖方面の主要な都市の殆んどを攻撃圏内に収めた爆撃部隊は、カナダ領への戦力展開がほぼ完了した7月中旬から東海岸の工業地帯に対する戦略爆撃を本格化する。
昭和19年6月の時点で五大湖西部方面のシカゴやミルウォーキーや東海岸沿海部の主要な工業都市は、航空攻撃と艦砲射撃によりその生産力は甚大な被害を受けていた。
また西海岸、中西部、南部と枢軸軍の占領地域が広がったことにより、米国国内の輸送網が寸断され国内物流の大半が途絶状態となっていた。
その結果東海岸が枢軸海軍によって攻撃された時点で既に米国の生産力は激減しており、兵器から燃料、農産物、日常用品に至るまでほとんどの物資の生産物流が止まり枯渇が始まっていた。
日本軍中西部方面軍はオンタリオ州に戦略爆撃機部隊の拠点を得たことで、五大湖方面への侵攻を中断、その主戦力はミズーリ川沿いに南下を始める。
一方でミシシッピ川を遡上して米軍の防御態勢が整う前にメンフィス、続いてセントルイスを占領した南部方面の枢軸軍もミズーリ川上流に進撃方向を変える。
7月の終わり、ミズーリ川沿いの要衝オマハとカンザスシティが南北から侵攻してきた枢軸軍により包囲されたことで、米国は実質的にその領土を東西に分断され、東西間の交通はほぼ遮断されてしまう。
7月20日、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーが暗殺され、ドイツ国防軍によるナチス・ドイツ政権に対するクーデターが起こる。
ナチス党幹部は国防軍により速やかに排除され、強大な武力を持つナチス武装親衛隊も首脳部が一斉に検挙拘束されたことで手早く制圧が進み、一部で武力衝突もあったものの短期間で混乱は収束した。
昭和19年7月30日、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、ジョージアなど南部諸州は、合衆国からの離脱を宣言し枢軸同盟との間に停戦条約が結ばれる。
南部諸州は南部連合を結成し合衆国から独立、ニューオリンズで枢軸同盟との講和交渉に入った。
当然米国政府は南部同盟の独立を承認せず南部同盟の首脳を反乱罪に問うが、もはや米国の主権は南部諸州には届かなかった。
この日を境に各所で米軍部隊の降伏が多発し、侵攻部隊への抵抗は微弱なものとなっていく。
8月6日、米国政府はフランクリン・ルーズベルト大統領の病気による辞任を公表するとともに、副大統領から繰り上がって33代大統領となったヘンリー・ウォレスにより枢軸同盟に対する無条件降伏の受諾が発表される。
その翌日、カリフォルニア州、アリゾナ州、ネバダ州、ユタ州の4州は中央政府の降伏受諾を認めず、正統合衆国政府を自認し枢軸同盟との戦闘を継続すると宣言した。
8月15日、西海岸の合衆国政府は前大統領フランクリン・ルーズベルトがニューメキシコ州で死亡したことを公表するとともに枢軸同盟との間で講和交渉の用意があることを発表、同日一方的に枢軸同盟との休戦を宣言する。
この日、昭和14年9月から始まり4年11ヶ月に亘って続いた世界大戦は終結し、世界から砲声は途絶えた。




