第百一水雷戦隊
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第百一水雷戦隊
昭和18年5月、第一航空艦隊がジブラルタル海峡を抜け日本へと向かっている頃、4月半ばに呉を出港し大西洋を目指す一群の艦艇がスエズ運河から地中海に入った。
太平洋インド洋から連合軍の戦艦が姿を消したことで、力の揮いどころを無くし髀肉之嘆を託っていた重雷装艦3隻と、航空主兵へと海軍戦略が変革したことにより艦隊の中に居場所を無くしていた水雷強襲艦の姿がそこにあった。
海軍正式呼称重水雷艇、通称水雷強襲艦が対米艦隊決戦の切り札の存在とされていた昭和12年の構想では、12隻で編制された重水雷艇戦隊を4個、合計48隻を呉型機動輸送艦からの改造と新規建造により配備することになっていた。
その後の海軍戦略の大転換に伴い機動輸送艦からの改造は取りやめになり、訓練用の4隻を除いて重水雷艇の建造は中止とされていた。
しかしここで、戦略転換以前から先行して製造されていた98式84センチ魚雷の存在が問題となった。
その生産量は製造中止が正式に決定された昭和15年半ばには、訓練用を除いて100本近くが完成或いは製造中だった。
莫大な予算を使って開発製造されたこの魚雷を全く使用しないまま廃棄処分とするには、かかった費用とその性能を考えると海軍首脳陣にも踏み切れないものがあった。(誰も責任を取りたがらなかったというのもあった)
軍令部、連合艦隊、艦政本部の間で行われた議論(責任の押し付け合いともいう)の結果、弥縫案としてあがったのは重水雷艇4隻の追加建造だった。
訓練艦から本来の兵装に姿を変え就役した4隻の水雷強襲艦は、連合艦隊第一艦隊に配備された。
追加の4隻は昭和17年10月までに完成し、同年12月に2個重水雷艇隊8隻で第百一戦隊が結成された。
本来艦政本部は大量建造する重水雷艇の艦名を一号から始まる通し番号にする予定だったが、8隻だけしか建造されないこともあり、それぞれに固有の艦名をつけることになった。
海軍高官たちによる検討の結果、重水雷艇の各艦は、黒鯱、蒼鯱、鉄鯱、大鯱、荒鯱、跳鯱、鬼鯱、早鯱と命名された。
巨鯨をも獲物とする鯱を艦名とするのは、戦艦を一撃で屠る水雷強襲艦に格好であると、命名した海軍高官は悦に入ったらしい。
戦隊結成の2か月前に起こった北太平洋海戦の結果、太平洋から米国の戦艦はすべて姿を消していた。
すでにインド洋の英国海軍も一掃されており、猛訓練を続ける百一戦隊の戦場は遥か大西洋にしか残されていなかった。
大西洋を縦横に暴れ回りミカドハリケーンと連合軍に恐れられた第一航空艦隊が、新たな作戦(北米上陸戦)の為日本に帰還するのと入れ替わりに、枢軸海軍の戦力低下を補完する目的で新たに欧州派遣艦隊が編成される。
4月16日、佐世保港に集結した軽巡加古を旗艦とし吹雪型駆逐艦6隻で編制された第九水雷戦隊、第九戦隊の重雷装艦3隻、そして百一戦隊は第十一艦隊とされ大西洋へと旅立った。
決戦兵器として生み出された水雷襲撃艦は、その主兵器の84センチ酸素魚雷を敵戦艦に叩きつけることだけを目的として設計された結果、長期間の航海のための装備などは考慮の外に置かれていた。
そのため航続距離は、ひと会戦分持てば十分という巡航速度20ノット4,000キロという短さで、居住性も長期航海を考慮していない劣悪なものとなっていた。
航海中の食事は一応烹炊所こそあるものの基本的に保存食に依存することになっていて、食料の貯蔵も2週間分を目途としており、航海中は伴走する補給船に戦闘班の乗員の大半を移乗させ食事を賄ってこの苦境を凌いでいた。
マルタ島の東方で一航艦と邂逅した第十一艦隊は、順調とは言い難いが大きなトラブルもなくジブラルタルを経由しビスケー湾ラ・ロシェルに入港した。
英米と自由フランス海軍の7隻の戦艦が沈んだイギリス海峡の夜戦が終わったとき、水雷強襲艦は3隻が戦場に浮かんでいた。
水雷強襲艦8隻のうち4隻が魚雷発射前に戦闘不能となり、うち2隻は爆沈した。
残る4隻のうち2隻は、雷撃後に敵艦隊の砲撃で撃沈された。
1隻は大破炎上しながら米軍巡洋艦の側面に艦首から激突し、射出不能となり艦上に残ったままの魚雷が誘爆して大爆発を起こし敵艦を道連れに沈んだ。
最後の1隻は敵艦隊の真ん中を突っ切り、砲撃でぼろぼろになりながら戦場を離脱した。
重雷装艦の180本の魚雷と、魚雷とともに連合軍艦隊を襲った九水戦の突撃が敵艦隊を大混乱に陥れ打ちのめし、百一戦隊の3隻は追撃を逃れかろうじて生き延びることができた。
生き残った3隻のうち2隻は損傷が激しく自沈処理とされ、1隻だけがラロシェルに戻った。
その後百一戦隊は解隊され、生還した大鯱は修理こそされたものの2度と戦場に向かうことは無かった。
水雷強襲艦という異形の艦たちは、歴史に翻弄されたその短い艦歴の最後において、本来の使命を存分に果たし戦史にその名を刻んだと言えるだろう。




