現実でも、うまくいかない
終わってしまうという焦りが、現実と幻界を錯綜させる。
もうすぐβが終了する。
それは、ミラとの時間が終わることを意味していた。現実時間で言えば一日にも満たない間柄なのに、ただ、ひたすら自分へと心を砕いてきた少女の姿が浮かぶ。
ミラを見ているのはつらかった。兄を求める彼女を、どうしても否定したかった。兄を兄と呼ぶこともできず、妹を妹として見ない兄の傍で、サポートキャラクターとして何を考えていたのかなんて思いやることもなかった。相手はNPCで、中身はただのAIだ。決められた行動を選ぶようにできている。サポートキャラクターだから、プレイヤーをサポートしなければならない。それだけだ。
命というものを見つめさせる物語自体が見直されるのならば、リセットにサポートキャラクターが含まれるのはもちろん、次のβ2にサポートキャラクターが配置されるのかどうかも怪しい。記憶の初期化どころか、存在すらもが消去される未来がちらついた。
黒髪黒目の、少女。
シリウス、と呼ぶ声が、別の少女のものに重ねたくなくとも重なっていく。
結名に連絡を取らなければならない。
母があれほど気にしているということは、勉強に、というよりも受験にのめり込んでいるように見えているのだろう。一応、ゲームの日課のほうはこなしているはずだが、夜のことは外からはわからない。
また、県内トップの公立高校でA判定を得ていても、皇海学園ではB判定になることがある。それは、県外からの入学希望者が多いためで、私学ならではの受け入れ態勢が拍車をかけているのも事実だった。
どれだけ勉強してもし足りないのが受験だ。結果は無情に合格か不合格で表される。勉強したこと自体は無駄にはならない。身についたものはいつか自身の知識の片隅で、心の中で、活かされるというのもわかる。
それでも、二度の不合格が、結名の心を深く傷つけているのは明白だった。
現実とゲームの区別はついている。
だからこそ、優先順位ははっきりしていた。
『――はい』
「結名?」
呼び出し音が途切れ、問いかけもなしにその声は聞こえた。小さな筐体へと話しかければ、少し戸惑った声音が応じた。
『どうかしたの? 皓くん』
「んー」
誘いをどう切り出すべきか。
誘うこと自体は決めていても、相手は結名だ。勉強面以外ではなかなか了承しないだろうなと想像が容易く、一瞬ことばを濁した。
『幻界のβ、始まったばっかりでしょ。電話してていいの?』
刺々しい口調に……思わず苦笑が漏れる。
「このあと行くって」
『ふぅん……不具合、だいじょうぶだった?』
その問いかけに、驚いた。少しは気にかけていたのだろうかと、口元が緩む。
「オレはへーき。周りは被害甚大だったらしいけどな」
『十二時間でβ終了とか、VRユニット買ったひと涙目なんじゃない?』
「まあ、すぐにβ2来るし」
似ている。
音だけではなく、声の響きまでが。
つい先ほどまで聞いていた彼女の声が、やはり思い出された。正直、差異が見当たらない。
「それよりさ、気晴らしにどっか行かないか?」
『今からログインするよ』
「いや、ゲームじゃなくて」
お互いさまと言えばそうなのだが、やはり「どこかへ」となるとオンラインゲームの世界が行先になってしまう。
さすがに残り僅かなβを棒に振ってまで、明日も続くゲームに行きたいとは思わない。それを素直に否定すれば、またあからさまに不満げな声音に変わった。
『わたし、普段は講習あるし……』
「まあ、休みとか」
さすがに講習サボれとは言えない。
ストレス発散にはやっぱりカラオケでも――とひきこもりらしく考えていると、予想外の提案がなされた。
『連れてってくれるの? じゃあ――海、行きたい』
海。
太平洋に面した皇海市ならば、それこそ海水浴場は幾つかある。イモ洗いのような場所から、穴場スポットまで様々だが、いずれにせよ、今の時期は。
「今年ってもうクラゲが大量発生してるだろ」
『泳がなくってもいいよ』
「まだバイクには乗せられないしさ」
普通自動二輪車免許は取得済みだが、一年経過していないので二人乗りはできない。となると、公共交通機関を使うことになるのだが、この暑さに気が進まない。
二人で海に、となると、なおのことだった。
焦りの中で切り返していけば、溜息が返された。
『――ならいいよ。無理にとかじゃないし……言ってみただけ。
わたし、日課あるから』
あきらめが前面に出されたことばに、「ああ、うん、おやすみ」と電話を切るのが精いっぱいだった。
うまくいかない。
まだ、気持ちに整理がつかない。
何もかも。
シャワーを浴びたばかりだからか、室内がひどく暑いように思った。
携帯電話をローテーブルに置き、リモコンを適当に操作して設定温度を下げる。眼鏡を外せば、ゴムの部分が汗ばんでいるのがわかった。ぼんやりとした視界に、VRユニットをかぶせて、カウチに転がる。
オレ、どうしたいんだろうな。
現実と幻界、どちらにもその迷いを抱いたまま、唇にキーワードを乗せる。
暗がりから光へと、世界が切り替わる。沈んでいく意識の中で、これからの時間をどう過ごすかという命題が逆に浮かぶ。
終焉に至るだけの、幻。
そこで自身を待ちわびている少女は、きっと傍にいるだけで満足してくれるのだろうなと……どこか哀しい気持ちが、その光の中に融けていった。




