今と昔の幻影-Shuto Side-(2)
三月半ばにレーシングカー開発部門主任であり、ソフト開発グループのリーダーでもあった大神に呼び出されたのは周人と遠藤であった。通称『新館』と呼ばれている自分たちのオフィスがある建屋の2階にある小さな会議室へと呼ばれた2人は四月から3ヶ月間、市販車の新機種開発グループに編入されることが決まった旨を伝えられてやや複雑な表情を浮かべたのだった。もちろん3ヶ月後に解散という保証はない。今回のプロジェクトが軌道に乗ればおそらくその状態を維持したまま次の車種開発に移行されるであろう。周人をライバル視している遠藤にとってここで実力の違いを見せつけてやるといった意気込みもあり、2人はその辞令によって4月1日付けをもって新車種開発グループへと編入されたのだった。そして4月1日より入社した大卒の女性新入社員宮崎理紗、さらには組み立てを担当している横浜支部から春木香主任が赴任、そしてグループリーダーとして関西支社の島原丈が出向し、計5人での電気系統開発プロジェクトチームが誕生したのだった。そして春の季節を満喫できる四月の終わりに親睦を図ろうと島原が企画したのがこのグループ親睦会だったのだ。桜町の西端に位置する大きな街、西桜花中央は池谷工場からの最寄りの駅としてだけではなく、桜町以西へ行くための拠点としても重要な場所である。そこの居酒屋さんの座敷で親睦会は行われ、程良くお酒が回った頃にメンバーのプライベートな部分をかいま見ることが出来るようになってきた。
「宮崎さんは、彼氏とかいないの?」
少々いつもよりアルコールが進んでいるのか、遠藤はいつもと違った緩めの口調に緩めの顔をしながらそう理紗に問いかけた。
「少し前までいたんですけど、今はいないですねぇ」
「どういう人が好みなの?」
遠藤と同ペースで飲んでいるにも関わらず、そう質問を投げる周人の表情に変化は見られない。顔に若干の赤みを帯びてきている遠藤とは違い、普段と全く変わらないのだ。
「こらお前!お前には彼女が・・・しかも超可愛いあんな美人の彼女がいるだろうが!そういう質問をするんじゃない!」
確実に酔っているとわかる言い方をしながらそうまくし立てた遠藤に顔を引きつらせるしかない周人は、はいはいとばかりに肩をすくめると近くにあった枝豆に手を伸ばした。
「で、どういう人が好みなん?」
めっぽう酒に強い島原はビールに飽きたのか、冷酒を片手に持っていた。しかし全く酔った気配は見せずにそう聞く表情もニヤけてはいるが素であろうと思える。
「う~ん・・・私を大事にしてくれてぇ、お金もあってぇ、んで、顔もいい人」
こちらも酔っているのか、バカ正直にそう答える。だが、酔っているとはいえはっきりそう言える彼女をどこか微笑ましい思いで見ていた周人は昔の誰かを思い出して苦笑を漏らした。
「遠藤君って、ご両親は何の仕事してるん?」
「はい、父は氷川電工で働いています」
その言葉に理紗はキラーンと瞳を輝かせ、島原はほぅという感じで口を開いた。全く興味がないのか、周人は手羽先を頬張りながら前に座る香にビールをついでいる。
「氷川っていうたら電機屋では大手やん・・・役職付きかいな?」
「ええ、販売兼営業部長してます」
その言葉に理紗はますます瞳を輝かせ、島原はますます感心したようなため息を漏らした。
「親父さんもエリートってところやなぁ・・・すごいなぁ」
エリートという言葉に敏感に反応した理紗はこの時遠藤をターゲットにする事を誓ったと言っていいだろう。その証拠にもはや遠藤にベッタリ寄り添うようにいろいろ私生活の事を根ほり葉ほり聞き出すようにしている。酔った遠藤も今風で可愛い感じの理紗の髪が顔に触れるか触れないかの状態で揺れているのを見ればニヤけた顔にもなるだろう。周人はそんな遠藤を見ながらビールを口にすると小さな笑みを浮かべるのだった。
「ところで、木戸君の彼女って、そないに美人なん?」
コップを置いた周人にそう言葉を投げる島原。そして今の質問に周人が口を開いて答えようとしたその瞬間、先に口を挟むように割り込んできたのは遠藤だった。
「そりゃもう!あの赤瀬未来に匹敵しますね、間違いなく!社長もお気に入りでファンだし・・・ホント羨ましい・・・」
どこか必死で、しかも早口でまくし立てるようにそう言う遠藤は周人を睨むようにして理紗につがれたビールを口に運ぶ。余計な事まで言う遠藤に対し少々ムカっときた周人だったが、そこは表情に出さずに何も口にしなかった。
「へぇ・・・そんなにですか?写真とかとかないんですか?」
遠藤の傍を離れずに目を細めてそう言うのは理紗だ。理紗自身もかなりモテる方で、大学時代にはよく声をかけられたり告白されたりしたものだ。さすがに今をときめくスーパーアイドル赤瀬未来にも勝てるとは言わないが、心の中では密かに対抗心を持っているのは確かだ。
「あ、いや・・・・写真、あったかなぁ」
とぼけようと思案する周人のその言葉が終わらないうちに、遠藤はビシッと周人に向かって指をさしながら声を張り上げた。
「携帯の画面がそうだ!俺は見た!間違いない!」
芝居がかった動きでそう言う遠藤が普段からは想像もできない姿だけに本当なら面白いところなのだが、暴露された周人にしてみれば迷惑この上ない。こいつとは2度と飲みに行きたくないと思いながら周囲を見渡すと、そこにいる全員がジトッとした目で『早く見せろ』と訴えているのがわかった。それでも無視しようかと思った瞬間、どういう感じでタイミングを計ったかはわからないが4人が一斉にすっと片手を出して催促をしたのだ。さすがにやれやれといった感じの表情を見せた周人は観念してポケットに入れておいた携帯を取り出すと島原に手渡した。その折り畳み式の携帯はガラケーでは最新機種であり、画素も鮮やかで機能も多彩な事で有名だった。大きめの画面を開いた島原はそこに映っている人物、可愛らしい、まさにどこかのアイドルと言っても過言ではない顔をした少女っぽさを残す女性の姿に無意識的なため息を漏らした。
「ホンマ、可愛いな」
島原の横でビールをあおっていた香が覗き込むように画面を見て驚く顔をしてみせる。そんな2人を見てあまりいい気がしない理紗は島原に携帯を渡すよう催促するように手を出してそれを受け取った。
「マジ可愛い・・・・って嘘!?・・・この子、エメラルドのモデルじゃん!」
画像を見るなりそうつぶやく理紗は画面の中で笑顔を見せている由衣の顔をよく知っていた。自分が愛読しているファッション雑誌『エメラルド』に載っているモデルの由衣はその雑誌の中でも飛び抜けた美人であり、同じく人気ナンバーワン男性モデルの佐々木哲生と双璧を成すトップモデルである。その彼女の着ている服は最先端の流行物の為、自然と目が行くようになっていた理紗にとって赤瀬未来共々少なからずライバル心を持っている事は隠しようがない事実であった。
「あぁ、そういや確かそんな雑誌だったなぁ・・・・」
由衣のモデルのバイトに興味がないのか、周人は他人事のようにそうつぶやくのみで由衣に関してのコメントは一切ない。そんな周人を横目で睨むようにしていた遠藤はつぎ足されていたビールを一気にあおった。
「自分の彼女に興味ないのか、お前は?」
突き刺さるような視線を浴びながらそう言われた周人だが、別段表情を変えることもなくその視線を受け止めていた。
「興味ないわけない。けど、雑誌の名前までは覚えてないさ」
「俺なら絶対忘れないけどな」
理紗につがれてまたもや満タンに入ったビールを口に当てながらそうつぶやく遠藤を見る理紗は今の言葉から遠藤が少なからず周人の彼女に好意を持っている事を読みとる事が出来た。周人はずっと睨んでくる遠藤から逃れるように立ち上がると座敷を出てスリッパを履き、トイレへと向かう。熱気が少ない廊下はどこか肌寒く感じられたものの、火照った体にはちょうど良いぐらいの温度となっていた。男子トイレは小用が2つ、そして大用の個室が1つあるのみでそう広くはない。周人は中に誰もいないことに何故かホッとしながら用を足し始めた。その時、トイレのドアが開いて人が入って来る。何故か無意識的に緊張した神経だったが、その人物が島原とわかってホッと一息ついた。
「みんなおもろいわぁ・・・・・こりゃ仲良くやっていけそうやで」
早口の関西弁ながら聞き取るには十分である。周人はそうですねと相づちを打つとズボンのジッパーを上げて洗面台へと向かった。
「しかし、『伝説の魔獣』っていうのもあれやな、意外に普通なんやな」
用を足しながら目の前にある水色のタイルを眺めていた島原のその意外な言葉に何の反応も見せない周人は淡々と手を洗っていた。
「あれ?驚かへんの?」
予想していたものとは全く違うリアクション、正確には何のリアクションも見せなかったのだが、そのリアクションに驚かそうと思ってわざとそう言った島原が逆に驚く結果となった。
「これでも一応驚いてますよ・・・僕は関西でも有名なんですか?」
とても驚いているようには思えない普段と変わらぬ口調に、島原は顔を周人の方に向けるのが精一杯の状態だった。
「僕が『魔獣』であったのは事実ですからね、だから誰がそれを知っていようがそれを受け止めているだけです」
先に何故驚かないのかを説明した周人の言葉に、島原はニヤリとした笑みを浮かべてズボンのジッパーを上げた。
「なるほど、聞いてた通りの人物みたいやな。まぁ、関西では噂も何も聞いたことないわ。俺が聞いたんはこっちにいる知り合いからやから」
ハンカチで手を拭いていた周人は入り口脇にずれて島原の為に1つしかない洗面台の場所を空けた。そう言われても顔色1つ変えない周人に島原はどこか感心しつつ、手を洗い始めた。
「心配せんでええよ、他の誰にも言うつもりないから」
「それはお任せします」
そう言い残すとトイレを後にした周人を見送りながら丁寧に手を洗う島原は誰に聞いたかすら聞いてこなかった周人の神経に苦笑を漏らしながらも、その人が話していた人物像とは少し違った印象を持ち始めていた。
「木戸さんの家族って何やってるんですかぁ?」
トイレから戻ってきた周人に唐突に質問を投げてきた理紗は先程とは座る位置を変えて遠藤から少し離れた場所に座っていた。元から間延びした口調が特徴の理紗だが、酔いの後押しがあってか、さらに間延びした口調はとろけていると言った方がいいか。
「普通のサラリーマンだよ。母親は専業主婦」
座りながらそう言う周人に向かってフンと鼻息を漏らした理紗はやや目を伏せがちに周人を見やった。
「じゃぁ別にこれといった役職もなし?」
「遠藤トコみたいなのではないな・・・」
かつて若くして部長の地位まで上り詰めた父の源斗が更迭されてもう一生役職付きにはならなくなったのは自分のせいだとわかっている周人は言葉を濁すようにそう言ってからビールを一口含んだ。その味が妙に苦いのはビールのせいか、それとも自分が犯した親不孝のせいか。
「そうなんだ・・・ふぅ~ん」
どこか父親をバカにされたようなその口調にさすがの周人も目を細めてジッとビールの入ったコップを見据える。『恵里』の仇を討った代償は自分を取り巻く環境の激変、とりわけ社会的制裁として父親の更迭、学校での待遇などがそれだった。元々大物政治家の下で裏稼業を行う代わりにあらゆる犯罪をもみ消されてきた『キング』と呼ばれた無敵の男は『魔獣』たる周人に倒された。それによって激怒した大物政治家は木戸周人周辺の環境に圧力をかけたのだ。だが以前からその政治家の不正を追っていた警視庁のエリート警部である秋田の努力によって政治家は逮捕され、周人たちはその圧力をはねのけるに至ったのだった。だが結局父は元の管理職に戻ることはなく、周人もなんとか高校を卒業するに至った程度にすぎなかった。
「そういう家庭もありますよねぇ・・ウチもそうだし」
周人の異様な雰囲気を感じたのか、理紗はそう口にした。だが実際は何も考えていない状態での発言だったのだが、周人にしてみれば心の中に芽生えつつあった理紗への不信感、嫌悪感は拭われる結果となった。この時、理紗は今現在彼女もおらず、エリート街道を進んでいる上に父親もエリートと聞いた遠藤にアタックをする事をはっきり決めたのだった。
「ボケ面してますよ」
トイレでも行こうとしているのか、理紗が立ち上がりながら見下ろすようにジトッと周人を見ていた。親睦会の事を思い出していた周人にしてみれば確かにボケた顔をしていたかもしれない。そんな周人に向かってフンと鼻息を鳴らした理紗はプイッとそっぽを向くようにしてから席を外したのだった。そんな理紗の後ろ姿を見送りながら大きなため息をついた周人はこうなった原因が遠藤にあることを思い出し、しかめっ面を浮かべながらパソコンに向き直った。お金持ちが好きだと公言していた通り、親睦会の席で酔っぱらった遠藤から彼のプライベートを根ほり葉ほり聞き出した理紗はターゲットをその遠藤に絞っていた。顔もややきつめながらも整った顔立ちをしている為、どうやら許容範囲に入ったようなのだ。しかも家庭もお金持ちとくれば申し分ない。理紗は積極的にアタックを続けたのだがどうやら遠藤自身は理紗に興味がないようであまり相手にしていなかった。その上ことある事に周人の彼女、由衣の話を持ち出すせいか、ここ最近では全く相手にされなくなってきていた理紗はそのイライラと怒りの矛先を由衣の彼氏である周人に向けたのだ。自分は気付かれていないつもりでも、明らかに由衣を好いているとわかる遠藤の言動にはほとほと周人も困っていた。その上理紗の攻撃である。周人は仕事に集中出来ずに一旦画面から窓へと視線を向けると、さっきよりも大きなため息をつくのだった。
「しかしまぁ、やりにくい環境だぜ」
がっくり肩を落とす感じでうなだれた周人は気分転換にコーヒーを買いにでかけた。1階のショールーム脇にある休憩コーナーへと向かう周人はエレベーターを使わずに階段を下りていく。そのまま誰にもすれ違う事なく1階へ降りた周人は自分に気付いて小さく手を振る聖子に気付いて微笑みを浮かべるとまっすぐ聖子の方へと近づいていった。聖子が座る受付の席はそう大きくない半円を描いており、机の上にはメモ用紙と白い電話、そして案内板があるのみでごく質素な状態となっていた。
「休憩ですか?」
にこやかな笑みをたたえながらそうたずねる聖子に周人は肩をすくめる動作をしてみせる。
「ちょっと人間関係に疲れたから、気分転換かな」
芝居がかった感じでそう言う周人にくすりとした笑いをしてみせた聖子は見上げるようにしながら少々頬を赤く染める。
「まぁ、実際休憩なんだけどね」
そう言いながらさわやかな笑みを見せる周人の顔を見て胸がキュンとなり始めたのはこの4月に入社して間もない頃だった。受付嬢の園、警備部案内係課に配属された聖子はその胸の大きさから男性社員たちの視線を一身に浴びる事となった。元々その大きな胸にコンプレックスを抱いていた聖子はそういった男性からの視線に耐えられなくなった頃、真剣に辞めようとまで考えたのだった。そんなある日、外国への出張から帰って来た1人の男性社員が自分の元へと近づいてきて、おもむろにお土産の入った袋を手渡しのだ。
『これ、イギリス土産。みんなで食べて。いつもご苦労さん』
にこやかな笑みを浮かべてそう言うとすぐに去っていったその男性社員、周人は全く聖子の胸を見ることなくごく自然にお土産を渡すとエレベーターホールへと向かったのだ。それをきっかけに自然と周人を目で追うようになっていた聖子はいつ出会っても絶対に笑顔でねぎらいの言葉をかけ、決して胸など見ない周人に淡い恋心を抱くようになっていたのだ。どちらかと言えば内気な聖子が自分から声をかけて挨拶をするようになったのも周人が初めてであった。だが、同じ部署の先輩から周人には彼女がいることを聞かされた日はショックで夜も眠れないほどだったが、受付嬢のみならず、この工場での周人の人気は密かながら高いものがあるのを知って自分だけはその人たちに負けないようにしようと自分に誓ったのだ。自分が彼女になりたいという願望を捨てた聖子はいちファンとして周人と接することを決め、そして今ではどの女性社員よりも親しく会話できるようになっていた。
「じゃぁ木戸さんはどこだぁって連絡があった時には休憩室でサボってまぁ~すって言っておきますね」
愛らしい笑顔は心から出たものであり、周人に対する想いが溢れているように見えた。周人はそんな聖子の言葉に苦笑を漏らすとやや顔を聖子に近づけていった。それだけでドキドキする心臓の音が周人に聞こえるのではないかと思えるほどの聖子は顔を真っ赤にしながら周人の動きを見るのが精一杯だった。
「うちにはコワ~イ女性が2人いるからさ、そん時はうまくごまかしておいてくれよな」
口元に手を当てて聖子の耳元でそうささやいた周人はそう言い残すと笑顔のまま休憩室へと向かうのだった。もはやまともに周人を見れない聖子はいまだ収まらない胸の鼓動と熱い顔に、ややうつむいたまま小さく手を振ってそれに応えるのが精一杯だった。
十五分ほど休憩して自分の席へと戻った周人は突き刺さるような理紗の視線に一瞬たじろいだが、あえて何の反応も見せないよう注意しながら席に着いた。残りの3人はまだ会議スペースの方に行ったきり戻ってきてはいない。世界の美しい自然を映し出すスクリーンセーバーをかき消すようにマウスを動かした周人はいまだに自分を見ている理紗の視線を感じてさすがにそちらの方へと顔を向けた。さっきまでとは違い、睨むような視線は見つめるといったものに変化している。そんな理紗の顔つきはおそらく恵里が生きていればこんな感じになっていただろうと思わせる雰囲気を持って自分を見つめていた。どこか不思議な感覚に襲われる周人だが、由衣と出会う前であれば確かに動揺していたと思える。
「何、かな?」
落ち着いた声でそうたずねてもしばらく何も言わずにそのまま自分を見つめる瞳にまたもや在りし日の元恋人のそれを重ねてしまい、無意識的に心の中で由衣に謝った。
「なぁんで木戸さんなんかと付き合ってるんだろうって・・・あの子、かなりの人気モデルのはずだもの」
もはや会社の先輩に言うべき言葉ではないのだが、周人は何も言わずに黙ったまま小さな、ほんの少し口の端が動く程度の微笑を浮かべた。理紗はその小さな表情の変化を読みとることができたのか、少し驚いたような顔つきとなる。
「さぁな、俺にもわからないさ」
そのままの表情を維持してそう言う周人は塾でバイトをしていた自分と一緒に遊園地ではしゃいでいた中学生の由衣の姿を頭に思い浮かべた。嫌っていたはずの自分を誘う由衣の意図、そして恵里を亡くした心の傷も癒えぬままその勢いに振り回された自分。何かがうまく合わさった結果が今の2人を結びつけていると思えた。そしてその『何か』を、周人は知っている。
「何それ・・・」
一瞬だが、言葉で言い表せないような憂いに満ちた周人の表情を見てふてくされたようにそう言うと、理紗は周人から視線を外して仕事の続きを始めた。理紗はさっき見せた周人の表情に少しドキドキしてしまったせいもあって画面を睨むようにしたままそれ以降周人の方を見ることはなかった。
結局島原たちの会議の結果、機体は大幅な仕様変更となって周人と遠藤の負担がますます増大する事となった。とりあえず明日の会議の為に遠藤と島原は定時で退社し、周人はヘタをすれば徹夜かというほどの大型残業をする事となってしまった。香は周人と遠藤の仕事が進まなければ先へと動けない業務の為にさっさと定時で帰宅し、理紗は渋々ながら周人に付き合って少しだけ残業となってしまった。普段は机の引き出しにしまってあるプライベートの携帯電話を机の右上に置くと、周人は背もたれに身を任せながら背伸びをし、携帯電話と一緒に机の上に置いた黒い革製の財布だけを手にとってオフィスフロアを後にしてしまった。時刻は午後6時前であり、まだまだ残業が終わらないであろうと予測した周人は工場内にあるコンビニへと夜食を買いに向かったのだ。そんな周人には目もくれずに早く帰りたいという思いから仕事に集中していた理紗はある音に気付いて画面から視線を外した。その音が先程周人が置いた携帯電話がバイブ機能で振動している音だとわかった理紗は明らかに不機嫌な顔をすると睨むように目を細めてその携帯を見る。
「出かけるなら持って行けっつーの・・・バカ」
ため息混じりにそう言うと、すぐに振動の止まった携帯から画面に顔を向ける。だが、周人の彼女があの人気モデルの由衣だと知っている理紗はどうにもその携帯が気になってしまうのか、チラチラと携帯と画面とを往復させる視線のせいで集中力が無くなっていった。自分の周りでも由衣の人気は高い。最近創刊された雑誌のエメラルドは人気があってよく売れているせいか、由衣の知名度は本人が思っている以上に高いのだ。それに自分の親友の彼氏や、男友達たちも由衣の存在を知って絶賛するほどである。その彼女が何故ごく普通のサラリーマンである周人なんかと付き合っているのかがわからない理紗にしてみれば、それがどこか不快感となって余計に周人がわずらわしく思えてしまうのだ。理紗から見れば周人はお金持ちでもなく、特別かっこいいわけでもない。何を言っても反応の鈍い、流れに流されたまま生きているような男にしか見えないのだ。確かに仕事は出来るかもしれないが、それでも遠藤が気に入っている理紗にしてみれば周人は遠藤よりも劣るのだ。
「どこがいいんだか・・・」
つぶやく理紗は気持ちを切り替えて机の上に置かれたファイルへと目をやると再びパソコンに集中していくのだった。
「電話、鳴ってましたよ」
10分後に戻ってきた周人に味気なくそう告げた理紗は決して周人の方を見る事はなかった。画面と書類とを交互に見ながら素早くキーボードに指を走らせている。周人はそんな理紗に軽く頭を下げてから携帯を手に取った。折り畳みタイプの携帯電話に付いている液晶の小窓にはメールを受信したという文字と、その相手の名前が表示されている。由衣にしては時間が早すぎると思っていた周人はそこに表示されている人物名を見てしかめっ面のような渋い顔をしてみせた。そして携帯を開きながら席に着くと机の下でそのメールを開くのだった。そしてしばらくそのままの状態でいた周人は小さなため息をつくと返信メールを返さずに携帯を折り畳むと元あった場所へと戻すのだった。そんな周人を一瞬チラッと見やった理紗はやはり何も言わずに仕事に集中する。さっきの表情からして周人の彼女からのメールではないなと直感的に感じたせいもあって、周人に興味のない理紗にしてみればどうでもいいことにすぎないのだ。周人もまたメールの事など忘れたかのようにパソコンに向かって仕事を開始する。そのまま全く会話の無い状態で約1時間を過ごした理紗は7時半になったのを確認してからいそいそと帰り支度を始めた。
「これ、見ておいて下さい。データはいつもの場所に保存してありますので」
普段にはない実に素直な口調でそう言いながら理紗は印刷した種類の束を周人に手渡した。
「お疲れさん、ありがとう」
笑顔を見せてそう言う周人にすら無表情で頭を下げた理紗はパソコンの電源が落ちているのを確認してから鞄を手にしてやや早足になりながらオフィスを後にした。だがそういう理紗の態度にも慣れきっている周人は何を気にするでもなく自分の仕事に集中しようとした。だがその矢先、携帯が振動を始めて周囲に音を響かせる。あわてて震える携帯をひったくるように取った周人は小窓を覗いてメールか電話かを見極めた。
「なんだっつーの・・・もう!」
唇を尖らせながらそう言うと携帯を開いて着信ボタンを押し、その電話に出る周人だが表情は曇らせたままである。
「もしもし」
やや低めの声でそう言うと椅子の背もたれに体重を乗せ、ふんぞり返るような姿勢を取りながらそう声を発した。
『あ、しゅうちゃん?さっきメールしたんだよぉ~』
間延びした声はどこか幼く、その口調もあってか小学生と話しているような気分になった周人は電話の向こうに漏れないように小さくため息をついてみせた。
「仕事に追われてたもんで・・・で、何だよ」
『お盆に実家に帰るんでしょう?それっていつぅ?』
「ん?あー、そうだなぁ・・・・8月の・・・・14、15ってとこかな。まだ決めてないからさ」
机の隅に置いてある卓上カレンダーをめくってからそう答えた周人は、今年のお盆は由衣を連れて実家に帰る事にしてある為にまだ予定を完全に決めていない事を再認識した。
『そっかぁ・・・じゃぁあ、決まったらすぐ教えてよ。それに合わせて私たちも帰るつもりだからねぇ』
「そうだな・・・みんなとまた飲みたいし・・・決まったらテツにでも連絡入れるわ。それでいいだろ?」
態勢を元に戻しながらそう言う周人の表情はさっきよりも明るいものとなっていた。今回の帰省は両親への由衣のお披露目ということもあり、仲間たちへの紹介もある。以前にその旨を由衣に伝えた際には快い返事をもらっていた。多少周人の実家に行くことに関して緊張を感じているのは伝わってきたのだが、彼氏の親友たちに紹介されるという事に関してはかなり嬉しそうだったのを思い出した周人は1人で小さくにんまりして見せた。
『別に私にしてくれてもいいんだけどぉ~』
すねたようなその言い方に苦笑を漏らした周人は買ってきていた缶コーヒーを一口飲んでから次の言葉を発する。
「わかったよ、じゃぁお前にする」
『はぁ~い!じゃぁよろしくねぇ・・・・由衣ちゃんにもよろしく言っておいてねぇ』
「あぁ・・・・っていうかさ、お前らメールのやり取りしてんだろ?この間由衣からそれ聞いてビックリしたんだぜ。ミカさんからいろいろオレの事聞いたってさ」
『たまたま雑誌の撮影の場所にてっちゃんを迎えに行った時に会ったんだもぉん』
それを聞いた周人は苦々しい表情を浮かべながらもこの電話の相手、須藤ミカが由衣にあれこれ自分の事を吹き込むのを恐れていた。ミカは周人の幼なじみであり、自分を理解してくれている数少ない人物である。そして同じく幼なじみであり、さらに由衣と同じ雑誌のモデルをしている上に由衣の塾でのバイト仲間である三宅光二の合気柔術の師範でもある佐々木哲生と婚約をかわし、桜町の隣にある東雲町で同棲をしているのだ。両者とも周人をよく知っているだけに自分の恥ずかしい過去などを平気で言う性格を知っている周人はややそれに怯えているのだった。さらにかつての恋人恵里の親友であったミカにしてみれば、まさに周人の全てを知っていると言ってもいい。またそれは哲生も同じであるがゆえになおさら頭が痛い状態にあるのだった。
『でも付き合ってもうすぐ1年でしょう?どうするの?』
さっきまでの間延びした幼い口調はどこへやら、年相応の大人びた口調でそう言うミカに少々気を引き締められた周人はチラッとカレンダーへと目をやってから口を開いた。
「何かしようとは思ってるけど、別にいいって由衣が言うもんだから・・・だからせめて何か買ってやろうかなぁって思ってる」
誕生日というイベントは2人ともしっかり行っている。互いに夕食の場所を予約し、そう高価でない物をプレゼントしたりしていた。実際四月の周人の誕生日にはプレゼントとして由衣は鳥を形取ったようなシルバーのネックレスを贈っており、周人はいつもそれを身につけている。会社ではYシャツの下にあるために見えないのだが、周人はそれを気に入っていた。だが、付き合って1年のお祝いをしようともちかけた際にはあまりいい返事を返さなかったのだ。理由を聞いてもこれといった回答もなく、現在ではうやむやになっている状態にあった。
『そっか、じゃぁまた連絡してねぇ~』
そう言い残すとあっさり電話を切ってしまったミカ。一体何故そういう質問をしたかすら理解できない上に一応の答えを聞いてすぐに電話を切るその神経が信じられない周人は長い付き合いながらミカのこういうところに疲れを感じて机に突っ伏してしまった。だが、やはり1周年の記念として何かをした方がいいと思う周人は一旦仕事の手を休めると1階にあるリフレッシュルームへと向かうのだった。




