あなただけを・・・(14)
お盆休み明けの来週から周人と理紗はレーシングマシン開発ソフト部へ、遠藤と香は同部署ハード部への転属がそれぞれ言い渡された。周人と遠藤にしてみれば古巣へ戻るわけだが、理紗にとっては新たな職場であり、香にしても横浜へ帰ることなくこのままこの池谷工場での勤務になるのだが、フロアも同じなためにそう悲観的な事はなかった。周人にしてみれば遠藤と部署が違う理紗はフロアは同じでも場所が離れているために、また、周人と同じ部署である事から辞令を受けて嫌な顔をするかと思っていたのだが意外と何の反応も見せずにすんなりとその辞令を受け取っていた。そして昼から行った席の引っ越しも終わり、島原はこの池谷工場での最後の勤務を終えた。違う部署の女性たちから花束を、そしてみんなから盛大な拍手をもらった島原は終始にこやかに最後の日を締めくくったのだった。他の部署の人たちからも信頼され、誰に対しても気さくだった島原は惜しまれるようにして池谷工場を後にした。そして定時後、西桜花中央での送別会は周人たち同じ部署のメンバーだけでささやかに行われた。普通の居酒屋さんでの宴会は座敷とあってくつろいだ雰囲気を与え、実際別れを惜しむというよりはお互いを激励するという風な空気が漂うほどであった。離ればなれになる事を誰よりも嘆いた香は猫のように島原にくっつきながら甘えていたのだが、理紗は遠藤と周人に挟まれる形で座りながらもこれといった動きは見せなかった。会話も遠藤と周人を交えたものであり、周人自身はそれを気に留めていない様子だったのだが、遠藤はいつものように自分に対して寄ってこない理紗に安堵感と寂しさのようなものを感じてしまっていた。確かに、周人という彼氏がいる由衣を好いている遠藤にしてみれば何かと自分に擦り寄ってくる理紗を疎ましく思っていたのだが、こう何もされないとかえって寂しい気分にさせられてしまうのだ。それに、今週の理紗はいつものような濃い化粧は控えめに、ナチュラルメイクという風なごく自然な感じのメイクの仕方に変化していた。目の縁が黒くなっていたマスカラもまつげが逆立つ程度に抑えられ、口紅も濃い紅から薄いピンクへと変わっている。髪型こそ変化がない理紗だったが、素朴なそのメイクは何故か遠藤を引きつけるような要素を持っていた。それに周人に対してはたしかに刺々しい口調のままだったが以前に比べてよく話をするようになっており、島原はそんな理紗の変化を誰よりも感じ取っていた。そんな理紗がトイレへと席を立ち、その隙を狙ってか、隣に座る遠藤が周人との距離を詰めて座ると視線を合わす事無く話しかけてきた。
「最近、宮崎さんって感じ変わったよな?」
そう言う遠藤に目だけを向けながらビールを口にする周人は少し間を空けてから返事を返す。
「そうか?そういや、そうかなぁ・・・」
「お前鈍いよ・・・それにお前にも結構話しかけるようになったし」
「けど、相変わらず辛口だけどな」
「・・・何かあったろ?」
「ないよ」
あまりに素っ気ない返事に何かを感じた遠藤だったが、これ以上聞いてもおそらく何も答えない、何かあったとしてもとぼけると感じたためにやや仏頂面をしながら酒の席だからと考えて理紗本人に聞くことにした。そんな考えを巡らす遠藤に小さくため息をついた周人はおもむろに立ち上がると、島原に擦り寄る香を見ながら座敷の下に置かれている店内用のスリッパを履いた。
「チッ・・・逃げやがって・・・」
一人そうつぶやく遠藤にかぶさるように島原が周人に声をかけた。
「木戸、トイレか?俺も行くわ」
どうやら香から逃れるタイミングを狙っていたのか、島原はスリッパを履いた周人を呼び止めると香に愛想笑いを残して素早くスリッパを履いた。
「あっちも逃げたか・・・」
今度はそうつぶやく遠藤は去りゆく2人の背中を見ながら通りかかった店員にビールのおかわりを注文した。香もそれに便乗しておかわりをオーダーすると、残された2人は何気なしに目を合わせる。だが、それも一瞬の事で今の今まで淑女のような飲み方食べ方をしていた香はここぞとばかりに料理にがっつき、残っていたビールを一気に飲み干した。そんな香を見てまた同じ部署になることにがっくりと肩を落とした遠藤はややひったくる感じで枝豆を口にするのだった。
「やれやれやで・・・彼女には」
今現在会話もない座敷から死角になっている角を曲がってトイレへと続く狭い廊下を行く島原のその言葉に対して周人は苦笑した。お店に来てからずっと離れずにベッタリの香はもはや島原を独占状態であり、みんなとろくに会話もできない島原は困り果てながらもどうすることもできずに途方に暮れていたのだ。これでは送別会ではなく、ただの呑み会である。
「いっそのこと思い切って婚約者がいるって言ったらどうです?・・・・あ~、無駄かな」
「やろな・・・」
そう言って苦笑し合う2人は誰もいない男子トイレへと入ると並んで用をたし始めた。おそらく婚約者がいると告げてもあの香の事だ、もはや略奪愛に走るか、へたをすればストーカーになりかねない。自分の前では大人しい女性を演じている香の正体を見抜いている島原にしてみればこのまま何も言わずに去っていくのが一番であろうと考えていた。
「まぁ、なんにしてもお前さんと一緒に仕事出来て、楽しかったわ」
「こちらも勉強になりました」
トイレでする会話ではないのだが、2人はそう言って薄い笑みを浮かべる。仕事が出来る男を見せつけられた周人にしても、若手がバリバリ仕事をこなす姿を見た島原にしても今回の仕事はかなり実になったものとなっていた。
「それに・・・聞いとった人物像とはえらい違っとったけど、会えてよかったわ・・・木戸周人にも、『魔獣』にもな」
「どう聞いていたかはあえて聞きませんが、彼女を幸せにしてあげてください」
「お前もな」
並んで手を洗う2人はそう言い合うと、鏡越しにお互いを見やった。そのまま鏡を介して小さく笑い合う2人にそれ以上の会話はいらない。2人はそのまま言葉を交わすことなくトイレを出ると、島原を前に狭い廊下を進んでいくのだった。
いなくなった周人のせいか、2人で並んで座る理紗と遠藤は何を話するでもなくただテーブルに並んだ料理を黙々と食べていた。島原に逃げられてつまらなさそうにしている香はジッと目の前に座る2人を見ながらやや崩れた体勢になるとさっき運ばれてきたビールを一気に飲み干した。
「あんたら、付き合うの?」
唐突にそう言われた遠藤は勢いよく香を見たが、理紗は実に冷静な目を向けるのみだった。このチームに配属されて4ヶ月が経つ上に、ずっと遠藤にべったりだった理紗を見ている香はさすがにそれなりに進展しているだろうと勘ぐったのだ。
「もう付き合ってるとか?」
「付き合ってないですよ・・・」
「付き合ってないけど、Hはしたとか?」
「ありません」
やたらとからんでくる香を素っ気なくかわす遠藤の横では、完全に無視を決め込んだ理紗がレモンの酎ハイに口をつけていた。どこか態度も怪しい遠藤とは違ってそのあまりの落ち着きように違和感を覚えた香はこの落ち着きが示すものが、遠藤と付き合っている、遠藤の事はもうどうでもいいの2種類だと感じていた。この1週間での理紗の変わり様は香の目から見ても明らかであり、心境から来たであろうその変化の原因が遠藤か周人のどちらかしかないことからいろいろ勘ぐっていたのだ。特にこういう話題が好きな香にしてみれば、こういう席を利用して情報を仕入れる事が快感に近い。
「宮崎さんが木戸に惚れたってことか・・・」
香はここ最近の理紗からそうではないかという可能性があると思っていた。だからこそ、わざとそういう風に声を出してその反応を見る事にしたのだった。だが、そう言われた理紗はチラッと香を見たのみで、何の反応も示さない。そのあまりに無反応な理紗を見た香は以前の理紗であればそう言われれば露骨に嫌な顔を見せて反論してきただけに、これは当たらずとも遠からずとの判断を下した。
「最近はよく話してるみたいだし、当たり?」
さっきこの話題で周人に逃げられている遠藤は自分がターゲットから外れた事もあってこれ幸いとばかりに理紗を見やった。だが理紗は相変わらずすました顔をして酎ハイを飲む以外これといった反応は見せなかった。
「どういう心境の変化なの?」
何も言わない理紗に苛立ちを感じ始めた香はやや口調もきつめになってくる。何故か遠藤がそわそわしながら、怪しくなってきた雲行きに緊張した顔を見せた。
「変化も何も・・・別に普通ですよ」
「そうかしら?」
「ですね」
あまりに素っ気ない理紗の態度に感情的になってきた香は持っていたジョッキを強めにテーブルの上に叩きつけるような感じで置く。その音に体をビクつかせる遠藤を後目に、理紗は余裕とも思える表情を崩さない。
「でもまぁ、これだけは言っときます・・・」
睨む香を実に冷静な目で見た理紗は穏やかな雰囲気を保ったままそう口にした。
「たしかに、以前ほど木戸さんを嫌ってはいませんよ・・・でもそれは木戸さんを好きになったとか、気になったからじゃないです・・・」
「じゃぁなによ?」
「木戸さんは・・・思っていたよりもいい人だったと気付いた、ただそれだけです」
きっぱりそう言い切った理紗はやや口元を緩めつつ酎ハイを飲んだ。今の言葉に本当に周人を好いていないのか疑問を抱いた遠藤をよそに、まだ納得のいかない香はさらに食ってかかろうとしたが、トイレから帰ってきた島原の姿を目に留めるや否や、満面の笑みを浮かべて甘えた声を発した。
「おかえりなさぁ~い!」
そのあまりの変わりようにガックリ崩れ落ちる遠藤を見ながら表情を曇らせる周人は、ただ黙って酎ハイを飲んでいる理紗の横に座ると唐揚げをついばんだ。
「何かあったの?」
すました顔の理紗にそっと耳打ちした周人に対し、別に、と素っ気ない返事を返す理紗だったが、周人が耳元に顔を近づけて来ても無反応だったその反応を見てさらに疑問を抱く遠藤だった。
送別会を締めくくる島原の別れの挨拶が終わる頃、涙を流す香はここぞとばかりに島原にしがみついていた。そんな香を優しくなだめながら激励の言葉で締めくくられ、ここに島原の送別会は幕を閉じた。4人で集めた会費で勘定を済ませて店を出た5人はこのまま2軒目の店に向かう運びとなり、香の行きつけのバーへとなだれ込んだ。ここでもやはり香が島原を独占してハイペースで水割りを空けていく中、程良く酔った理紗はやや重くなったまぶたをこらえつつ周人と遠藤の会話に耳をそばだてていた。
「遅くなると、彼女、怒ってるんじゃないか?」
「ご心配なく、今日は公認だよ」
「俺ならあんな可愛い彼女だったらすぐに帰って安心させてやるけどな」
「あっそ・・・オレはお前とは違うからな」
本当に彼女を好いているのかどうか疑問になる素っ気ない返事の周人は甘いカクテルを口にしながらややうんざりした顔をしてみせた。こういう酒の席において程良く酔ってきた遠藤は必ずと言っていいほど由衣のことで周人に絡んでくるのだ。それはある意味、周人にしてみれば酒乱気味の香よりもたちが悪かった。
「美人でスタイルも抜群だし・・・性格もいい・・・・・・最高だよ、彼女は」
「そりゃどうも」
「それが・・・何でお前なんかに」
愚痴愚痴言う遠藤を完全に無視した周人は適当な相づちを打ちながら疲れた顔をしてみせた。こういう事からも遠藤が由衣を好いている事はありありとわかるのだが、それでも遠藤はかたくなにそれを否定するのだ。
「水着姿も・・・最高だったなぁ」
先日のプールでの遭遇から脳裏に焼き付いて離れない由衣の水着姿を思い出しながらそう言う遠藤の顔はだらしがないほど緩みきっていた。そんな遠藤に深々とため息をついた周人はいやに大人しい理紗の方に目をやると、ばっちり目が合ってしまいやや気まずい顔をするのだった。
「木戸さんだからですよ・・・」
目が合ったせいではないのだがまるで寝言のようにそう言う理紗は両手をカウンターの上につき、それを枕のようにして眠るかのようにしながら横に座る2人をとろんとした目で見ていた。
「木戸さんだから・・・彼女はああなんですよ」
そう言うともはやまぶたの重さに耐えきれなくなったのか、理紗はゆっくりと目を閉じた。眠ってはいないのだろうが、もはや限界に近いと悟った周人は席を立つと香に羽交い締めに似た形で絡まれている島原に近づいていった。理紗は遠ざかる周人の気配を感じて再びゆっくりと目を開くと自分を見ている遠藤を通り越して奥のボックス席に座る島原の前に立つ周人の背中をぼんやりと見つめていた。そんな理紗の視線を見てか、遠藤も周人の方に顔を向けた。
「・・・彼女が・・・羨ましい・・・」
理紗は遠藤にも聞こえない程小さな声でそうつぶやくと、そっと目を伏せた。心の奥に封印した想いを、さらに深く閉じこめるように。
周人は言葉少なげに島原に別れを告げると、ダウン寸前の理紗を連れて店を後にした。結局、島原とじっくり話も出来なかった周人だったが、それはそれで良しとしていた。何もこれで2度と会わないわけではない。同じ会社で同じ仕事を続けていればまた必ず会えるのだ。そう信じる周人の意志を感じた島原もまた簡単な言葉と握手を交わしたのみでこれといって何も言わなかった。ふらつく理紗の体を支えながらひときわ明るい駅へと向かう周人は見た目とは違う力強さをもって理紗が苦しくないように気を配りながら人で混み合う道を歩いた。やがて到着した駅のホームのベンチに腰掛ける周人の横では自分にもたれかかるようにして眠っている理紗がいた。今いる西桜花中央から理紗の住む桜ノ宮東までは電車で約三十分の距離である。本来であればすぐ隣の駅である桜花南で降りる周人だったが、このまま理紗を1人で返すわけにもいかないために家まで送っていくつもりだった。電車はまだ到着しておらず、あと5分程度でこの終着駅たる西桜花中央へやって来る電車がある事を天井からぶら下がるようにして設置されている電光表示板がその接近を表していた。既に規則正しい寝息をたてている理紗からはアルコールと、シャンプーかコロンのいい香りが流れてきていた。由衣が身につけているものとは違うが、最近変えたと思われるその香りは以前に比べて甘さを持っているようだった。鼻をつくきつめのコロンを今の甘い香りのコロンに変えた意図はわからないが、少なくともミレニアムでの青空とのいざこざをきっかけに理紗の中の何かが変わったせいだと思う周人は理紗の中で良い方向に気持ちが向き始めていると感じていた。やがて電車がやって来てこの終点止まりのその電車が反対方向終着駅の桜東が丘行きに変わる。目を覚ましてしるのかそうでないのかがわからない状態でフラフラ歩く理紗を支えながらその電車に乗り込んだ周人はガラガラの車内の連結部の横にあるシートの奥、ちょうど車両と車両のつなぎ目の壁部分に理紗を座らせるとその横に自分も腰掛けた。荷物が落ちないように自分の鞄と重ねた上で、スカートをはいている理紗の足下を気にする周人の肩に理紗の頭が倒れてくる。そのまま右肩を貸す周人もまた大きなあくびをしてそっと目を閉じた。そのまま眠ってしまったのか、いつの間にか動いていた電車の中がざわめく声にふと目を開けると、すでに電車は西桜花中央駅から5つ目の駅を出たところだった。もはや車内は混雑の極みとも言える状態であり、酔ったサラリーマンやOL、若者たちが大声で話する声に起こされたようだった。思った以上に眠ってしまった周人は目的の駅までまだあと十五分はかかる事を意識しながらずっと同じ態勢を保っている理紗を見る。すやすやとした寝息を立てて眠る理紗に小さな笑みを見せてから目を閉じる周人だったが、うとうとしながらも眠らないように努力した。やがて目的の駅の1つ手前の駅である桜ノ宮でほとんどの人が降りてしまったせいか、さっきに比べればやけに広く感じる車内を見渡しながら降りる準備を始めた。そうこうしているうちにすぐに電車は桜ノ宮東に到着し、周人は理紗を抱きかかえるようにして電車を降りる。わずかながらの人しか乗り降りしない狭いホームのベンチに一旦理紗を座らせた周人は電車が去りゆく風を感じながら倒れそうな理紗を背負い、少し長めのエスカレーターへと乗り込んだ。自分は切符を購入しているからまだいいが、定期券の理紗は電車を降りる際に一旦目を覚ましたものの、今では周人の背中で再び眠ってしまっている。悪いとは思いながらも了承を得ずに鞄の中から定期券を取り出した周人は改札口で駅員に切符を渡し、眠っている理紗の定期券を提示して通してもらう。酔っている彼女を背負う彼氏を見るかのように同情する駅員の視線に軽い会釈をした周人は地下にある駅の構内から一旦地上へと上がると理紗の家がある北側の方へと歩き出した。桜ノ宮から続く大きな県道沿いに出れば、以前理紗を車で送っていった事がある周人にしてみれば道はわかったも同然だ。蒸し暑い夏の夜の中にあって大きな川が流れる桜ノ宮東は比較的緑が多い高級住宅街のような町並みなせいか、きちんと整理された道に公園といったものがあってそんな暑さを和らげてくれるような気がしていた。川沿いの道もジョギングが出来るようにしっかり整備され、その道の終点には目指す県道があるようで車の白いライトと赤いランプが川のように流れているのが確認できた。いまだに背中でスースー寝息を立てている理紗がずり落ちて来たために体を揺さぶって元に戻した矢先、うめくような声と共に理紗が目を覚ました。
「う~ん・・・・・・・・・揺れてる・・・?」
「お目覚めかい、お姫様?」
まだ半分夢の中なのか、寝ぼけた声を発する理紗に苦笑混じりの言葉をかけた周人の横を白い軽自動車が背後からライトを照らして通過していった。
「き、木戸さん?」
「寝てていいよ、もうすぐ家だし」
周人に背負われている事にハッとなったせいか、しっかりと目が覚めた理紗は小さなあくびを噛み殺すときょろきょろと周囲を見渡した。だが頭はぐらぐらしてしまう自分を自覚した理紗は、それだけではない理由も重なって周人の背中に顔をくっつけるようにしてジッと動きを止めた。降りろと言われれば降りようと思っていた理紗はその周人の言葉に甘えてもう少しこのままでいたいと思ってしまったのだ。規則正しく揺れるその動きは理紗の心臓の動きを少しずつ速めていった。完全に体を密着させているため、そう大きくはない胸から響くその音が周人の体を介して聞こえているのではないかと思うと、さらにその速度が速まってしまう。それでも離れたくないという気持ちが大きい理紗はそのままジッとして周人の背中の温もりを感じながら胸の奥に封印した想いがこみ上げてくるのを感じていた。
「気分、悪くないか?」
そう問われてくっつけている顔を動かし、背中越しにうなずく理紗にそうかとだけ答えた周人は県道とぶつかる交差点の信号待ちでその歩みを止めた。無数のライトが2人を照らしては去っていく。その人たちから見れば自分たちは恋人同士に見えるのかなと思いつつ、理紗は少し寂しげな、悲しそうな表情をしてやって来る車の反対方向へと顔を向けた。
「・・・木戸さん?」
「ん~?」
信号が青に変わり、前へ進み始めてから周人を呼んだ理紗は顔を背中にくっつけたまま小さな微笑を浮かべて見せた。
「・・・・いつかは私にも、木戸さんみたいに心の広い彼氏、できるかなぁ?」
横断歩道を渡って左折する周人は淡い微笑を浮かべると上り坂になっているその県道沿いの道をゆっくりした足取りで歩きつづける。規則正しいその動きだが眠気は襲ってこない理紗は周人から感じる温もりを噛みしめるようにジッと身を任せていた。
「オレぐらいのヤツならいっぱいいるよ・・・必ず見つかるさ」
「・・・ありがと、木戸さん・・・んで、ごめんなさい」
答えになっていない、よくわからない返事を返した理紗に一瞬歩くリズムが狂ったようになった周人だったが、そのまま何も言わずに前へと進んだ。理紗は、周人にお礼とお詫びをどうしても言いたいとこういうチャンスを狙っていたのだ。青空というしがらみから自分を解放してくれた事、何も言わずに買い物に付き合ってくれたこと、出張先でセクハラ所長から救ってもらったこと、以前出張土産に限定アイスを買ってきてくれた事、これまでのいろいろな感謝の気持ちがその『ありがとう』には込められていた。そして、その『ありがとう』を言えていなかった自分を苦々しく思っていた理紗は心の中の満足度が半分満たされた気がした。次に、いろいろ嫌味を言ったこと、素直でなかった事、家族をバカにした事、以前にいちごのアイスを好きでいながら嫌いだと言って困らせた事、それらいろいろな事に関しての嫌な自分を謝る『ごめんなさい』が言えた事でもう半分の満足度が満たされ、理紗は自分の気持ちがリセットされた気分になっていた。
「もう1つあった・・・」
何かに思い当たったのか、不意にそうつぶやいた理紗に反応した周人に対し、何でもないと返事した理紗だったが、その顔はさっきまでとはうって変わって暗いものになっていた。そんな理紗の表情など見えない周人はその返事で納得したのか、自分を背負ったまま息を切らすことなく黙々と急になりつつある坂道を上がっていく。
『好きになって・・・ごめんなさい。でもこの気持ちは大事にしまっておきます・・・だって・・・』
心の中でそうつぶやく理紗は今にも泣きそうな表情になっている。
『決して叶わない想いだし、何より・・・・・・・あの子には、絶対勝てそうにないから』
プールで見た周人と由衣、そしてその後喫茶店で出くわしたその2人から決して引き離せないという、ごく自然な空気を感じていた理紗は自身の恋心を自覚しながらも『好きです』と言うつもりがなかった、それを表に出す気がなかったその感情をさらに心の奥深くに封印することを決めたのだ。
『今、この時が、ずっと続けばいいのに』
そう思う理紗の頬を一筋の涙が流れ落ちる。好きな人の背中に揺られる理紗は決して好きだと言わない決心を胸に、その温もりを感じながら今、この同じ空気を共有している時間を永遠に忘れないと誓うのだった。




