総力戦研究所
総力戦研究所
昭和7年、陸海軍の間で上陸作戦用艦艇の共同開発のための研究会が発足する。
機動輸送研究会と名付けられたこの協議機関は、それ以降陸海軍の間で海上輸送全般での協定、兵器の規格の共通化、装備の共有化と多方面にわたった協力関係を築いていく。
この研究会によって繋がりができた陸海の将校たちの間で、世界情勢や科学技術、歴史など多方面での私的な会合も頻繁に開かれていく。
なかでもいずれ起こる可能性のある国家間の総力戦の研究会は、軍人だけでなく文民官僚や学識経験者、民間企業の経営層から研究者などまでもが加わるなど、私的な枠組みを逸脱する規模にまで拡大する。
多様な参加者が加わるようになると、情報管理や守秘義務上会合で出せない話題も多くなり、会合参加者間でこの研究会をより有意義なものとすべく「研究会を公的管理の下に置いては」という声が上がってきた。
総力戦研究会と呼ばれていたこの研究会の討論の議題は、一部の軍の将官にも情報が上げられており、彼らの根回しによる後押しもあり昭和13年に入り官民合同の形で公的機関として総力戦研究所が発足する。
翌14年4月には陸海軍人を始めとした各省庁の官僚、大学教員、民間企業研究者などからなる研究生を集め、総力戦体制の確立に向けた様々な研究が始まった。
この研究の成果により国防の方針と国家経済活動の指針を考察し、国力の増強をはかり軍民一体となった総力戦体制を構築することが研究所の目的とされた。
昭和15年5月、ドイツ軍はベネルクス諸国とフランスへの地上侵攻を開始、ドイツ軍の電撃戦の前に早くも同月中に、ダンケルクで包囲されていた英仏軍はダンケルク脱出作戦を開始する。
ドイツ海空軍の航空攻撃による連合軍撤退船団の損害は大きく、船に乗れず取り残された13万人がドイツ軍の捕虜となった。
6月にはイタリアが英仏に対し参戦、同月中にフランスはドイツとの休戦協定を結ぶ。
7月に入りドイツ軍による英本土爆撃が始まる。
ドイツは英本土上陸作戦に向け、英本土爆撃を本格化させた。
日々激化していく欧州の戦争、ソビエトとの間で緊張の続く満州情勢、敵対心を隠さぬ中国政府、そして中国大陸の経済的権益をめぐり対立の深まる米国、日本を取り巻く国際情勢は好転の兆しを見せることはなかった。
前年より本格稼働を始めた総力戦研究所は、悪化を続ける国際環境の中で日本の進むべき道を選ぶため、対外戦争を含めた様々な状況下での日本の将来を研究予測した。
最大の仮想敵国である米国との間に総力戦が起こった想定で昭和15年に行われた研究所員による机上演習で、8月から2か月間をかけて導かれた結果は日本必敗だった。
短期戦での限定的勝利は見込めるものの、そこでの戦争の決着は望めずそのまま長期戦となることは必至であり、隔絶した日米の国力の差から日本は長期間の戦争継続に耐えられない。
日本の継戦能力が弱まればソビエトや中国の対日参戦を招き、圧倒的な戦力差から加速的に敗北して行く未来しか日本に答えは無かった。
総力戦研究所から出されたこの悲観的予測は、政権首脳や陸海軍幹部に大きな衝撃を与え、その報告書は非公開とされ関係者には緘口令が布かれる。
時同じく昭和15年10月、英国本土上陸を目指して続いていたドイツ空軍による英本土爆撃は英空軍の優位に傾き、空軍戦力の大消耗を見たヒトラー総統は英本土上陸の延期を決断する。
仮想敵国の一つである英国の脱落を望めなくなった11月、米内首相は総力戦研究所に対して課題を出す。
「短期決戦によりアメリカの戦争継続を断念させるため、手段を択ばぬあらゆる方策を研究しその答えを見つけ出せ」
日本がアメリカに対し優位を保てるのは、日本の戦争準備が終わる昭和17年中頃に開戦した場合、アメリカが総力戦体制に移行すると考えられる昭和18年半ばが限界とされた。
総力戦研究所はその1年の猶予期間の間に、アメリカの継戦意欲を打ち砕く決定的な勝利を収める手立てを導き出すことを求められていた。




