海上護衛隊
海上護衛隊
日本海海戦での勝利から一転、ユトランド沖海戦での日本海軍の実質的な敗北は、海軍の主流を占める艦隊決戦を重視する海軍軍人たちの発言力を一時的にではあるが弱めることになった。
このため第一次世界大戦半ばからの一時期、海軍の中では少数派というより希少種に近い海上交通路防衛を重視する一派の声が通りやすい状況が生まれていた。
日露戦争での浦塩艦隊の跳梁や世界大戦でドイツ潜水艦隊が行った通商破壊戦、そして地中海での第2遣欧艦隊の奮闘、未だ記憶に新しい一連の経験を向後の海軍において重視すべきとの意見が軍令部に採り上げられる。
ドイツ海軍が大西洋で繰り広げた通商破壊戦は、連合軍の艦船約5300隻、計1300万トンを沈め、一時期イギリス経済を破綻の寸前にまで苦しめた。
その主役となったのはディーゼル推進の潜水艦Uボートで、その対策のためイギリス海軍は多くの艦艇を商船の護衛に割く必要に迫られた。
日本海軍がはるばる地中海まで第二遣欧艦隊を送ったのも、Uボートの脅威から通商航路を守るためだった。
地中海で派遣艦隊が得た経験は、輸送船護衛を専門とする海上護衛隊の設立につながった。
連合艦隊の一角を占めるこの艦隊は、平時においては従来海軍が片手間で行っていた各種特務船の護衛を専任とし、戦時には海上交通路を行きかう商船の護衛を担う。
海上護衛隊は海軍関係以外の通常任務として、北方や南方海域における日本国民の主権保護や救難任務、航路調査や航路の安全確保、漁場の監督から不審船監視など日本の主権が及ぶ海域での警備活動に従事した。
この新設の艦隊の創世期の所属艦艇の多くは、主に旧式駆逐艦や旧式水雷艇、艇掃海艇で、そのほか旧式戦艦や装甲巡洋艦から艦首を変えた海防艦があった。
昭和10年前後からは従来の海防艦は特務艦などに名前を変え、改めて船団護衛を主任務とする新艦種の海防艦が海上護衛隊の主力艦艇として大量に配備され始める。
海軍軍令部には通商路防衛のための専任の部署がなかったため、軍務局の海上保安部門を独立させ通商護衛局として海上交通路の管理防衛、商船護衛、対潜水艦戦等の担当とした。
昭和15年、大西洋でドイツ潜水艦隊の大量のUボートの投入による大規模な通商破壊戦が猛威を振るい始める。
それに対してイギリスは護送船団の規模拡大で対抗していく。
大西洋での激化する潜水艦戦に、日本海軍は旧来の組織や戦術では対応ができないと考え始めた。
総力戦研究所による総力戦机上演習では、海上護衛隊を連合艦隊の一部門としていては大規模な通商破壊戦に対し、艦隊戦闘を主務とする連合艦隊は適切な通商路防衛を行えるのかという点で疑義が出されていた。
上記の経緯から昭和15年中に、海上護衛隊を連合艦隊の管轄下から外し海軍部直轄の部門とする独立案が軍令部から出され、昭和16年4月より海上護衛隊総司令部の名前で、大本営海軍部直轄の部門として正式に発足する。
海上護衛総司令部は通商交通路防衛のための4個海上護衛隊と各鎮守府警備府に所属する8個警備隊、それぞれの海上護衛隊と鎮守府警備府に付随する哨戒航空隊、機雷敷設隊、掃海隊、北方警備隊、南方警備隊、内南洋警備隊で構成される。
海上護衛隊は日本と東南アジアを結ぶ南方航路に第一海上護衛隊、太平洋方面島嶼部方面を担当する第二海上護衛隊、北方海域と東日本方面担当の第三海上護衛隊、日本海を含む西日本方面から朝鮮半島中国沿岸部を担当する第四海上護衛隊に分かれている。
各護衛隊の規模は一律ではなく、重要資源地帯である東南アジアと日本をつなぐ南方航路を担当する第一海上護衛隊は、他の3個海上護衛隊の総計に匹敵する隻数の艦艇が配備された。
一方で主に北方海域でソビエト海軍を相手に活動する第三海上護衛隊には、耐寒耐氷設備の整った艦艇が多数配備されたが、その規模は第一海上護衛隊の4分の1余りでしかなかった。
各護衛隊は商船改造空母、軽巡洋艦、海防艦、哨戒艇、掃海艇、敷設艇、水雷艇、駆潜艇が配備され任務に合わせて運用される。商船改造空母は配備数が少ないため軽巡と一部の哨戒艇には双発の哨戒飛行艇を搭載するための改造が施された。
陸海軍と軍需省は総力戦での海上運送確立のため、前年に発足した陸海軍統合造兵局の下に用船計画協議機関を設置する。
戦時に海上護衛総司令部は、そこでの決定に基づき護送船団を組み立て航路を決め行程を計画し護衛戦力を充当する。
航路啓開、通信監理、敵情聴取などにより船団の安全を確保することも海上護衛総司令部の職掌となった。
新組織への人員配置や艦艇、航空機の配備が急ピッチで行われ、昭和16年の8月には4個海上護衛隊の編成が終了する。
同月1日、アメリカ合衆国は対日石油輸出を全面禁止を決定実施した 。